第12話:校庭の侵入者【1/2】
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太陽が西方へと傾き、彩葉市の空は毒々しい朱色と濁った群青色が混ざり合う、不吉な斑模様に染まり始めていた。
特別棟二階、理科準備室。
遮光カーテンの隙間から差し込むわずかな西日が、空気中に舞う埃の粒子を金色に浮き立たせている。室内の静寂はひどく重く、息を吸い込むことすら躊躇われるほど張り詰めていた。
蓮は、高窓の足元に置かれた木製の踏み台の上に慎重に立ち、遮光カーテンの端を数ミリだけ引き寄せる。
彼の右腕には、分厚い現代文の教科書と国語辞典が、透明なガムテープで何重にも頑丈に巻きつけられていた。締め付けられた皮膚が鬱血し、脈打つたびに鈍い痛みを訴える。だが、その痛みが逆に蓮の意識を氷のように鋭く研ぎ澄ませていた。
「……蓮、外の様子はどうだ?」
踏み台のすぐ下で、モップの柄を短く構えた健太が、掠れた声で問いかけてきた。首筋には大粒の汗が伝い、開けた制服の襟元を濡らしている。その隣には、両手で工作用のハサミを固く握りしめた葵が立っていた。黒く澄んだ瞳に恐怖を耐え忍ぶ強い意志を宿し、蓮の背中を見つめている。
「静かにしろ。……正門の周辺に、動きがある」
蓮の言葉に、準備室の奥に身を潜めていた鈴木たちも、ひっと息を呑んで体を硬直させた。
蓮の視線の先――四階建ての本棟を斜めに見下ろす角度にあるグラウンドと、その最前線に位置する正門の光景。
見慣れたはずの黒い鋳物の鉄格子門は、すでに原型をとどめていなかった。数時間前に全校放送で「安全のために施錠した」と誇らしげにアナウンスされた太い金属チェーンと巨大な南京錠は、門扉の中央でいびつに捩れ、軋み声を上げている。だが、そのチェーンだけで持ちこたえられる限界は、とうに過ぎ去っていた。
正門の向こう側を埋め尽くしているのは、おびただしい数の『人間だったもの』の群れだ。
道路の幅いっぱいにひしめき合い、互いの体を押し付け、重なり合いながら、津波のような質量となって門扉へ倒れかかってきている。スーツ姿の男、買い物袋を下げたままの主婦、近所の中学生、作業着の男。彼らは誰も言葉を発しない。ただ、喉の奥から絞り出すような『アァァ……』『ガァァ……』という無機質な吐息の音を重ね合わせ、巨大な地鳴りのような唸り声を周囲に充満させていた。
その門の内側――グラウンドの土の上に、数人の影があった。
体育教師の田村をはじめとする、柔道部や剣道部の顧問を務める屈強な男性教師たち五人だ。全員が運動着の袖を捲り上げ、手には金属バットや木刀、刺股、そして体育館から持ち出してきた太い跳び箱の踏み切り板を抱えている。その顔は西日に照らされ、泥と汗にまみれて土色に引き攣っていた。
『押さえろ! 踏み切り板を門の隙間に差し込め! チェーンが切れるぞ!!』
田村の怒鳴り声が、夕空に虚しく響き渡る。
百キロ近い体躯を誇る柔道五段の巨漢であり、普段なら生徒たちが一目で震え上がるような威圧感を放つ男だが、今の声には隠しきれない焦燥と底知れぬ恐怖が混じっていた。教師たちは踏み切り板を鉄格子の隙間に無理やり突っ込み、門扉が内側に倒れてくるのを体重で必死に食い止めようとしている。
『田村先生! もう限界です! 南京錠のフックが曲がってきてます!』
『黙って押さえろ! ここを破られたら、校舎の中にいる生徒たちが全滅するんだぞ!!』
田村が金属バットを構え直し、鉄格子の隙間から突き出されてくる無数の『手』に向かって振り下ろした。
鈍い打撃音が響き、感染者の腕が不自然な方向に折れ曲がる。しかし、その手を突き出してきた主――血塗れのブラウスを着た女性――は、眉一つ動かさず、折れた腕のまま再び鉄格子に体を押し付けてきた。
「……痛覚がないんだ」
蓮は、高窓の隙間からその光景を見つめながら、独り言のように呟いた。
「骨が折れようが、肉が裂けようが関係ない。あいつらは、目の前にある獲物に辿り着くことしか頭にないんだ」
「なんて奴らだ……」
健太が歯を食いしばり、モップの柄を握る手に力を込める。
その時、正門の向こう側の群衆の密度が、一段と跳ね上がった。道路の奥から新たな集団が押し寄せてきたのだ。それはまるで、堤防を決壊させようとする濁流の第二波だった。
群衆の最前列、正門の真ん中に、一人の『男』が押し出されてくる。
その姿は、異様という言葉すら生ぬるかった。身につけているのは、ズタズタに引き裂かれた灰色作業着の残骸。上半身の皮膚はあちこちが大きく削げ落ち、赤黒い筋肉と白っぽい脂肪の層が露出している。左の耳たぶから下顎にかけての肉が根こそぎ削ぎ落とされており、露出した歯列と歯茎が、西日を浴びて下品にギラギラと光っていた。
