第8話:廊下の争い【2/3】
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やがて四限目の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
いつもなら、このチャイムは生徒たちを解放する魔法の合図だ。購買へ猛ダッシュする者、弁当を広げて机をつけ合う者、中庭へ遊びに行く者。
だが、今日の昼休みはどこか様子が違っていた。
購買へ走る生徒の数は明らかに少なく、多くの生徒が席から動こうとせず、大人しく弁当箱を開いている。
「あーあ。今日は購買の限定カツサンド争奪戦、俺の独壇場だと思ったのにな。なんかそんな気分じゃなくなっちまったよ」
健太が鞄からコンビニの菓子パンを取り出しながら、不満げに口を尖らせた。
「お前も空気読むことあるんだな」
蓮は苦笑しながら、鞄から母・恵子が作ってくれた弁当箱を取り出した。
卵焼き、ウインナー、唐揚げ、プチトマト。見慣れた、そして愛情の詰まった完璧な『日常の象徴』。
だが、それを口に運んでも味覚は鈍麻しており、ただ栄養を摂取するための作業のようにしか感じられなかった。
窓の外から聞こえるサイレンの音が、まるで学校を包囲するように距離を縮めてきている気がする。
「ねえ、やっぱりスマホ繋がらないよね?」
教室内で女子生徒の一人が不満げな声を上げた。
「うん、朝からずっと圏外。お昼になったら直るかと思ったのに」
「市内の基地局がダウンしてるって、朝のニュースで言ってたよ。サイバーテロの影響だって」
「えー、マジ最悪。彼氏に連絡できないじゃん」
サイバーテロ。
政府が発表したその『設定』は生徒たちの間に浸透し、事態を矮小化させることに成功していた。
だが蓮は弁当を食べながら、その会話を冷ややかに聞いていた。
(サイバーテロだけで、あんなに救急車が走るか? 欠席者が大量に出るか?)
違和感のピースが、一つ、また一つと不気味な絵柄を作り出していく。
その時だった。
『ドンッ! ドンッ!』
廊下の方角から、壁を強く叩くような重い音が連続して聞こえてきた。
教室内の喧騒が、一瞬にしてピタリと止まる。
「……なんだ?」
健太が菓子パンを齧る手を止め、廊下側のドアへ視線を向けた。
『ドンッ! ドゴッ!』
音は隣の二年A組の教室前あたりから聞こえてきているようだった。何か固いものを、執拗にコンクリートの壁へ打ち付けているような音。
「キャアアアアッ!!」
続いて女子生徒の悲鳴が鋭く響き渡った。
ふざけ合った声ではない。本物の恐怖に直面した人間の、喉の奥から引き裂かれるような悲鳴だ。
「おい、なんか隣で揉め事か!?」
クラスの男子数人が、野次馬根性で椅子を蹴立てて廊下へ飛び出していく。
蓮の心臓が、再び嫌な音を立てて跳ねた。
白昼夢で見た惨劇が、現実のものになろうとしているのか。
「蓮、見に行ってみようぜ」
健太が立ち上がり、蓮の腕を引く。
「……ああ」
蓮は弁当箱を乱暴に閉じ、ズボンのベルトの下、服に隠されたサバイバルナイフの存在を意識しながら立ち上がった。
葵の方を見ると、彼女も不安げな顔で立ち上がり、蓮たちを見ていた。
「水島、ここで待ってろ。俺が見てくる」
蓮が声をかけると、葵は小さく首を横に振った。
「ううん……私も行く。一人でここにいる方が怖いから」
声は震えていたが、その目には強い意志が宿っていた。
「……わかった。俺の後ろから離れるなよ」
蓮は葵をかばうような位置につき、健太と共に廊下へ出た。
廊下には、すでにB組や他のクラスから飛び出してきた生徒たちで人だかりができていた。皆、隣のA組の前に視線を向け、怯えた顔で固まっている。
「おい、見えないぞ。どうなってんだ」
健太が背の高さを活かし、人垣の隙間から奥を覗き込む。
「……うわっ、なんだあいつ……マジかよ」
健太が息を呑み、一歩後ずさりした。
