第10話:健太の軽口【1/2】
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『ガチャン!』という金属音が、静まり返った室内で重く響き渡った。
本棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下を無我夢中で駆け抜け、辿り着いたのは特別棟二階にある理科準備室だった。
蓮は最後尾で滑り込むなり、重いスライドドアを力任せに引き閉め、真鍮製の鍵をしっかりと回した。それだけでは足りず、脇にあった大型の薬品棚と木製の作業台を、健太と共に死に物狂いで引きずり寄せ、扉の前にがっちりと噛み合わせた。
「ハァ……ハァ……ハァ……ッ!」
薬品棚の側面に背中を預け、蓮は床へ崩れ落ちるように座り込んだ。
呼吸がうまくできない。肺が灼熱の空気を求めて激しく伸縮し、喉の奥がカラカラに乾いて痛む。教科書をガムテープでがちがちに巻きつけた左腕が、血行を阻害されてドクドクと不快な脈動を打っていた。
隣では、モップの柄を構えて先頭を走っていた健太が、膝に手をついて荒い息を吐いている。はだけた制服のシャツは汗でべったりと肌に貼りつき、日焼けした額から滴る大粒の汗が、床のPタイルに小さな水たまりを作っていた。
「た、助かった……のか……?」
一緒に本棟から逃げ延びてきた男子生徒の鈴木が、蒼白な顔で壁に身を寄せながら呟いた。
この狭い理科準備室に逃げ込めたのは、蓮、健太、葵を含めて合計六人。あの大混乱の教室と廊下から、奇跡的に足をとられず脱出できた者たちだけだった。
「静かにしろ……声を出すな」
蓮は荒い息を必死に押し殺しながら、人差し指を唇に当てて低く命じた。
全員が息を殺す。
準備室内は薄暗く、独特の薬品臭と古びた紙の匂いが充満していた。窓を覆う茶色の遮光カーテンの隙間から午後の斜陽が弱々しく差し込み、舞い上がる細かな埃を金色に浮き上がらせている。
スライドドアの向こう側――廊下から、足音が聞こえてきた。
『ズッ……ズッ……ズルリ……』
床を擦るような、重く不自然な引きずり足の音。続いてドアの目と鼻の先で、喉の奥を鳴らすような『グルルル……』という低いうめき声が通り過ぎていく。
準備室にいる全員の体が、恐怖で石のように硬直した。
逃げてきた女子生徒の一人が両手で固く口を塞ぎ、涙を流しながら激しく肩を震わせる。葵がその隣にそっと寄り添い、背中を優しく撫でていたが、彼女自身の指先も小刻みに震えていた。
音はゆっくりと廊下の奥――階段の方へと離れていく。気配が完全に遠ざかったのを確認すると、部屋を満たしていた張り詰めた空気が、大きな吐息となって一気に漏れ出た。
「う……うわああああんっ……! なんでだよぉ……なんでこんなことになんだよぉ!」
それまで必死に耐えていた鈴木がついに頭を抱えてその場にうずくまり、声をあげて泣き出した。
「みんな死んだよ! 田村先生も、一組の奴らも、みんな血だらけになって食われてた! もう終わりだ! 学校中あいつらだらけなんだぞ! 外だって門が破られたんだ! 自衛隊も警察も来ない! 俺たち、ここでじわじわ死ぬのを待つだけなんだ!」
「やめてよ! そんなこと言わないで!」
過呼吸気味になっていた女子生徒が、叫ぶように遮った。
「お母さんに会いたい……家に帰りたい……! 誰か助けてよ……!」
恐怖と悲観の言葉が、伝染病のように部屋の中へと広がっていく。空気は一瞬にして冷え込み、重苦しい死の気配が六人の体を押し潰そうとしていた。
蓮は無言で、ズボンのベルトに挟んだサバイバルナイフの柄を握りしめた。
(ダメだ……この雰囲気に飲まれたら、人間は簡単に思考を放棄する。動けなくなった瞬間、俺たちは終わる)
何か言わなければ。この場を制し、冷静さを取り戻させなければ。
焦り、蓮が口を開こうとした、その時だった。
「――あーあ、参ったなー」
場違いなほどに間の抜けた、呑気な声が準備室の天井に響いた。
声の主は、健太だった。健太は手に持っていたモップの柄を肩に担ぎ直し、汗を拭いながら、呆れたように天井を仰いでいた。
「なんだよお前ら、さっきからギャーギャー騒いでさ。……完全にパニック映画の観すぎだろ、マジで」
準備室内の全員が、一瞬、自分の耳を疑った。
泣き叫んでいた鈴木も、肩を震わせていた女子生徒も、ポカンと口を開けて健太を見つめた。
「……は? お前……健太、何言ってんだよ……?」
鈴木が、信じられないものを見るような目で健太を睨みつける。
「映画って……お前、さっきの状況見てねえのかよ!? 人が人を噛みちぎってたんだぞ!? あれのどこが映画なんだよ!」
「いやいや、だから言ってるんだって」
健太はまったく意に介した様子もなく、頭をくしゃくしゃと掻き回すと、へらへらとした笑みを浮かべた。
