第9話:閉ざされた校門【1/2】
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『ギャアアアアアアッ!!』
一階の保健室がある方角から響き渡った、引き裂かれるような悲鳴。
それは、五限目の英語の授業を受けていた二年B組の生徒たちを、一瞬にして完全なパニックへと陥れた。
「な、なに!? 今の声!」
「逃げろ! 保健室で三浦と山口が暴れてるんだ!」
誰かの絶叫が廊下に反響する。教室内の生徒たちは、椅子を蹴倒し、机にぶつかりながらも、我先にと前後のドアに殺到した。
「みんな、落ち着いて! 廊下に出ちゃダメ!」
英語の女性教師が、プリントを床にぶちまけながら教壇で叫ぶが、恐怖に駆られた高校生たちにその声は全く届かない。パニックは理性を簡単に吹き飛ばす。数人の男子生徒がドアを押し開けようとし、女子生徒たちが悲鳴を上げてその背中にしがみつく。
蓮は席から立ち上がったまま、その混乱を冷たい目で見つめていた。
(ここから飛び出せば、将棋倒しになるか、パニックの波に呑まれて身動きが取れなくなる)
蓮は瞬時に状況を判断し、自分の斜め前にいる葵と、後ろにいる健太を鋭い目で見据えた。
「動くな! 二人とも、俺のそばから離れるな!」
蓮の低く、しかし力強い声に、パニックになりかけていた健太がハッと我に返り、足を踏みとどまった。葵も震える手で自分の口元を覆いながら、蓮の背中にすがるように近づいてくる。
ドア付近では、数人の生徒が無理やり廊下へと飛び出していった。
だが、その直後だった。
「こらあっ! 教室に戻れ! うろちょろするな!」
廊下から、腹の底に響くような野太い怒号が轟いた。
体育教師の田村だ。柔道部の顧問であり、熊のような体格で全校生徒から恐れられている教師が、血相を変えて階段を駆け上がってきたのだ。
「でも、先生! 下で悲鳴が――」
「保健室で軽いパニックが起きただけだ! すでに他の先生たちで押さえ込んで、中から鍵をかけた! お前らが騒ぐと余計に混乱する! 全員、今すぐ自分の席に戻れ!」
田村の圧倒的な威圧感と、その言葉に含まれた「押さえ込んだ」という情報に、廊下へ飛び出そうとしていた生徒たちは動きを止めた。
「……本当ですか? 三浦くんたちは……」
「暴れていた生徒は完全に拘束した。怪我人は出たが、命に別状はない。だから、お前らは無駄に騒ぐな!」
田村は生徒たちを威嚇するように睨みつけ、無理やり教室の中へと押し戻した。そして、英語教師に向かって「先生、生徒を絶対に廊下に出さないでください」と短く言い残し、再びドタドタと重い足音を立てて階段を下りていった。
教室に押し戻された生徒たちは、互いに顔を見合わせ、不安げに呼吸を荒らげている。
「……ほ、本当かな。保健室、鍵かけたって言ってたけど」
「でも、あの悲鳴、ただごとじゃなかったよ……」
女子生徒たちがヒソヒソと囁き合い、男子生徒たちは壁に背中を預けて警戒するようにドアを見つめている。
蓮は、ベルトの下に隠されたサバイバルナイフの柄から、ゆっくりと手を離した。
(一時的に鎮圧されたのか……? いや、保健室に閉じ込めただけだ)
蓮の思考は極めて冷徹に状況を分析していた。
あの三浦や山口の異常な力と狂気。教師数人がかりで組み伏せたとしても、普通の拘束具でいつまで持つのか。保健室のドア一枚で、あの化け物たちを完全に封じ込めることなどできるはずがない。
だが、今ここで「あいつらは人を食う化け物だ!」と叫べば、教室は再びコントロール不可能なパニックに陥り、自分たちもその渦に飲み込まれてしまう。
「……蓮」
健太が、顔を蒼白にしたまま蓮の肩を掴んだ。
「どうすんだよ。下の階に、あのヤバい奴らが閉じ込められてるんだぞ。いつドアを破って出てくるかわからねえじゃんか」
「わかってる。だが、今ここで騒いでもどうにもならない。先生たちが押さえ込んでるなら、少しだけ時間を稼げるはずだ。その間に、俺たちは脱出のタイミングを見計らう」
蓮は声を潜めて健太に告げた。
「脱出って……外に出るのか? でも、外だって……」
健太の視線が、窓の外へと向けられた。
窓の外からは、依然として遠くのサイレンの音と、正門の方角から聞こえてくる無数のうめき声と怒号が入り混じった異音が響き続けている。
内には発症した化け物。外には群がる狂気の集団。どこへ逃げても地獄が待っているという絶対的な袋小路。
葵が、蓮の袖をそっと引っ張った。
「日高くん……私、怖い。お母さんやお父さんに連絡したいのに、スマホも繋がらないし……」
