第11話:繋がらない電話【1/2】
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理科準備室の薬品棚の影で、蓮は右手に握りしめたスマートフォンの画面を穴があくほど見つめていた。
端末から放たれる青白い光が、薄暗い室内に浮かび上がる彼の血の気の引いた顔と、汗で張り付いた前髪を冷たく照らし出している。
ディスプレイの最上部、電波の受信状況を示すインジケーター。普段なら四本の白いアンテナが立ち並んでいるはずのその場所には、小さな感嘆符マークと共に、虚しくも『圏外』という二文字が点滅していた。
(……頼む。一瞬でもいい。電波を拾ってくれ……!)
蓮は親指の腹で、ディスプレイ上の『発信』ボタンを何度も、祈るような強さでタップした。
登録名は『母さん』。
指が触れるたび、画面が一瞬だけ発信シークエンスへと切り替わり、緑色のアイコンが明滅する。しかし二秒と経たないうちに表示は弾かれ、『通話は切断されました』あるいは『お近くの基地局が混み合っているか、電波が届かない場所にあります』という無機質で冷淡なシステムメッセージが返ってくるだけだった。
LINEを開く。母への最新のトーク画面。
『学校で大変なことが起きてる。母さんも結衣も、家の鍵を閉めて絶対に外に出ないで』
二分前に送信を試みたそのメッセージの横には、当然のように「既読」の二文字はつかない。送信中を示す小さな矢印が、時計回りにぐるぐると空しく回転し続けた末、赤色の感嘆符と共に『送信失敗』のエラーへと変わる。
蓮の喉の奥が、焼けるように乾いた。
手のひらにびっしりと冷や汗が滲み、スマートフォンの滑らかな裏蓋が、ぬるりと手から逃げそうになる。
事なかれ主義で生き、面倒なことからは常に一歩引いて静観を決めてきた自分が、これほどまでに一つの通信の確立を切望したことなど、十七年間の人生で一度たりともなかった。
たった一言でいい。「大丈夫よ」という母の落ち着いた声が聞きたい。妹の結衣の「お兄ちゃん遅いよ」という生意気な文句が聞きたい。
だが、手のひらの中にあるこの数万円の精密機械は、今や外界と自分を隔てるただの重たいプラスチックとガラスの塊に過ぎなかった。
「……ダメか、蓮?」
すぐ隣で、壁に背中を預けてモップの柄を握りしめていた健太が、掠れた声で尋ねてきた。
彼の左手にも自身のスマートフォンが握られている。画面はとっくに暗転しており、彼もまた何度も父親や母親に電話をかけ続け、そのことごとくを弾かれた後だった。
「ああ。通話もデータ通信も完全に死んでる。キャリアの緊急通報すら繋がらない」
「171(災害用伝言ダイヤル)は? Web171とかさ……」
「試した。基地局そのものがダウンしてるか、回線制限が限界を超えてシステムごとパンクしてる。パケット一つ飛ばない状態だ」
蓮が短く首を振ると、健太はガリッと己の奥歯を鳴らし、悔しそうに頭を壁に打ち付けた。
「クソッ……! なんでだよ! 日本だぞここ! ちょっとした台風とか地震だって、ここまで完全に通信が途絶えることなんて滅多になかったろ!? なんで電話一本繋がらねえんだよ!」
「健太、大声を出すな」
蓮は静かに親友を制した。
理科準備室のスライドドアの向こう――静まり返った特別棟の廊下からは、時折『ズ……ズズ……』という、何かを引きずる不気味な足音が遠くで響いているのだ。
健太はハッとして口を噤み、噛みしめるように己の膝を強く拳で叩いた。
準備室の隅では、葵が膝の上に置いた自身のスマートフォンを、静かに制服のポケットへと仕舞い込むところだった。彼女の指先もまた、かすかに震えている。
「水島も……ご両親に繋がらなかったのか?」
蓮が声をかけると、葵は少しだけ眉を下げ、力なく首を横に振った。
「うん。お父さんの携帯も、お母さんの携帯も、おうちの固定電話も……全部ダメ。呼び出し音すら鳴らないの。画面をタップしても、電子音が『プツッ』って切れるだけで……」