「健太、何があった?」
蓮が尋ねると、健太は青ざめた顔で振り返った。
「A組の……男子が。壁に、自分の腕を……」
健太の言葉の途中で人垣が少し割れ、蓮の視界にその異様な光景が飛び込んできた。
二年A組の教室前。
廊下の壁に向かって一人の男子生徒――山口が立っていた。
いや、立っているという表現は正しくない。彼は右腕を壁に押し当て、そこに向かって自身の身体を狂ったように叩きつけていたのだ。
『ゴッ! ドゴッ!』
肉と骨がコンクリートに激突する鈍い音。
山口の右腕はすでに不自然な角度へ曲がり、ワイシャツの袖は血で真っ赤に染まっていた。だが彼は痛みを全く感じていないかのように無表情のまま、何度も腕を壁に打ち付け続けている。
「おい、やめろ! 腕が折れてるぞ!」
A組担任の若い男性教師が、山口の背後から両腕を回し、必死に羽交い締めにしようと叫んだ。
だが山口の力は、大人の男性である教師の腕力を遥かに凌駕していた。
「ギャァァァッ!! アァァァッ!!」
山口は喉の奥から奇声を上げ、背中の教師ごと身体を激しく捻った。
『ドンッ!』
教師がバランスを崩し、廊下のロッカーへ背中から激突する。凹んだ鉄板の鈍い音が響いた。
「うおっ……! くそっ、なんだこの力は……!」
教師が苦悶の声を漏らしながらも、なんとか腕を離すまいと必死に組みつく。
その光景を見て、ようやく事態の異常性を理解し始めた体格の良い男子生徒たち――柔道部やラグビー部の数人が慌てて飛び出していった。
「先生、手伝います!」
「山口、落ち着けよ! お前、腕折れてるぞ!」
屈強な男子生徒三人がかりで山口の身体に組みつく。一人が右腕を、もう一人が左腕を、そして残りの一人が背後から胴体を抱え込む。大人四人がかりの力で、ようやく動きが止まったかに見えた。
だが、それは人間としての『限界』を前提とした見立てに過ぎなかった。
「ガァァァァァァッ!!」
山口は四人に押さえつけられたまま顔を天井へ向け、拘束している生徒たちごと身体を力任せに振り払おうとした。
『バキッ』
嫌な音が廊下に響く。
折れ曲がっていた山口の右腕の骨が、拘束の圧力と自らの異常な筋力に耐えきれず、完全に皮膚を突き破った音だった。
「うわああああっ!?」
右腕を押さえていた男子生徒が、露出した白い骨と噴き出す鮮血をまともに浴びて悲鳴を上げた。
「血が……! 骨が飛び出してるぞ!」
「離すな! ここで放したら危ない!」
教師が顔を真っ赤にして叫ぶが、山口の狂乱は止まらない。
折れた右腕の痛みなど微塵も感じていないかのように、今度は左腕を押さえている生徒の顔面に自分の頭を何度も打ち付けようとし始めた。
『ゴッ! ゴッ!』
頭突きが空を切り、空振りする音が鳴る。
そして、折れた右腕の代わりに、拘束をすり抜けた左手で自分自身の顔面を激しく掻き毟り始めた。
『ガリッ、ベリッ』と爪が皮膚と肉を裂く音が、静まり返った廊下に不快に響く。
頬から血が流れ落ち、首筋を伝ってワイシャツの襟を汚していく。それでも彼は、顔に虫でも這っているかのように狂ったように皮膚を剥ぎ取り続けている。
「あ……あ……」
蓮の背後で、葵が言葉にならない悲鳴を漏らし、制服を強く握りしめた。
「なんだよこれ……。クスリか? あいつ、クスリやっておかしくなったのか!?」
健太が震える声で叫ぶ。
(違う。クスリなんかじゃない。これが発症の前兆なんだ)
昨夜のネット動画。スーツの男。そして白昼夢で見た三浦。
人間としての理性を破壊され、脳の機能が暴走して痛みというリミッターが外れてしまう現象。
自傷行為は、彼らが完全に『化け物』へと変貌する直前の苦しみのサインなのだ。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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