彼女の目からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。普段は凛として弱音を吐かない彼女が、完全に恐怖に打ちひしがれている。その姿を見て、蓮の胸の奥がギュッと締め付けられるように痛んだ。
「大丈夫だ、水島。俺が絶対に守る。外の連中がここに入ってくる前に、必ず安全な場所を見つけるから」
蓮は葵の肩を優しく抱き寄せ、震える背中を撫でた。
その言葉が何の根拠もない虚勢であることは、蓮自身が一番よくわかっていた。だが、今はそう言い聞かせて、彼女の精神を崩壊させないようにするしかない。
教室内の空気が、重く澱んだ泥のように沈み込んでいく。
英語教師は教卓の後ろにへたり込み、両手で顔を覆って震えていた。もはや授業を再開する気力など誰にもない。生徒たちはそれぞれの席に座ることもできず、教室内をうろついたり、繋がらないスマートフォンを何度もタップしたりして、無意味な行動を繰り返していた。
十分ほどの、永遠に感じられるような沈黙の時間が流れた。
その時だった。
『ジジッ……ピーーーーッ!』
教室の天井の隅に設置された校内放送のスピーカーから、不快なハウリング音が鳴り響いた。全員の肩がビクッと跳ね上がる。
スピーカーのノイズ音に続いて、教頭の焦燥しきった声が学校中に響き渡った。
『あー、あー。全校生徒、ならびに教職員に緊急の連絡をします』
その声は、普段の朝礼で聞くような威厳のあるものではなく、マイクを握る手が震えているのが伝わってくるほどに裏返っていた。
『現在、市内全域において、極めて悪質な暴動事件が発生しており、警察の防衛網が一部突破されたとの情報が入っています。……繰り返します。市内で大規模な暴動が発生しています』
教頭のアナウンスを聞き、教室の生徒たちの間にザワザワとしたどよめきが広がった。
『先ほど、本校の周辺道路においても、暴徒化した集団が接近しているのが確認されました。生徒の安全を最優先に確保するため、学校側は苦渋の決断を下しました』
スピーカー越しに、教頭が大きく息を呑む音が聞こえた。
『外部からの侵入者を完全に遮断するため、現在、本校の正門、裏門、および全ての外周フェンスの出入り口を、太いチェーンと南京錠で【完全に施錠】しました』
「えっ……?」
教室内の空気が、凍りついた。
『これにより、外部の暴徒が校内に侵入することは不可能です。校内は安全です。繰り返します、校内は絶対に安全です。生徒の皆さんは、決してパニックを起こさず、落ち着いて自分の教室で待機してください。保護者への連絡は学校側で固定電話を使って順次行います。絶対に、外に出ようとしないでください――』
ブツッ、と放送が強制的に切断された。
直後、教室は数秒間の完全な静寂に包まれた。
しかし、その静寂は、すぐに爆発的な悲鳴と怒号へと変わった。
「施錠したって……閉じ込められたってことかよ!」
「ふざけんな! 帰れないの!? 私、家に帰りたいのに!」
「校内は安全って、さっき下の階で悲鳴聞こえたじゃん! 全然安全じゃないだろ!」
生徒たちが一斉に叫び声を上げ、パニックが再燃する。
数人の男子生徒が窓際に殺到し、外の様子を見下ろした。
「おい……見ろよ、あれ……」
窓にへばりついた男子生徒の一人が、引き攣った声で指をさした。
蓮も、健太と葵を連れて窓際に歩み寄った。
三階の教室から見下ろす正門の景色は、彼らの絶望を決定的なものにする光景だった。
立派な鉄格子で作られた正門。その扉には、幾重にも巻かれた極太の金属チェーンと、巨大な南京錠が掛けられ、完全に開閉不可能な状態になっていた。
そして、その閉ざされた門の向こう側。
道路を埋め尽くすようにして、数百人、いや、千人近い群衆が、学校の敷地に向かって押し寄せているのだ。
「なんだよ、あれ……」
健太が、窓枠を握る手を白くしながら呟いた。
群衆の姿は、遠目から見ても異常だった。彼らは一様にうつむき加減で歩き、衣服はどす黒い血で汚れ、互いの体を押し退けるようにして門に殺到している。
『ガシャーン! ガシャン!』
鉄格子に無数の人間が体を押し付け、顔をこすりつけ、腕を隙間から内側へと伸ばしている。その重みで、頑丈なはずの鉄の門が悲鳴を上げて歪み始めていた。
門の内側では、体育教師の田村をはじめとする数人の屈強な教師たちが、金属バットや刺股を構えて立ち塞がっている。
『来るな! 下がれぇぇっ!』
田村が怒鳴り声を上げ、鉄格子の隙間から突き出された腕をバットで殴りつけているのが見えた。だが、殴られた群衆は痛がる様子もなく、さらに奥へと腕を押し込もうとしてくる。