そして何より異常だったのは、その目だ。眼球の表面を覆う角膜が白濁し、その奥にある瞳孔が極限まで見開かれている。知性や意識といった人間の徴候は完全に消失しており、そこにあるのは飢餓と殺意のみで構成された、生ける屍の眼光だった。
『アガァァァァァァッ!!』
その男が、顎を外さんばかりに大きく口を開け、金属的な咆哮を上げた。
折れた指先を鉄格子に引っ掛け、自分の体重の全てをかけて、狂ったように門扉を内側へ押し込み始める。男の背後から、何千という感染者たちの質量が集中する。
『ギギギギギギギ……パキッ!』
不快な金属疲労の音が、グラウンド全体に反響した。正門の中央を縛り上げていた太い金属チェーンの一環が、引きちぎられるように弾け飛ぶ。飛び散った金属片が西日を反射してキリキリと空中で舞った。
『ひっ……!? チェーンが切れたぞ!!』
『押さえろ! 押さえろぉぉぉっ!!』
田村たちが悲鳴のような怒号を上げ、跳び箱の踏み切り板に全身の体重を預ける。だが、人間の筋肉が踏み込める力など、何百という生物の暴走する質量とリミッターを解除された腕力の前には、あまりにも無力だった。
『バキバキバキバキッ!!』
二本目のチェーンが断裂した。そして、巨大な南京錠が、悲鳴を上げるような高音を立てて弾け飛んだ。
「……落ちる」
蓮の唇から、冷ややかな確信が漏れる。
次の瞬間。
重厚な鋳物の正門扉が、内側で支えていた踏み切り板ごと、凄まじい破壊音と共に破砕された。
『ドドシャァァァァンッ!!』
土煙が爆発するように舞い上がり、田村たち教師陣が押しつぶされるようにして後ろへと吹き飛ぶ。
「うわあああぁぁぁっ!?」
「逃げろ! 退けえええっ!!」
吹き飛ばされた踏み切り板の下から、若い体育教師が必死に這い出ようとした。だが、その努力が報われることはなかった。倒壊した正門の鉄格子の隙間から、そして破壊された門の脇から、作業着の男を先頭にした血まみれの群衆が、まるで堰を切った濁流のように、怒涛の勢いで校庭へと雪崩れ込んできたのだ。
『アァァァァァァッ!!』
『ガァァァァァァッ!!』
先頭を走っていた作業着の男は、倒れた正門を乗り越えると、四つん這いに近い驚異的な前傾姿勢でグラウンドの土を蹴った。そのスピードは、人間の走り方とはかけ離れている。関節を無視したような荒々しい跳躍。男の目線の先には、倒れ込んだ同僚を助け起こそうと振り返った、田村の姿があった。
『田村先生! 後ろだ!!』
高窓からそれを見ていた健太が、思わず大声を張り上げる。だが、二階の窓から発せられた叫びなど、風と怒号の渦の中に消え去るだけだった。
田村が振り返った瞬間。作業着の男は、三メートルほどの距離を一瞬で飛び越え、田村の巨体へと真っ向から飛びかかった。
『グシャッ!!』
百キロ近い田村の体が、浮き上がってグラウンドの土の上に激しく叩きつけられる。金属バットが手から滑り落ち、カランカランと虚しい音を立てて転がっていった。
『ぐああっ!? く、来るな! 離せぇっ!!』
田村は必死に抵抗した。巨木のような腕で男の首を押し返し、体を開こうとする。だが、男の腕力はリミッターが完全に外れていた。削げ落ちた皮膚から露出する赤黒い筋肉がぎちぎちと収縮し、田村の腕を力任せに押し潰していく。
そして、男は削げ落ちた下顎を限界まで開き――田村の太い首筋に向かって、その剥き出しの歯列を突き立てた。
『ブチリッ!!』
生々しい、肉が引き裂かれる音が、グラウンドから二階の理科準備室までハッキリと届いた。
『ギャアアアアアアアアアアアッ!!』
田村の口から、全校生徒を震え上がらせていたあの威厳ある声ではなく、屠殺される時の豚のような凄惨な悲鳴が迸り出る。首筋から鮮血が噴水のように空中へと噴き出した。夕日に照らされた血飛沫が、赤い霧となってグラウンドの土を濡らす。
作業着の男は、口内に溢れ出る鮮血を撒き散らしながら、さらに肉を削ぎ落とすように首を左右に激しく振った。
『ゴボッ……ガハッ……!』
田村の悲鳴は、瞬く間に気管に血が詰まる泥のような泡音へと変わり、その大きな体がガクガクと激しい痙攣を起こし始めた。
「た……田村先生が……」
準備室の奥で、鈴木がへたり込んだまま失尿し、床に水たまりを作っていた。女子生徒は両手で葵の服に顔をうずめ、全身をがたがたと震わせている。
葵自身も顔面から完全に血の気が引き、開いた口から吐息を漏らすことしかできずにいた。手の中で、小さな工作用ハサミがカタカタと音を立てて震えている。
「見ちゃダメだ、水島……!」
蓮は葵の肩を強く抱き寄せ、視界を遮ろうとした。だが、蓮自身の目は、グラウンドで繰り広げられる惨劇から一ミリたりとも逸らすことができなかった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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