第11話:繋がらない電話【2/2】
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『ジジッ……ジジジッ……』
準備室の天井の隅に設置された、古びた金属製の校内放送スピーカーから、再び不快なノイズ音が漏れ聞こえてきた。
全員の身体が、瞬時にカチンと凍りつく。
(放送……!? 職員室の設備は生きているのか……!?)
蓮は素早く立ち上がり、スピーカーを見上げた。先ほど教頭が全校放送を行った時には、途中で不自然にブツリと切断された。今回は何だ? 自衛隊が到着したという知らせか? それとも、避難の指示か?
しかし、スピーカーから流れてきたのは、人間の声ではなかった。
『……ガガッ……アァァァ…………』
それは、マイクのすぐ近くで発せられていると思われる、喉の奥を潰したような、おどろおどろしい低いうめき声だった。
『……グルルル……アァ……ガチ、ガチッ……』
マイクに何かがぶつかる鈍い音。そして、骨と肉が擦れ合うような生々しい音。
続いて、遠くから聞こえる誰かの悲痛な叫び声。
『開けろ! 放送室のドアを押さえろ! うわあぁぁぁああっ!!』
『バリバリッ! ガシャーン!!』
マイクが床に叩きつけられ、激しいハウリング音が『ピーーーーッ!!』と校内に響き渡った。そして、数秒間の阿鼻叫喚のノイズの末に、放送は完全に途絶え、二度と音を発しなくなった。
「……放送室も、やられた」
健太が、渇いた声で呟いた。
校内の本部としての機能を果たしていたであろう職員室や放送室までもが、完全に化け物たちに制圧されたのだ。
学校という組織の崩壊。社会インフラの途絶。外部との通信の全滅。
彼らを外側から守る壁は、完全に消え去った。
蓮はポケットの中で静かに冷え切っているスマートフォンを、握りつぶさんばかりの力で握りしめ、理科準備室の閉ざされたドアを見据えた。
助けは、来ない。
自分の足で歩き、自分の手で刃を握り、自分の頭で考えなければ、次の数時間を生き延びることはできないのだ。
(待ってろよ、母さん、結衣……。俺は、絶対生きて帰る)
少年の心の中から、迷いという名の弱さが、完全に削ぎ落とされた瞬間だった。
校内放送のスピーカーから放たれた最後のハウリング音が、耳奥で悲鳴のように残り、そのまま重苦しい静寂の中へと消えていった。
準備室の天井を見上げたまま、誰も口を開くことができなかった。
放送室が落とされた。それは、この学校を管理し、生徒たちに「安全だから待機しろ」と指示を出していた最後の司令部が消滅したことを意味していた。
外部への電話は繋がらない。警察も消防も来ない。そして校内を統括する教師たちすらも、次々とあの化け物どもの犠牲になり、あるいは散り散りになって飲み込まれていったのだ。
「……嘘だろ……」
床に座り込んでいた鈴木が、掠れた声で呟いた。その声は震え、膝に置かれたガムテープ塗れの腕が力なく落ちる。
「放送室まで行かれたってことは……もう、本棟には誰も……まともな大人は残ってないってことかよ……」
「鈴木、泣くな」
健太が、短く、だが重みのある声で言った。
彼は先ほどまでの能天気な笑みを完全に消し去り、手にしたモップの柄を固く握りしめたまま、準備室のドアの方向を睨み続けていた。
「泣いても、わめいても、電波は戻ってこねえし、助けも来ねえ。だったら、涙流す分だけの水分を体の中に残しておけ。これから走るんだからな」
「走るって……どこへ走るんだよ! 放送室がああなったんだぞ!? 廊下にも、階段にも、あいつらが溢れ返ってるんだぞ!?」
「だからこそだ」
蓮が静かに歩み寄り、鈴木の前にかがみ込んだ。
蓮の瞳には一切の動揺がなかった。極限の状況下で、彼の精神は冷徹なまでの生存本能に支配されていた。
「本棟が完全に占拠されたということは、あいつらが次に移動してくるのは、この特別棟だ。ここに留まり続ければ、通信が途絶したまま、誰にも気づかれずに順番に追い詰められて殺される。……俺たちは、夜を待って裏の非常階段から脱出する。それ以外の選択肢はない」
蓮の迷いのない言葉に、鈴木は引き攣った呼吸を繰り返しながら、うなずくしかなかった。
その時、天井の蛍光灯が、チカチカと不吉に点滅を始めた。
『パチッ……パチパチッ……』