「あいつら、人間じゃない……ゾンビみたいだ……」
窓際にいた別の生徒が、震える声でその言葉を口にした。
「ゾンビって……映画の見すぎだろ。でも、あんな数、警察でも止められないよ……」
生徒たちは、自分たちが置かれた状況の本当の意味を理解し始めていた。
学校は、外の暴徒から守るために門を施錠した。
それはつまり、自分たちはこの巨大なコンクリートの箱の中に隔離されたということだ。
外には、数千の狂気に満ちた化け物の群れ。
内には、いつ隔離室を破って出てくるかわからない、感染したクラスメイトたち。
逃げ場は、どこにもない。
「お母さん……お母さんに電話しなきゃ……!」
女子生徒の一人が泣きじゃくりながらスマートフォンを取り出し、何度も画面をタップする。だが、アンテナマークは無情にも『圏外』を表示したままだ。
「繋がらないよぉ! どうしよう、どうしよう!」
「先生! 職員室の電話なら繋がるんですよね!? 俺、親に連絡したいです!」
男子生徒が教卓の後ろで震えている英語教師に詰め寄る。
「わ、わからないわ……さっきまで通じてたけど、回線がパンクしてるみたいで……」
教師の頼りない答えに、生徒たちの不満と恐怖が頂点に達した。
「ふざけんなよ! ここにいたら死ぬぞ! 俺は裏口からでも塀をよじ登ってでも帰る!」
パニックを起こした一人の男子生徒が、教室のドアを開けて廊下へ飛び出そうとした。
「待て!」
蓮は咄嗟に動き、その男子生徒の襟首を後ろから強く掴んで引き戻した。
「な、何すんだよ! 放せ!」
「外を見ろ! あの群衆の中を一人で抜けられると思ってるのか! 塀を越えた瞬間に、あいつらに群がられて食い殺されるだけだぞ!」
蓮は、男子生徒を床に突き飛ばし、鋭い声で怒鳴りつけた。その気迫に、暴れていた男子生徒も言葉を失い、その場にへたり込む。
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ。ここに閉じ込められたまま、あいつらが入ってくるのを待てって言うのかよ!」
男子生徒が泣きながら叫ぶ。その声は、教室にいる全員の心の声を代弁していた。
隔離。
安全のための施錠が、彼らの精神を極限まで削り取る檻へと変わった。
蓮は、床に座り込む男子生徒を見下ろし、そして窓の外で増え続ける群衆へと視線を戻した。
(どうする。このまま教室にいれば、いずれパニックが暴走して同士討ちが始まるか、あるいは一階の感染者たちが上へ登ってくる)
頭をフル回転させる。
親父なら、こんな時どうする?
閉ざされた空間。限られた物資。圧倒的な敵。
「……情報を集めるんだ」
蓮は、誰に言うでもなく呟いた。
「え?」
健太が聞き返す。
「ここにいても、外の状況も下の階の状況もわからない。学校中の生徒が今、同じようにパニックになってるはずだ。このままじゃ、集団心理で最悪の行動に出る奴らが出てくる」
蓮は、葵と健太に向き直った。
「俺たちだけで動くには、リスクが高すぎる。まずは、武器になるものを探す。それから、安全なルートを見つけて、より強固な場所に移動するんだ」
「強固な場所って……どこだよ」
「特別棟だ。理科室か、家庭科室。あっちなら、防犯用の分厚いドアがあるし、物資もある。本棟の教室はドアのガラスが大きすぎて、あいつらに破られやすい」
蓮の提案に、健太はゴクリと唾を飲み込んだ。
「でも、廊下に出るってことだろ? もし、途中で……」
「ここにいても同じだ。だったら、動けるうちに動く」
蓮は、ズボンのベルトの下のサバイバルナイフにそっと触れた。
まだ、ナイフを抜く時ではない。だが、その冷たい感触が、蓮に冷静な思考を維持させていた。
「日高くん……」
葵が、不安げに蓮を見つめる。
「水島、お前は弓道部で鍛えてるから、体力も集中力もあるはずだ。健太は陸上部で足が速い。俺たちは、他の奴らより生き残る確率が高いんだ。だから、俺を信じてくれ」
蓮の言葉は、ただの励ましではなく、彼らの能力を客観的に評価した上でのプロの視点に近い提案だった。
葵は、蓮の真っ直ぐな瞳を見つめ返し、小さく、だが力強く頷いた。
「……わかった。私、日高くんについていく」
「俺もだ。ここで震えて死ぬくらいなら、足掻いてやるよ」
健太も、無理に笑みを作って拳を握りしめた。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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