「ほら、映画とかであるじゃん? 物語の序盤で『もうダメだー! 全滅だー!』とか叫んでパニック起こすやつ。お前、今完全にそれだぞ、鈴木。このままだと真っ先にやられる役だからな」
「な……っ!? お前、ふざけてんのか!?」
鈴木が顔を真っ赤にして立ち上がろうとした。
だが、健太はそのままニシシと白い歯を見せて笑い、肩をすくめてみせた。
「ふざけてねえよ。大真面目だっつの。いいか? 今生き残ってる俺たちが、ここで『もうダメだー』なんて泣き言言ってどうすんだよ。生き残ったチームが序盤で全滅するなんて、かっこ悪すぎるだろ」
「お前……思考回路どうなってんだよ……」
鈴木は毒気を抜かれたように、伸ばしかけた手を力なく下ろした。
「それにさぁ」
健太は、今度は腰に手を当て、自慢げに胸を張った。
「俺たちの前には、あの『冷静沈着・事なかれ主義の策士』日高蓮先生がついている! ご覧よ、この腕のガムテープ防具! こんな知恵、普通パニック中に思いつくか? 俺なんてただのモップの棒だぜ? 蓮のこの『準備の良さ』からして、こいつについて行けば間違いねえんだよ」
「誰が策士だ」
蓮はため息をつき、頭を抱えた。
だが、その口元には自分でも気づかないうちに微かな苦笑が浮かんでいた。
バカバカしい。
心の底から、呆れるほどバカバカしかった。
外では人が死に、血が流れ、世界が崩壊しているというのに、この親友はいつだって変わらない。陸上の大会で大雨が降ろうが、過酷なインターバル走で吐きそうになろうが、いつもこうやってくだらない軽口を叩いて周囲の緊張を吹き飛ばしてしまうのだ。
「ふふっ……」
静まり返った室内で、小さな笑い声が漏れた。
葵だった。彼女は両手で口を覆いながら、肩を揺らして小さく笑っていた。
「ごめんなさい……でも、城山くんがあまりにも堂々とバカなこと言うから……」
「ひどいな水島さん! 俺はこれでも必死に場を和ませようとしてんだぞ!?」
心外だと言わんばかりに大げさに手を広げる健太のジェスチャーに、泣いていた女子生徒も「くすっ」と小さな笑い声を漏らした。
部屋の中に漂っていたねっとりとした死の気配と重圧が、健太のバカバカしい軽口によって、ほんの少しだけ解けていく。
(……助かったな)
蓮は胸の奥で、静かに安堵の息を吐いた。
もし健太の能天気さがなかったら、自分がどれだけ正論や合理的な指示を飛ばしたところで、パニックを起こしたクラスメイトたちの心を落ち着かせることはできなかっただろう。
事なかれ主義で自分からは中心に立とうとしない自分と、無鉄砲だが誰よりも周囲を明るく変える力を持った健太。
中学時代からの腐れ縁。
この男が隣にいてくれることが、今この瞬間、どれほど大きな救いになっているか言い表せなかった。
「……たく、お前は相変わらずだな」
蓮は呆れたように首を振り、立ち上がった。
「まあ、健太のバカな言い分はともかくとして、一つだけ確かなことがある」
蓮の声に全員の視線が集まる。冷静さを取り戻しつつある生徒たちの瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、こちらの話を聞こうとする理性の光が戻っていた。
「俺たちは、今生きている。それは紛れもない事実だ」
蓮は一人一人の顔を見回しながら、静かに、しかしはっきりと言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「本棟はパニックに陥っているが、この特別棟はまだ感染者の数が少ない。ドアも頑丈だし、ここは理科準備室だ。いざとなれば薬品や工具もある。落ち着いて行動すれば、絶対にここを脱出できる」
「脱出って……どこへ行くんだよ」
鈴木がまだ不安そうに尋ねる。
「まずは状況の把握だ。それから学校の外の様子を確認する。パニックのまま外へ飛び出せば、正門に群がる奴らの餌食になるだけだ。ここに身を潜めて、体制を整える」
蓮の冷静な分析と指示は、パニックに陥っていた全員の心に、確かな道標として染み込んでいった。
「……わかったよ。お前らの言う通りにする」
鈴木が深く息を吐き、壁に寄りかかって座り直した。女子生徒も葵に感謝の言葉を述べながら涙を拭う。
「よっしゃ! 作戦会議成立だな!」
健太は満足そうに破顔し、モップの柄を床に突いた。
「で、リーダー。次は何をする? こういう状況なら、まずは武器の調達か隠しルートの探索だろ?」
「……相変わらず切り替えが早いな」
蓮は半ば呆れつつも、準備室の中を見渡した。
暗がりの中に並ぶ、大量の実験器具、ガラス瓶、そして工具箱。健太の軽口は、しかし、あながち間違っていなかった。
ここは、この絶望的な状況を生き抜くための、最初の要塞なのだから。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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