第13話:悲鳴の全校集会【1/2】
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理科準備室の重いスライドドアが、滑らかな摩擦音すら殺すようにゆっくりと開いた。
隙間から流れ込んできたのは、昼間の校舎の匂いとは完全に異なるものだった。消毒液の匂いと、焦げたプラスチックの臭い、そして何よりも鼻を突く、生温かく鉄臭い血の匂い。
蓮は、ドアの陰から廊下左右の闇へ鋭い視線を走らせた。
特別棟二階の廊下は、薄暗い夕闇と不気味な静寂に包まれていた。天井の非常用誘導灯が、電圧の異常を示すようにチカチカと緑色の不吉な光を明滅させている。その明滅に合わせて、床に伸びる自分たちの影が伸び縮みしていた。
「……誰もいない。行くぞ」
蓮は押し殺した声で告げ、足音を殺して廊下へと一歩を踏み出した。
右手にはサバイバルナイフ。黒く塗装された厚みのある鋼刃が、誘導灯の緑光を鈍く跳ね返す。左腕にはガムテープでぐるぐる巻きに補強した国語辞典と教科書の防具。
そのすぐ後ろを、モップの柄を短く構えた健太と、工作用ハサミを胸元で握りしめた葵が続く。最後に、震える足で互いの肩を支え合う鈴木と女子生徒が滑り出してきた。
目指すは、特別棟の最奥にある非常階段、そしてそこから繋がる体育館脇の裏庭だった。
しかし、渡り廊下の手前、特別棟と本棟の接続部に差し掛かった時、蓮の足がピタリと止まった。
『――落ち着きなさい! 順番に、押さないで集まりなさい!』
不意に、重く響く打撃音やうめき声とは異なる「人の声」が、廊下の奥、体育館へ続く連絡通路の方角から風に乗って聞こえてきたのだ。
一つや二つの声ではない。何百人もの人間が狭い空間に押し込められた時に発する、巨大な地鳴りのようなざわめきと、それらを必死に押さえ込もうとする大人の怒号。
「……なんだ、今の音?」
健太が、蓮の肩越しに暗がりを睨みつけながら囁いた。
「体育館だ」
蓮は、眉をひそめた。
本棟でパニックが起き、正門が突破される直前――五限目の授業が中断された際、一部の学年や部活動の生徒たちは、教頭や学年主任の指示によって「最も広くて天井が高く、鍵の施錠が確実な体育館」へと誘導されていたのだ。
校内放送が切れる前、教頭が誇らしげに語っていた「安全な避難場所」としての体育館。そこには、本棟の狂乱から逃れてきた生徒や、最初からそこに集められていた生徒たち、数百人が閉じ込められているはずだった。
「蓮……見に行ってみないか?」
健太の言葉には、迷いと微かな焦りが混ざっていた。
「もし体育館がまだ無事なら……先生たちや、他の奴らもたくさんいるはずだろ? 全員で固まって待てるなら、その方が……」
「ダメだ」
蓮は即座に、そして冷酷なまでに短く切って捨てた。
「大人数が一箇所に集まるのは、一番危険だ。感染者が一人でも混じっていれば、逃げ場のない屠殺場になる」
「でも……!」
「行くぞ。俺たちの目的地は裏庭だ」
蓮は健太の意見を退け、非常階段へ続く扉へと歩みを進めようとした。
だが、その時。
『キャアアアアアアアアアアッ!!!』
体育館の方角から、建物の鉄骨を震わせるほどの、耳をつんざく悲鳴の大合唱が響き渡った。
それは、一人の人間が上げる悲鳴ではない。数百人の人間が、同時に「死」を突きつけられた瞬間に上げる、絶望の爆発音だった。
「っ……!?」
葵が短く息を呑み、両手で耳を塞いだ。鈴木とその隣の女子生徒は、あまりの音量にその場にへたり込みそうになった。
「な……なんだよ今の……!」
健太が目を見開く。
悲鳴に続いて聞こえてきたのは、ドスドスという激しい足音、重い防音扉が内側から何度も叩きつけられる衝撃音、そして――