昼間だというのに、遮光カーテンで覆われた準備室内が一瞬暗くなり、再び青白い光が戻り、そして――ジュッという不快な放電音と共に、完全に消灯した。
部屋の中が一気に暗闇に包まれる。
カーテンの隙間から差し込むわずかな午後の西日だけが、浮遊する埃と皆の蒼白な顔をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「いやっ……! 電気まで……!?」
一緒に逃げ込んできた女子生徒が、小さな悲鳴を上げて身を縮めた。
蓮は素早く壁際のスイッチパネルに近づき、カチカチと何度か押し込んだ。だが、反応はない。
「ブレーカーが落とされたか、あるいは自家発電や地域の送電線が死んだか……」
蓮は呟き、自らのリュックサックから、父の書斎から持ち出した大型の黒いマグライトを取り出した。
『カチッ』
スイッチを入れると、強烈な白色LEDの光束が暗闇を切り裂き、準備室の壁や棚を鮮明に照らし出した。
通信の遮断に続く、電力の途絶。
現代文明の息の根が、一本ずつ、確実に止められていく音が聞こえるようだった。
「水も出ない、電話も繋がらない、電気も消えた……」
健太が、ライトの光の輪を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「本当に……映画の序盤そのままだな。文明崩壊のフルコースだぜ」
「健太、懐中電灯を出せ。全員、光を直接外や廊下に向けるな。ブラインドやカーテンの隙間から光が漏れたら、あいつらを呼び寄せることになる」
蓮の指示に従い、健太も備品棚から見つけておいた予備の小さな懐中電灯を点け、光量を絞って足元だけを照らした。
準備室内の六人は、暗闇の中で身を寄せ合った。
外界から完全に遮断された、半径数メートルの小さな孤島。
手が届く範囲にあるのは、ガムテープで補強された頼りない防具と、モップの柄、ハサミ、そして蓮の腰にあるサバイバルナイフだけだった。
葵が、蓮の隣に静かに腰を下ろした。
彼女は自分の膝の上に置いたスマートフォンを、何度も指先で撫でている。画面は真っ黒なままで、どんな操作にも応えない。
「……日高くん」
「ん?」
「私のおうち、学校から歩いて二十分くらいのところにあるの」
葵は、暗闇の中でマグライトの反射光を見つめながら、低く穏やかな声で語り始めた。
「お父さんもお母さんも教員だから、もし学校で何かあったら、真っ先に『家に帰りなさい』って言うはずなの。……だから、もし二人が無事だったら、今頃きっと家で私を待ってるか、私を探しに来ようとしてる……」
葵の言葉に、蓮は胸が締め付けられるような思いがした。
自分の母と妹の姿が重なる。
昨夜、父からの電話を受けて、戸締まりを徹底し、非常食を準備させた。だが、あの家が今も安全だという保証はどこにもない。もし通信が切れたことで不安に駆られ、外の様子を見に玄関を開けてしまったら。あるいは、徘徊する感染者たちに窓を破られたら。
「……俺の家も、ここから自転車で十五分だ」
蓮は、己のポケットの中にある不通のスマートフォンを上から握りしめた。
「母さんと妹が、家にいる。通信が切れる前、親父が『鍵を閉めて外に出るな』って伝えてくれたから……きっと、家の中で耐えてるはずだ」
「うん……」
葵は頷き、蓮の顔をまっすぐに見つめた。
「脱出したら……私、おうちに行きたい。日高くんも、おうちに行かなきゃダメだよ」
「ああ。もちろんだ」
蓮は力強く頷いた。
「この学校を出たら、まずは近くの状況を確認して、お前の家と俺の家を目指す。……繋がらない電話をいくらタップしたって、誰も答えてくれない。なら、自分たちの足で確かめに行くしかないんだ」
その言葉は、暗闇の中で途方に暮れていた葵の心に、確かな灯火となって灯った。
葵は深く呼吸をし、胸の前で両手を固く組んだ。
「うん。約束ね」
二人のやり取りを横で聞いていた健太が、ニッと歯を見せて笑った。
「おいおい、俺の家をスルーするなよな! 俺ん家なんて、蓮の家のすぐ近所だぞ! 俺のオカン、声がデカいからさ、きっと家の中で包丁持って『来やがれ怪物ども!』って叫んでるぜ」
「城山くんのお母さんなら、本当にやりそう……」
葵が、くすりと小さな笑い声を漏らした。
