第9話:閉ざされた校門【2/2】
おかげさまで、月間ホラー〔文芸〕ランキングにランクインしました!
読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます!
教室の中では、生徒たちが泣き叫び、教師に詰め寄り、窓ガラスを叩いて外に助けを求めるというカオスが繰り広げられている。
だが、蓮たち三人だけは、その狂騒から一歩引いた場所で、冷徹に脱出のための準備を整え始めていた。
彼らはまず、自分たちの机の中から、分厚い教科書や辞書を取り出し、ガムテープで腕や脛に巻き付け始めた。少しでも噛みつきや引っ掻きからの防御力を高めるための、簡易的な防具だ。
健太は掃除用具入れからモップの柄を取り出し、先端の布部分を力任せにへし折って、一本の木の棒を作り出した。
「これくらいしかねえけど、素手よりはマシだろ」
健太が木の棒を振るって見せる。
「水島は、何か武器になるものはあるか?」
「ごめん、弓は部室に置いたままだから……。でも、ハサミならある」
葵が筆箱から工作用のハサミを取り出す。刃渡りは短いが、いざという時の抵抗手段にはなる。
「よし。俺も……これがある」
蓮は、周囲の生徒から見えないようにして、制服のシャツを少しだけめくり、ベルトに挟んだサバイバルナイフの黒い柄を二人に見せた。
「っ!? おい蓮、お前それ……」
健太が目を丸くして声を上げそうになるのを、蓮は手で制した。
「親父が、昨日の夜電話で『これを持っておけ』って言ったんだ。まさか本当に使う日が来るとは思わなかったけどな」
「親父さん、すげえな……。予知能力でもあんのかよ」
「そんなもんじゃない。ただのサバイバル狂いさ。でも、これがあるおかげで、最悪の事態は避けられるかもしれない」
蓮は服を戻し、ナイフを隠した。
武器と防具が揃った。
だが、すぐに教室を出るわけにはいかない。廊下の状況がわからない以上、無闇に飛び出せば、パニックになって走り回っている他の生徒たちと衝突し、二次被害を生むだけだ。
「もう少し待つ。外の状況が少し落ち着いて、廊下の人通りが減るタイミングを見計らうんだ」
蓮は窓際に立ち、ブラインドの隙間からグラウンドの様子を監視し続けた。
正門の鉄格子は、群衆の圧力によって今にもひしゃげそうになっている。体育教師たちは必死に防衛しているが、彼らの体力も無限ではない。
いつ、あの門が突破されるか。
いつ、一階の保健室から化け物たちが這い上がってくるか。
隔離されたコンクリートの箱の中で、恐怖のカウントダウンが静かに、そして残酷に時を刻み続けていた。
教室の中に満ちていたのは、生温い汗の臭いと、浅く乱れた呼吸音、そして抑えきれないすすり泣きの声だった。
二学期が始まってまだ数日。先週までなら、四月からの慣れ合いで少しだらけた会話が交わされ、放課後にはどこへ遊びに行こうかという他愛もない雑談が弾んでいたはずの空間だった。黒板の右隅には、昨日の日直が消し忘れた日付と「日直:三浦・渡辺」という文字が、白チョークの薄い粉となってそのまま残されている。その三浦が今、一階の保健室で狂気と血に塗れた化け物と化し、重い扉の向こうに閉じ込められているのだ。
窓枠に手をかけ、外の正門を見下ろしていた男子生徒の一人が、急に膝から崩れ落ちるように床へへたり込んだ。
「……ダメだろ、これ。絶対に助からないよ……」
「おい、縁起でもないこと言うなよ! 自衛隊とか来るだろ!? 警察だって!」
「来るわけねえだろ! さっきのテレビ見たろ!? 東京の渋谷だってぐちゃぐちゃだったんだぞ! こんな地方の街に自衛隊が来るのに、何時間かかると思ってんだよ!」