『開けろ! 開けてくれぇぇぇっ!』
『嫌だぁぁぁ! 来ないで! 食われる! 食われちゃうよぉぉっ!』
混乱。狂乱。怒号。
体育館の中で、何かが弾けたのだ。
「……見に行くぞ」
蓮は、舌を噛みそうになりながら方針を翻した。
「脱出ルートは体育館の脇だ。あそこがどうなっているか確かめないと、巻き込まれて全滅する」
蓮たちは足音を密やかに殺しながら、特別棟二階の連絡通路を通って、体育館の二階キャットウォークへと続く観覧用ドアへと向かった。
体育館の二階キャットウォークは、普段なら体育の授業の見学や、部活動の応援などに使われる狭い通路だ。そこからは、体育館のアリーナ全体が一目で見渡せるようになっていた。
蓮は、観覧用ドアのすりガラスの隙間に指をかけ、音を立てずに数センチだけ引き開けた。
そこから見下ろした光景は、まさに地獄の縮図だった。
体育館のアリーナには、およそ四百人を超える生徒と教師たちが、すし詰め状態でひしめき合っていた。
天井の水銀灯がいくつか不気味に明滅し、薄暗い光が、恐怖で顔を引きつらせた人々の群れを照らしている。
体育館のすべての出入り口――重厚な防音引き戸には、太い木製の踏み切り板や、金属製の器具用ラックが何重にも立てかけられ、内側から厳重にバリケードが築かれていた。
そして、体育館中央のステージ前。
そこには、パイプ椅子を並べた簡易的な救護スペースが設置されていた。
本棟での最初のパニックや、正門付近の攻防で傷を負った生徒や教師たち十数人が横たえられ、体には防災用の毛布が頭まで被せられていた。
ステージの上に立っていたのは、五十代半ばの教頭だった。
彼は汗みずくになりながらハンドマイクを握り締め、震える声で叫んでいた。
『静かにしなさい! 皆さん、落ち着きなさい! 体育館の扉は固く閉ざされています! 外部の暴徒がここへ侵入することは不可能です! 警察と自衛隊の到着まで、あと少しの辛抱です! 全員、その場に座って待機しなさい!』
教頭の言葉は、悲痛なまでの現実逃避だった。
外部からの侵入を防ぐために築かれた固いバリケード。それは見方を変えれば、内部の人間を完全に閉じ込める巨大な密室に他ならなかった。
生徒たちの不安は、すでに限界を超えていた。
『嘘つけ! 警察なんて来ないじゃないか!』
『スマホも繋がらないのに、どうやって呼んだんだよ!』
『外から変な声が聞こえるんだよ! 開けてくれ! 家へ帰らせてくれよ!』
怒号が飛び交い、泣き叫ぶ女子生徒たちの声がアリーナ内に充満する。
空気は重く、生温かい汗の臭いと、極限の緊張が醸し出す酸っぱい体臭が充満していた。
だが、本当の惨劇の引き金は、外部から引かれたのではなかった。
内部――すでにその中に持ち込まれていた種から、芽吹いたのだ。
蓮たちがキャットウォークから息を呑んで見下ろす中。
ステージ前の救護スペースで、異変が起きた。
パイプ椅子の上の毛布。
本棟の一階で感染者に噛まれ、腕や肩を血で染めて横たわっていた男性教師の毛布が――突然、激しく跳ね上がったのだ。
『ガタッ……!』
毛布を押し退けて起き上がったのは、つい先ほどまで息も絶え絶えだったはずの、陸上部顧問の野村教師だった。
野村の姿は、すでに人間のものではなかった。
首筋の肉が抉られ、赤黒い組織が剥き出しになったままだというのに、痛みを感じている様子など微塵も見せない。
その顔面は土色に変色し、見開かれた両目は毛細血管が全て破裂してどす黒く染まっていた。口からは、泡と混ざり合った鮮血がダラダラと垂れ落ち、顎を濡らしている。
『野村先生……? 大丈夫ですか……?』
