第8話:廊下の争い【3/3】
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「足を刈れ! 床に押さえつけるんだ!」
教師の指示でラグビー部の生徒が山口の足首を払い、強引に床へ引き倒した。
『ドシャンッ!』
山口が床に叩きつけられ、四人がかりでその上にのしかかり四肢を押さえつける。
「ハァ……ハァ……! 誰か、職員室に行って他の先生を呼んでこい! あと救急車だ! 早く!」
教師が息も絶え絶えに怒鳴り散らし、野次馬の生徒が一人生徒階段の方へ駆け出していった。
床に押さえつけられた山口は、チアノーゼで青紫になった唇から血混じりの涎を垂らし、関節を鳴らして暴れ続けている。
『アァァァ……! ガァァァ……!』
床に擦り付けられた顔が、蓮たちの方向を向いた。
その瞬間、蓮はもがく山口と完全に視線が交差した。
山口の目。
白目がどす黒く充血し、瞳孔が異常に開いたその目は、かつてのクラスメイトとしての知性や感情を一切宿していなかった。
そこにあるのは、純粋な『飢え』だけだ。
山口の視線が、蓮と、その後ろにいる健太や葵を捉えた瞬間――
『キシャァァァァァァッ!!』
山口は獲物を見つけた爬虫類のような叫び声を上げ、這いずろうと猛烈に暴れ出した。
「うおっ! こいつ、まだ力が……!」
「押さえろ! 絶対に放すな!」
男子生徒たちが顔を真っ赤にして体重をかけるが、山口の血走った目は一瞬たりとも蓮たちから逸れない。折れた右腕の骨を床に擦り付け、血の軌跡を描きながら、ただひたすらに蓮の喉笛を噛み切ろうとするかのように顎をガチガチと鳴らし続けている。
(俺たちを、食おうとしている……)
蓮の背筋を、絶対的な恐怖が貫いた。
間違いない。あいつは今、俺を『肉』として認識したのだ。
人間社会のルールも道徳も友情も通じない。昨夜のニュースでキャスターが言っていた『幻覚剤の影響』などという生ぬるい言葉で説明できるものではない。
「……おい、蓮。あいつ、俺たちを見てるぞ……」
健太が震える声で肩を掴んだ。
「ああ。わかってる」
蓮は服の上からサバイバルナイフの柄を強く握りしめた。
今ここで押さえ込んでいる奴らが力負けして、山口が飛びかかってきたら――俺はナイフを抜いて頭を刺せるか?
周囲には大勢の生徒も教師もいる。ナイフを抜けば異常者扱いされる。だが刺さなければ、葵が、健太が、俺が食われる。
蓮の額から、じっとりと嫌な汗が滲み出た。
数十秒の、永遠にも感じられる攻防の後。
「どけ! 道を開けろ!」
廊下の奥から、数人の屈強な体育教師たちが担架を持って駆けつけてきた。
暴れる山口を見るや迷うことなく飛びかかり、太いベルトで身体を無理やり担架に固定し始める。
「おい、山口! しっかりしろ!」
「ダメです、完全に正気を失ってます! 暴れて危険です!」
「いいからベルトをきつく締めろ! とりあえず保健室に運ぶぞ! 救急車は呼んだか!?」
「電話が繋がりません! 回線がパンクしてるみたいで!」
「クソッ、とにかく保健室のベッドに縛り付けるんだ!」
怒号を交わしながら、拘束具でぐるぐる巻きにされた山口の担架を持ち上げた。
山口は担架の上で身をよじり、ベルトを噛みちぎろうと狂ったように頭を振り回している。
「お前ら、見世物じゃないぞ! 教室に戻れ!」
教師の一人が怒鳴り散らし、担架が蓮たちの目の前を通り過ぎていく。
そのすれ違いざま。
山口の血で真っ赤に染まった顔が、再び蓮の方を向いた。
『……アァ……肉……』
そんなふうに聞こえるうめき声と共に、血走った目が蓮の網膜に焼き付いた。
担架が廊下の角を曲がり、見えなくなるまで、蓮はその場から動けなかった。
床には山口の折れた腕から流れた赤黒い血だまりが、無惨な軌跡となって残されている。
「キャアア……」
女子生徒の一人がその血を見て泣き崩れた。
日常の空間であったはずの廊下が、一瞬にして凄惨な現場へと変貌したのだ。