「じゃあどうすんだよ! ここにずっと座って、あいつらが門を破って入ってくるの待てってのか!?」
「知るかよ! 叫ぶなよ、こっちに向かってくるだろ!」
怒号と罵声が、教卓の周辺で交錯する。普段なら学級委員や教師が間に入ってなだめるような場面だったが、教卓の後ろに座り込んだままの英語の女性教師は、膝の間に顔を埋めたまま、肩を小さく震わせて黙り込んでいた。大人が子供を守るという当たり前の前提は、治安の崩壊と共にあっけなく破綻していた。
蓮は、ガムテープで教科書を巻きつけた自分の左腕をじっと見つめていた。教科書の紙の冷たさと、強く巻きすぎた粘着テープが皮膚を締め付ける圧迫感。それが、今自分が生きているという不気味なほどの現実感を伝えてくる。
隣に立つ健太は、手にしたモップの破片――先端を無理やりへし折り、鋭い木くずが毛羽立った一本の棒――を、何度も何度も握り直していた。彼の手のひらからは汗が滲み、木肌に湿った痕を作っている。
「……蓮」
健太が、極限まで押し殺した掠れ声で呼びかけてきた。
「おう」
「俺さ……昔、テレビの映画でこういうの見た時、笑ってたんだよな。『なんで逃げ遅れるんだよ、さっさと走れよ』とか言ってさ。……バカだったわ。マジで体が動かなくなるんだな。足の底が床に接着剤でくっついたみたいだ」
「恐怖ってのはそういうもんだ。正常な反応だよ。……動けないのは、お前だけじゃない」
蓮は静かにそう答えながら、視線を葵へと向けた。
葵は、自分のハサミを両手で包み込むように握りしめ、目を閉じて深く呼吸を繰り返していた。弓道部で培った集中力なのだろうか。彼女の表情には依然として蒼白な恐怖が浮かんでいたものの、悲鳴を上げたり取り乱したりすることはなかった。彼女は自らの内側にある「芯」を必死に手繰り寄せ、恐怖という激流に足をとられないよう踏ん張っていた。
「水島、大丈夫か」
蓮が問いかけると、葵はゆっくりと目を開けた。その黒く澄んだ瞳が、直前までの涙を拭い去ったかのようにまっすぐに蓮を見つめ返した。
「うん。大丈夫。手、震えてるけど……引かないから。日高くんの邪魔は、絶対にしない」
「邪魔なんて思ってない。頼りにしてるよ」
この極限状態において、パニックにならず自制心を保てる人間が一人でも隣にいることは、何よりも心強かった。
その時、廊下の方から『ドタドタドタッ』という複数の慌ただしい足音が近づいてきた。
教室内の生徒たちが一斉に身体を強張らせ、ドアの方へと視線を向ける。
滑り込んできたのは、別のクラスの男子生徒ふたりだった。彼らの制服のシャツは乱れ、一人の膝のあたりには泥と、どす黒い染みがべったりとこびりついていた。
「おい! B組! 誰か、水とか持ってないか!?」
息を切らした生徒が、ドアの枠にへばりつきながら叫んだ。
「な、なにがあったんだよ! 下の階は!?」
クラスの男子が問い詰める。
「二階の階段の手すりのとこ! 体育の田村先生たちが、破られたバリケードを抑えようとして……でも、一階の裏口のガラスが割れて、外から何十人も入ってきちゃったんだよ!」
「なんだって!?」
教室内が一気に騒然となる。
「田村先生は!? 他の先生たちはどうしたんだよ!?」
「知るかよ! 噛みつかれてたよ! 首から血を噴き出して、そのまま倒れて……もうダメだ、下は化け物だらけだ! 二階の踊り場まで上がってきてる!」
その報告は、教室内に残されていたわずかな希望を完全に粉砕した。