すぐ隣で、手当てのために付き添っていた女子保健委員の生徒が、驚いて野村の肩に手を伸ばした。
それが、決定的な間違いだった。
『ギシャァァァァァァッ!!』
野村は、人間の関節の可動域を完全に無視した動作で首を九十度横に捻ると、目の前に差し出された女子生徒の腕に向かって、獣のような咆哮と共に飛びかかったのだ。
『ガブリッ……!!』
生々しい肉の破裂音が、静まり返りかけた体育館内に酷く鮮明に響き渡った。
『ギャアアアアアアアアアアアッ!!!』
女子生徒の絶叫が、アリーナの天井を突き破らんばかりに響き渡る。
野村は、女子生徒の腕の肉を骨ごと噛みちぎり、血の泡を吹きながら、さらにその首筋へと食らいついた。
『ブチブチッ! クチャ、クチャ……』
肉が引き裂かれ、動脈から噴き出した鮮血が、体育館の床を赤く染め上げる。
『ヒ、ヒィィっ……! 野村先生が……野村先生が人を食ってる!!』
隣にいた別の教員が悲鳴を上げて後ずさる。
だが、恐怖はそれだけでは終わらなかった。
救護スペースに並べられていた、他の毛布たち。
傷を負って横たわっていた他の生徒や教師たち――十数人の体が、一斉にガクガクと激しい手足の強直を起こし始めたのだ。
『ゴキッ……ゴキゴキッ……』
骨が鳴る不気味な音が重なり合う。
毛布が次々と跳ね飛ばされ、血まみれの化け物と化した生存者たちが、一斉に立ち上がった。
『アァァァァァァッ!!』
『ガァァァァァァッ!!』
彼らは血走った目を剥き出しにし、周囲に群がる無防備な生徒たちに向かって、四つん這いで飛びかかり始めた。
「……あ……あ……」
二階のキャットウォークでその光景を見ていた鈴木が、その場に崩れ落ちた。
健太も、葵も、言葉を完全に失っていた。
体育館という、逃げ場のない巨大な密室。
四百人の生徒たちがひしめくその中央で、十数体の感染者たちが一斉に捕食を開始した。
体育館のアリーナの中央で巻き起こった凄惨な光景は、一瞬にして四百人の正気を完全に粉砕した。
『ギャアアアアアアッ!』
『助けて! やだ! やだぁぁぁっ!』
『開けろ! ドアを開けてくれぇっ!!』
押し殺されていた恐怖と不安が、一瞬で爆発的なパニックへと変わる。
数百人の生徒たちが、蜘蛛の子を散らすように、あるいは押し寄せる波のように、体育館の四方へ向かって一斉に逃げ惑い始めた。
だが、彼ら自身の選択が、そして学校側が施した安全策が、最大の刃となって彼ら自身に突き刺さった。
すべての防音扉には、外からの侵入を防ぐために、太い木製の踏み切り板や金属製の器具用ラック、重いマットが何重にも立てかけられ、内側から厳重にバリケードが築かれていたのだ。
扉のノブをガチャガチャと狂ったように回しても、扉は一ミリたりとも動かない。
前方に押し寄せた生徒たちがバリケードと扉の隙間に挟まれ、後方から押し寄せる大群の圧力によって悲鳴を上げる。
「押すな! 押すなよ! 潰される!」
「開かない! 鍵が……バリケードが邪魔で開かないんだよ!!」
「うわああああっ! 後ろから来る! 後ろからあいつらが来るぞ!!」
将棋倒しが発生した。
出口に殺到した人波の足元で、何人もの生徒が転倒し、その上にさらに何人もの体が重なり合っていく。脚を踏みつけられ、胸を押し潰され、呼吸すらできなくなった女子生徒たちの悲鳴が、重苦しいアリーナの空気に満ちていく。
その混乱の渦中へと、発症した十数体の化け物たちが容赦なく襲いかかった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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