「……おい、教室に戻るぞ」
健太が、呆然としている蓮の腕を引いた。
蓮はハッと我に返り、背後にいる葵を見た。
葵は顔面を蒼白にし、唇をガタガタと震わせていた。瞳にはかつてないほどの深い恐怖が刻み込まれている。
「水島、大丈夫か」
蓮が優しく肩に触れると、葵はビクッと体を震わせ、すがるようにシャツの袖を両手で握りしめた。
「日高くん……あの子、目が……目が、普通じゃなかった……。あれは、人間の目じゃない……!」
「ああ。わかってる」
蓮は葵の震える手を自分の手で包み込んだ。
「とりあえず、教室に戻ろう。廊下にいるのは危険だ」
蓮は葵を促し、健太と共に二年B組へと戻った。
教室の中は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
誰も弁当を食べる気になれず、それぞれの席で青ざめた顔のまま沈黙している。
窓の外からはサイレンの音が相変わらず鳴り響いているが、今やそれは遠くの出来事ではなく、学校そのものを包囲し侵食し始めている狂気の足音のように聞こえた。
蓮は席に戻ると椅子には座らず、健太と葵を自分の机の周りに集めた。
「いいか、二人ともよく聞け」
周りに聞こえないよう、極力声を潜めて言った。
その声には、事なかれ主義だった少年の面影はなく、戦場を生き抜こうとする兵士のような冷たい覚覚悟が宿っていた。
「さっきの山口を見たろ。あいつは、ただの病気や薬中じゃない。何かのウイルスか、もっと別の原因で理性を完全に破壊されてる」
「ウイルスって……まさかゾンビ映画みたいに、噛まれたら感染するとかそういうことかよ?」
健太が引き攣った笑いを浮かべようとしたが、頬の筋肉が痙攣して上手く笑えていなかった。
「わからない。でも、その可能性が高い。朝から十人以上も休んでるのも、あの山口と同じ症状が出てるからだとすれば辻褄が合う」
蓮の推測に、葵が息を呑んだ。
「じゃあ……休んでる人たちも、みんなあんな風に……?」
「保健室に行った三浦もだ」
蓮は、一限目に保健室へ向かった三浦の異常な歩き方を思い出していた。
「もし三浦が保健室で発症して、山口もそこに運ばれたとしたら……保健室は今頃、化け物の巣窟になってるかもしれない」
「おいおい、冗談だろ……。保健室には先生もいるし、他の生徒だっているんだぞ」
健太が頭を抱える。
「だから言ってるんだ。この学校はもう安全じゃない。いつパニックが起きてもおかしくない状態だ」
蓮は二人の目を真剣に見つめた。
「もし何か異常が起きたら。誰かが悲鳴を上げたり、廊下で騒ぎが起きたら、俺の指示に従え。絶対に一人で逃げるな。三人で固まって動くんだ。いいな?」
健太は一瞬ためらった後、ゴクリと唾を飲み込み、力強く頷いた。
「……わかった。俺はお前の言う通りにする。お前、たまにすげえ冷静になるからな。頼りにしてるぜ」
健太の言葉に、蓮はわずかに頷き返した。
そして葵の方を見る。
葵は蓮の目を見つめ返し、小さく、だがはっきりと頷いた。
「日高くん。……私、絶対に離れないから」
その言葉は、恐怖に震えながらも蓮という存在を絶対的な拠り所にすると決めた、彼女なりの覚悟の表れだった。
「ああ。俺が、必ずお前たちを守る」
蓮はベルトの下のナイフの感触を確かめながら、静かに誓った。
『キーン、コーン、カーン、コーン』
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
普段なら気怠い午後の始まりを告げるだけの平凡な音だ。
だが今の彼らにとって、その音はまるで処刑台へ向かう足音のように、不気味に、重苦しく校内に響いた。
生徒たちが重い足取りで席につく。
五限目は英語の授業だった。
三十代の女性教師がプリントの束を抱えて入ってくる。彼女もまた廊下での騒ぎを知っているのか、顔面を蒼白にし、手元を小刻みに震わせていた。
「えー……席についたわね。プリントを配ります。後ろに回して……」