学校が門を施錠し、体育教師たちが内側から守ってくれているという安全神話。大人が自分たちを守ってくれるという幻想。それらが全て、一階の裏口というたった一つの破綻口からあっけなく崩れ去ったのだ。
「いやああああああっ!!」
後方の席にいた女子生徒が、両耳を塞いで狂ったように叫び出した。
「嫌! 嫌! 来ないで! 誰か助けて! お母さん! お母さん!!」
叫び声は連鎖した。別の女子生徒が過呼吸を起こして床に倒れ込み、引きつけを起こしたようにヒッヒッと短い息を吐き始める。男子生徒のひとりは、もはや教師の制止も聞かず、教室の後ろの掃除用具入れの扉を開け、その中の狭い暗闇へと滑り込んで内側から扉を閉めてしまった。
狂気とパニックが、四角い教室という檻の中で完全に飽和していた。
蓮は、握りしめたサバイバルナイフの柄の感触を、服の上から何度も確かめた。
(下から上がってきている……。本棟の二階が破られたなら、三階のこの教室に到達するまで、あと何分もかからない)
本棟の構造を頭の中で急速に組み上げる。
この二年B組は、本棟の三階、中央階段から少し離れた位置にある。階段を登ってきた感染者たちが真っ先に向かうのは、階段に最も近い一年生の教室や、トイレの周辺だ。だが、獲物を求めて徘徊する彼らが、この廊下を埋め尽くすのに十分もかからないだろう。
「蓮、どうする!?」
健太が木の棒を両手で構えながら、蓮の顔を覗き込んできた。その目は血走り、歯がカチカチと音を立てて鳴っている。
「今すぐ出る。本棟が完全に飲み込まれる前に、渡り廊下を抜けて特別棟へ移動する」
「でも、廊下に奴らが上がってきてるんだろ!?」
「だから今なんだよ! 完全に三階が占拠されたら、この部屋はただの袋の鼠だ! ドアを突き破られたら、逃げ場がない!」
蓮は、教卓の横で蹲っている英語教師に視線を向けた。
「先生」
「ひっ……!」
声をかけると、教師は身体を激しく跳ねさせ、怯えた目で蓮を見上げた。
「先生、俺たちは特別棟に行きます。理科室か家庭科室に鍵をかけて籠城するつもりです。先生も来ますか」
「と、特別棟……? でも、外は……下は……」
「ここにいても、数分後にあいつらがこの扉を破ってきます。行くなら今です」
蓮は手を差し伸べた。しかし、教師はその手を払うようにして、力なく首を強く振った。
「無理よ……走れないわ……私、足が震えて……ここにいるわ。警察が……警察が来てくれるもの……」
彼女の瞳は、現実を受け入れることを拒絶し、すでに破綻した安全な世界の幻影にすがりついていた。これ以上説得しても無駄だった。
「……わかりました。ドアの鍵は、俺たちが出たらすぐに内側から閉めてください」
蓮はそう言い残し、立ち上がった。
教室内を見回す。パニックで叫び続ける者、床に座り込んで動けない者、スマートフォンに向かって不通の電話をかけ続けている者。かつてのクラスメイトたちだ。
一瞬、彼ら全員に「一緒に逃げよう」と声をかけるべきかという迷いが、蓮の胸を掠めた。
だが、事なかれ主義で生きてきた蓮の冷酷なまでの客観性が、それを即座に打ち消した。
(全員を連れて動くなんて不可能だ。集団でぞろぞろ走れば、それだけで音を立てて奴らを引き寄せる。パニックを起こした奴が一人でもいれば、全員が巻き添えになる)
見捨てるのではない。自分に救える限界を知っているのだ。親父から託された命題は『家族を守ること』。そして今の自分にとって、守るべき対象はこの二人だけだ。
「健太、前を張れ。俺が最後尾だ。水島を真ん中に挟む」
「わかった!」
「水島、何があっても前だけ見て走れ。誰かが倒れても、絶対に足を止めるな」
「……うん。わかった」
蓮は、服の裾からサバイバルナイフを引き抜いた。