「そうか……」
「私のお父さんたち、二人とも市内の中学校と小学校で教えてるから……今頃、生徒たちの対応で大変なはずなのに。学校がどうなってるのか、連絡すら取れないなんて……」
葵の声には、必死に押し殺そうとしている涙の気配が混じっていた。
彼女の父親も母親も教員だ。この街全体を襲っている異常事態の中、己の勤め先で幼い生徒たちを守ろうと奔走しているかもしれない。あるいは、自分たちが通うこの彩葉第一高校と同じように、校内に侵入した化け物たちの犠牲になっているかもしれないのだ。
連絡が取れないという事実は、ただ情報が得られないという以上に、最悪の想像を無限に膨らませていく凶器だった。
蓮は目を閉じ、数時間前の出来事を脳裏に反芻していた。
――全校放送で「外部からの侵入を防ぐため校門を施錠した」とアナウンスが流れた、直後のことだ。
あの時、本棟の教室や廊下は、絶望と混乱の渦に飲み込まれていた。教卓の前で腰を抜かしかけていた英語の女性教師や、慌ただしく廊下を走り回っていた学年主任の教師たちは、詰め寄る生徒たちに向かって、必死にこう叫んでいたのだ。
『落ち着きなさい! 保護者の皆様には、学校側から一括して緊急連絡網と固定電話で連絡を取っています!』
『市内の道路が混乱しているため、保護者の方々がお迎えに来るまで、生徒は全員教室で待機しなさい! お迎えが確認できた生徒から順次、無事に引き渡します!』
あの時の教師たちの顔を、蓮は鮮明に覚えている。
口では「保護者のお迎えを待て」と叫んでいたが、その顔面は土気色に引きつり、額からは脂汗がダラダラと垂れ落ちていた。唇はガタガタと震え、視線は生徒たちの顔を見ようとせず、不自然に泳いでいた。あれは、生徒を安心させるための言葉などではなかった。自分たち大人自身が、次にどうすればいいのか全く解からず、現場の崩壊を防ぐために吐き出した、滑稽なまでの嘘であり気休めだったのだ。
(保護者のお迎え、だと……?)
蓮は、その時の思いを苦く噛み締め直した。
正門の向こう側を見れば、一目瞭然だったはずだ。道路は乗り捨てられた車と火災の黒煙で埋め尽くされ、数千という血塗られた狂気の群衆が押し寄せていたのだ。そんな地獄のような道路を、一般の保護者が自家用車で迎えに来られるはずがない。来られたとしても、正門にたどり着いた瞬間にあの群衆に包囲され、車ごと引っくり返されて食い殺されるのが目に見えている。
そして何より、教師たちが言っていた「学校側の固定電話」すらも、すでに死んでいたのだ。
蓮は、避難する直前、三階の学年職員室のドアがわずかに開いていた瞬間の光景を思い出した。職員室の中では、年配の教頭が受話器を耳に当て、狂ったようにフックボタンを何度もカチャカチャと連打していた。
『ツ、ツー……じゃない! なんでトーン信号すら出ないんだ!? NTTは何をやってる! 警察も消防も、どこも出ないぞ!』
『教頭先生! 回線が切れてます! 固定電話の光ケーブルが、外の電柱ごとどこかで切断された可能性があります!』
『バカな! じゃあ、保護者への連絡はどうするんだ!? 市教育委員会とのラインは!?』
『全滅です! 外部との通信手段は、一切ありません!』
教頭のその絶叫を聞いた時、蓮は背筋に氷の塊を叩きつけられたような衝撃を受けた。
現代社会において、携帯電話の基地局や固定電話網、インターネットの光回線といったインフラは、空気を吸うのと同じくらい当たり前に存在するものとして信じ込まれている。だが、その巨大な通信ネットワークという蜘蛛の巣は、一度深刻な物理的破壊やパニックによるアクセス集中に見舞われれば、拍子抜けするほどあっけなく崩れ去る砂の城に過ぎなかったのだ。
通信の遮断。それは、単に「会話ができない」というレベルの問題ではない。