教師の声はかすれ、今にも泣き出しそうだった。
授業が始まる。
だが、誰一人としてプリントに集中している者はいなかった。
誰もが窓の外のサイレンと、廊下から聞こえてくる微かな物音に全神経を集中させている。
蓮も机の上のプリントには目もくれず、廊下側のドアをじっと見つめていた。
時計の秒針が進む音が教室に響く。
午後一時十五分。
五限目の授業が始まって、およそ十五分が経過した頃だった。
ふと、窓の外のサイレンがこれまで以上に大きく、けたたましく鳴り響き始めた。
『ウゥゥゥゥゥゥゥゥ!!』
『ピーポー、ピーポー!!』
遠くのバイパス道路ではない。
明らかにこの学校のすぐそば――通学路の交差点あたりまで、緊急車両の群れが押し寄せてきている音だった。
「……なんか、サイレン近くない?」
窓際の生徒が不安げに外を見下ろす。
蓮も立ち上がりかけ、窓の外を見た。
正門の方角。
見慣れた木立の向こう側に、パトカーの赤い回転灯がチカチカと反射しているのが見える。
そして、そのサイレンの音に混じって――
『ワーッ!!』
『キャアアアアッ!!』
凄まじい人数の怒号と悲鳴が、風に乗ってグラウンドまで届いてきた。
「な、なんだよ、外で何が起きてるんだ……」
健太が震える声で呟く。
英語教師もプリントを落とし、窓際に駆け寄った。
「みんな、窓から離れて! 見ちゃダメ!」
教師が叫ぶが、生徒たちの不安はすでに限界に達していた。何人もの生徒が窓際に群がり、外の様子を窺おうとする。
蓮も葵を背後にかばいながら、窓の外を凝視した。
正門の鉄格子。
朝の登校時にはいなかった体育教師たちが数名、金属バットやモップの柄を持って立ち塞がっていた。彼らは必死に門を内側から押さえつけている。
その門の向こう側。
道路を埋め尽くすようにして、無数の『群衆』が押し寄せていた。
スーツの男、作業着の男、エプロン姿の女。
彼らは一様に血に塗れ、狂ったようなうめき声を上げながら学校の正門に身体を押し付け、内側にいる教師たちに向かって腕を伸ばしている。
『ガシャーン! ガシャーン!』
鉄格子が何百人という群衆の圧力によって、悲鳴のような音を立てて軋んでいた。
「……嘘だろ。あんな数……」
健太が絶望に染まった声を漏らした。
昨日、蓮が二階の窓から見たのと同じ光景。いや、規模は昨日の比ではない。
街中の感染者たちが何かの音や匂いに引き寄せられ、この学校へと集結してきているのだ。
『おい、やめろ! 下がれ! 警察を呼んでるんだぞ!』
正門の内側で体育教師が必死に威嚇するが、狂気に支配された彼らに言葉など通じるはずがない。
「蓮……」
葵が蓮の背中に顔を押し当て、ガタガタと震えている。
「見ない方がいい。目を閉じろ」
蓮は再びそう言い聞かせたが、自分自身は目を逸らすことができなかった。
圧倒的な暴力の波が、すぐそこまで迫っている。
あの正門の鉄格子が破られれば、この学校は終わりだ。
その時。
教室の廊下側から、別の『音』が響いた。
『ギャアアアアアアッ!!』
外の群衆の声ではない。
同じ校舎内――一階の保健室があるあたりから響き渡った、引き裂かれるような悲鳴だった。
「っ!」
蓮は弾かれたように廊下側のドアを振り返った。
続いて、階段を駆け上がってくる多数の足音。
「逃げろぉぉっ! 保健室で、三浦と山口がぁっ!!」
誰かの絶叫が廊下に反響する。
教室内の空気が完全に凍りついた。
英語教師は腰を抜かし、生徒たちは悲鳴を上げてパニックに陥り始める。
外からは数千の群衆。
内からは、すでに発症した化け物たち。
逃げ場のない完全な密室。
日常という名の薄氷が、無数のヒビを走らせ、今、完全に砕け散ろうとしていた。
蓮は服の下のサバイバルナイフの柄を、手が白くなるほど強く握りしめた。
日常の終わりを告げるその瞬間を見据え、彼は静かに、そして力強く第一歩を踏み出した。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