『シャキッ』という小さな金属音が、狂乱する教室の片隅で静かに響いた。黒く塗りつぶされた分厚い鋼の刃。背の部分に刻まれた凶悪な鋸歯。それを見た健太と葵が息を呑むのがわかったが、質問する時間も余裕もなかった。
蓮は右手でナイフを逆手に握り、左腕のガムテープ防具を胸の前に構えた。
「行くぞ」
蓮が教室の前ドアの取っ手に手をかけ、横にスライドさせた。
『ガラガラガラッ!』
ドアが開いた瞬間、廊下の冷えた空気と、濃密な血の匂い、そして生臭い吐息の匂いが一気に室内に流れ込んできた。
廊下は、すでに異界と化していた。
天井の蛍光灯が一本、不吉にパチパチと点滅を繰り返している。数十メートル先、中央階段の方向からは、重なり合うような靴の擦れる音と、喉の奥を鳴らす低いうめき声が、津波の前鳴りのように響いてきていた。
「……ヒッ」
葵が短く息を漏らしたが、すぐに自らの手で口を塞いだ。
階段の踊り場の影から、一人の人影がフラフラと姿を現した。
制服のネクタイが引きちぎられ、胸元が赤黒く染まった一年生の男子生徒だった。彼の左腕は肘のあたりからあり得ない方向に曲がっており、白目は毛細血管が全て破裂したように赤く濁っていた。
彼は、開いたB組のドアから顔を出した蓮たちに気づくと、首をゴキリと嫌な音を立てて傾けた。
『ギ……ァァァ……』
知性も感情もない、ただ獲物を認識しただけの瞳。
男子生徒は、折れた腕をだらりと下げたまま、アスファルトを擦るような不自然な、しかし恐ろしいほど確実な足取りで、蓮たちに向かって歩き始めた。
「健太! 走れ! 右だ、渡り廊下へ向かえ!」
蓮が怒鳴った。
「うおぉぉぉぉぁぁっ!!」
健太が恐怖を打ち消すような叫び声を上げ、手に持った木の棒を前方に構えて廊下へと飛び出した。
続いて葵が、そして最後に蓮が廊下へ躍り出る。
後ろの教室からは、残された生徒たちの悲鳴が聞こえたが、振り返る余裕などなかった。
一歩踏み出した足の下で、床に飛び散った誰かの血がニュルッと嫌な感触で滑った。蓮は体勢を崩しかけながらも、必死に踏みとどまり、葵の背中を押し続けた。
一年生の感染者が、爪を立てて健太に飛びかかろうとする。
「どけえええっ!!」
健太が振るったモップの棒が、感染者の胸元を力任せに打ち揃えた。
『ドカッ!』という重い打撃音。感染者はバランスを崩して廊下の壁に激突し、激しい音を立てて倒れ込んだ。
「行け! 止まるな!」
倒れた感染者の脇をすり抜け、三人は本棟の廊下を疾走した。
背後、中央階段からは、さらに数体の感染者たちが、階段の壁を叩きながら次々と登ってくるのが見えた。彼らは倒れている仲間を踏みつけ、血走った目を剥いて、逃げる三人の背中を追いかけてくる。
『アァァァァァッ!!』
『ウガァァァッ!!』
狂気の咆哮が、閉ざされた校舎の廊下に反響する。
ガラス張りの渡り廊下まで、あと十メートル。
外のグラウンドからは、正門の鉄格子がついに悲鳴を上げて引きちぎられる、凄まじい金属破壊音が響き渡った。
孤立した学校。閉ざされた門。内外からの挟み撃ちという絶望の檻の中で、少女と二人の少年による生き残りをかけた疾走が始まった。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
面白かった、続きが気になると思っていただけたら、執筆を続ける大きな励みになります。
ぜひ「★評価」と「ブックマーク」で応援してください!
これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