この現代日本において、外部との通信が絶たれるということは、自分が今どこにいて、世界で何が起きており、どこへ逃げれば安全なのかという情報そのものから完全に切り離され、孤立無援の暗闇へと放り投げられることを意味していた。
「……なぁ、蓮」
壁際で頭を抱えていた男子生徒の鈴木が、消え入るような声で呟いた。
「俺たちの親……本当に、助けに来てくれるのかな」
その問いに、準備室内の誰も答えることができなかった。
答えなど、最初から分かっているからだ。来られるはずがない。そして、仮に来ようとすれば親たちが命を落とす。
「学校の先生たちは……『待て』って言ったろ。教室で待っていれば、親が迎えに来るって……警察も自衛隊も来るって……だから、施錠したんだろ? 安全だからって……」
鈴木の瞳からボロボロと涙がこぼれ落ち、ガムテープで固められた己の腕の上に落ちて染みを作った。
「鈴木」
蓮は、静かだが厳しいトーンで呼びかけた。
「先生たちの言った『待て』は、ただの気休めだ。大人たちも、何が起きているのか分かってない。自分たちがパニックにならないために、俺たちを教室に繋ぎ止めようとしただけだ」
「じゃあ……じゃあ、俺たちは捨てられたのかよ!? 見捨てられたのかよ!?」
「違う!」
蓮はハッキリと否定した。
「見捨てられたんじゃない。社会そのものが、一瞬で壊れたんだ。警察も、消防も、NTTも、政府も……全部、あの化け物どもの前では機能しなくなったんだよ」
蓮は自分の手元にあるスマートフォンを、もう一度見つめた。画面はすでに自動消灯し、真っ暗な鏡となって己の瞳を映し出している。
朝、家を出る時には、当たり前のように通知が届き、友達からのスタンプが届き、ニュースアプリが世界中の出来事をリアルタイムで知らせてくれていた。
父からの最後の電話。『街が狂い始めてる。生き延びろ』。
あの電話すらも、奇跡的に繋がった最後の通信の残滓だったのだ。
(親父……あんたは、この通信が途絶えることすら予見してたのか?)
父が書斎のキャビネットに隠していたサバイバルナイフと大型マグライト。そして非常用持ち出し袋。
父は、携帯電話も、テレビも、警察も、水道も電気も、全てが絶たれた文明の終焉の光景を、あらかじめ想定していたとでもいうのか。
「電波が繋がらないってことは」
葵が、ぽつりと静かに言った。
「私たちが自力で動かない限り……誰にも私たちの居場所は伝わらないし、誰も助けに来てくれないってことだよね」
「……そうだ」
蓮は頷いた。
「助けを待つだけの人間から死んでいく。通信が繋がらない以上、この学校の中に留まり続ける理由はない。……外の状況を自分たちの目で確認して、自力で脱出するしかないんだ」
準備室内に、重苦しい覚悟の沈黙が降り積もる。
かつて彼らが無意識に頼り切っていた「社会」「大人」「警察」「通信網」という巨大な安全網は、もうどこにも存在しない。手のひらの中にあるスマートフォンは、もはや時間を表示するデジタル時計か、あるいは暗闇を照らす懐中電灯としての機能しか果たさないのだ。
「……ハハッ、笑えるな」
健太が、自嘲気味に口元を歪めた。
「先月、スマホのギガ数が減っただけで『死ぬー!』とか言ってた俺たちがさ。今や、電波そのものが世界から消えちまったんだからな。SNSのタイムラインも、TikTokも、ゲームのログインボーナスも、全部パーだ」
「健太、お前こんな時にまでゲームの話かよ……」
鈴木が呆れたように鼻を鳴らす。
「当たり前だろ! 俺のデータ、かなり課金して育てたんだぞ! この地獄が落ち着いたら、絶対運営に通信障害のお詫び石請求してやるんだからな!」
健太が誇らしげに胸を張ると、不気味なほど重かった準備室の空気が、ほんのわずかだけ緩んだ。
だが、その直後だった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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