健太の能天気な軽口は、殺伐とした暗闇の緊張を、いつでも少しだけ和らげてくれた。
だが、安らぎの時間は長くは続かなかった。
『ガタッ……!』
準備室のスライドドアのすぐ外――特別棟の二階廊下から、明確な物音が響いた。
全員の身体が、一瞬で固まる。
マグライトの光を咄嗟に遮り、蓮は息を殺した。
『ズズ……ズズズ……』
重く不自然な引きずり足の音。
それは一つではない。二つ、三つ……複数の足音が、ゆっくりと廊下を歩いてくる。
本棟を制圧した感染者たちが、ついにこの特別棟へと侵入し始めていたのだ。
『グルル……アァァ……』
ドアのすぐ目の前で、喉を鳴らすような不気味なうめき声が立ち止まった。
準備室の中にいる全員が、歯を食いしばり、呼吸すら止めて暗闇の中に身を潜める。
『トントン……』
何かが、緩い力でドアの木枠を叩く音がした。
知性のあるノックではない。ただ、歩行の途中で手が偶然ドアに触れ、そのまま体重がかかっているだけの音だ。
ドアの前に積み上げた薬品棚と作業台の隙間から、木が軋む小さな音が聞こえる。
(頼む……通り過ぎてくれ……)
蓮は、服の下のサバイバルナイフの柄に手をかけた。
手のひらに汗が溢れる。もし、このドアが強く押され、隙間から奴らが顔を突っ込んできたら。この狭い準備室は、一瞬で地獄の屠殺場と化す。
生臭い、腐敗臭と血の匂いが、ドアの隙間から微かに室内に流れ込んできた。
外にいる奴らは、つい先ほどまで同じ校舎で学び、笑い合っていた同級生か、あるいは教師たちなのだ。だが、今や彼らは人間としての理性も言葉も失い、ただ動くものと音、そして生の匂いを求めて徘徊する怪物と化していた。
数分間という、永遠にも思える緊張の時間の後。
『ズズ……ズズ……』
足音は、ゆっくりとドアから離れ、廊下の奥――階段の方へと向かって去っていった。
「ハァ……ッ……!」
鈴木が、たまっていた息を吐き出し、床にへたり込んだ。
全員の全身が、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「……限界が近いな」
蓮は、静かに立ち上がりながら呟いた。
「日没を待つと言ったが、本棟からの感染者の流入速度が速すぎる。完全に特別棟が包囲されたら、夜になっても脱出できなくなる」
「じゃあ……今行くのか!?」
健太が、モップの柄を構え直して蓮を見た。
「いや、まだ外は明るすぎる。グラウンドの群れに見つかれば全滅だ。……だが、予定を早める。日が傾き始め、影が伸びる黄昏時を狙う。あと三十分後だ」
蓮は、マグライトの光を絞り、準備室内にいる全員の顔を順番に見つめた。
「全員、最後の確認だ。防具のガムテープは緩んでないか。荷物は最小限か。……廊下に出たら、音を立てるな。声を出したら、その瞬間に群がられると思え」
生徒たちは、蒼白な顔で力強く頷いた。
もはや誰一人として、「助けを待とう」「電話をかけよう」などと言い出す者は留まらなかった。
社会が消え、インフラが死に、大人が消え去ったこの世界で。彼らは自らの足で歩み、自らの手で運命を切り開くしかないのだと、完全に覚悟を決めていた。
蓮は、ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
相変わらず画面には『圏外』の表示。何一つ、メッセージは届いていない。
蓮は、その端末の電源ボタンを長押しした。
『終了処理中……』という小さなメッセージが流れた後、画面は完全に沈黙し、漆黒のガラス板となった。
バッテリーを温存するため。そして、過去の平和な世界への未練を一度断ち切るためだ。
(通信が繋がらなくても……俺たちは生きてる。言葉が届かなくても、俺たちは会いに行く)
スマートフォンを深くポケットに押し込み、蓮は腰のナイフの鞘から、静かに黒い刃を引き抜いた。
研ぎ澄まされた鋼の冷たさが、彼の掌から全身へと鋭い緊張感を伝播させる。
「健太、葵。行くぞ」
「おうよ!」
「うん!」
絶望の孤島と化した学校の中で。
繋がらない電話を捨て去り、少年たちはついに、生き残りをかけた暗闇への第一歩を踏み出そうとしていた。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




