第1話:変哲のない朝【2/3】
正門付近には、すでに多くの生徒たちが吸い込まれるように集まってきていた。
「おはようございます!」と大きな声を張り上げて挨拶運動をしている生活委員の生徒たち。自転車置き場に群がりながら昨晩のテレビ番組の話で盛り上がる女子生徒のグループ。遠くのグラウンドからは、朝練に励む野球部の金属バットの快音が「カキン、カキン」と規則正しく響いてくる。
「よーし、今日も平和な一日が始まるぜ」
健太は大きく伸びをしながら、自転車を所定の場所に押し込んだ。蓮も隣に自転車を停め、リュックを背負い直す。
校舎へ向かう並木道を歩きながら、蓮の足取りは無意識のうちに少しだけゆっくりになった。彼の視線の先にあるのは、校舎の裏手、木立に囲まれた静かな一角にある『弓道場』だ。
まだ授業開始までには時間がある。この時間帯、弓道場では朝の自主練習が行われているはずだ。
「おいおい、また見に行くのかよ。お前もほんと懲りないねぇ」
蓮の視線の意図を察した健太が、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて肘で小突いてきた。
「別に、見に行くわけじゃない。ただの通り道だろ」
「お前の教室、普通に歩けば弓道場の前なんて通らないからな。まあいいや、親友の淡い恋心につき合ってやるよ」
健太の軽口を適当に受け流しながら、蓮は弓道場の建屋へと近づいていく。
道場の中から、張り詰めた空気を切り裂くように、「パーーン!」という鋭い弦音が響いた。
思わず足を止め、道場の開け放たれた引き戸の奥を覗き込む。
磨き上げられた板張りの道場。その射位と呼ばれる立ち位置に、凛とした姿勢で立つ一人の女子生徒の姿があった。
水島葵。
蓮たちと同じ二年生であり、弓道部の次期エースと目されている少女だ。
真っ白な弓道着に、漆黒の袴姿。黒髪は後ろでキリリと一つに束ねられており、その横顔には、普段の教室内で見せる柔らかい表情とは全く異なる、研ぎ澄まされた刃のような真剣さが宿っていた。
彼女はゆっくりと弓を押し開き、矢を番える。足元から頭の先まで、一本の目に見えない鋼の糸で貫かれているかのような、完璧で無駄のないフォーム。周囲の喧騒が嘘のように、彼女の周りだけが真空の世界のように静まり返っている錯覚を覚えた。
蓮は息をすることすら忘れ、その姿に見入ってしまう。
葵の細くしなやかな腕が、自分の背丈よりも長い和弓を限界まで引き絞る。彼女の射法は、素人の蓮が見ても息を呑むほどに美しかった。
静寂。そして――
『パーーン!』
再び、空気を弾く甲高い弦音が響く。放たれた矢は、真っ直ぐに虚空を切り裂き、二十八メートル先の的のど真ん中――見事な「的中」を射抜いた。
「……すげえな、相変わらず」
隣で見ていた健太が、感嘆の息を漏らす。
「ああ……」
蓮は短い返事しかできなかった。胸の奥が、トクンと小さく高鳴る。水島葵は、同じクラスの女子というただそれだけの関係だ。たまに日直の仕事などで言葉を交わすことはあるが、それ以上の接点はない。事なかれ主義で目立たないように生きている蓮にとって、何かに真剣に打ち込み、凛とした光を放つ彼女は、ひどく遠く、眩しい存在だった。
「見惚れてるねぇ。そんなに好きなら、さっさと告白しちゃえばいいのに」
「バカ言うな。俺なんかが釣り合うわけないだろ。ただ……見てるだけで十分なんだよ」
「出たよ、事なかれ主義。傷つくのを恐れてたら、いつまでたっても変わんねえぞ?」
健太の図星を突くような言葉に、蓮は苦笑いして視線を逸らした。
その時、的から視線を戻した葵が、ふと道場の入り口に立つ蓮たちの方へと顔を向けた。目が合う。蓮の心臓が跳ね上がった。
葵は一瞬だけ驚いたような表情を見せた後、ふっと目元を和らげ、小さく会釈をしてくれた。それだけで、蓮の顔に一気に熱が集まっていくのがわかる。
「ほら、お辞儀してくれたぞ。挨拶くらい返せよ、唐変木」
「う、うるさい」
蓮は慌ててぎこちない会釈を返し、逃げるように道場から背を向けた。背後から健太の腹を抱えて笑う声が追いかけてくる。
教室に入ると、すでに大半の生徒が登校しており、朝のホームルーム前の喧噪に包まれていた。
黒板には昨日の日直が消し忘れた数学の公式が薄っすらと残り、窓際では男子がスマートフォンを囲んでゲームのガチャ結果に一喜一憂している。教卓の前では、女子たちが休日に遊びに行ったカフェの写真を見せ合って盛り上がっていた。
自分の席に鞄を置き、椅子に深く腰掛ける。
窓の外には、青空とのどかな市街地の景色が広がっている。
これが、蓮の世界だった。
平凡で、退屈で、何の変哲もない日常。
だが、異国のニュースで報じられていた事態が、すでに海を越えてこの街の片隅へと忍び寄っていることに、まだ誰ひとりとして気づいていなかった。鳴り止まないサイレンの音が、その足音であることを。当たり前の日常がカウントダウンを始めていることを、彼らはまだ知らない。
午前八時三十分。
始業を告げる無機質なチャイムの音が、校舎中に響き渡った。
一限目の現代文の授業は、控えめに言って地獄のような退屈さだった。
初老の教師が教科書を単調な声で読み上げ、時折黒板にチョークで殴り書きをしていく。気温が上がり始めた教室には、昼間の眠気を誘うような澱んだ空気が満ちており、すでに何人かの生徒は机に突っ伏して意識を手放していた。
蓮は頬杖をつきながら、ノートの端に意味のない幾何学模様を落書きしていた。視線を斜め前に向けると、水島葵の背中が見える。彼女は背筋をピンと伸ばし、真面目にノートを取っていた。その後ろ姿を見つめているだけで、五十分の授業は案外あっという間に過ぎてしまう。
『キーン、コーン、カーン、コーン』
終業のチャイムが鳴り響くと同時に、教師が教科書を閉じた。
「えー、今日の範囲はここまで。次回の小テストに出すから復習しておくように」
教師が教室から出ていくと、張り詰めていた空気が一気に弛緩し、教室内に大きなため息と私語が満ち始めた。
「あー、マジで眠かった。あの先生の声、絶対に催眠術の成分混ざってるよな」
前の席から振り返った健太が、大きく伸びをしながら愚痴をこぼす。
「お前、始まって三分で船漕いでたぞ。ノート貸してやらねえからな」
「そこをなんとか! 俺の親友!」
健太が拝むように両手を合わせていると、教室の前方で何やらスマートフォンを見ながら騒いでいるグループの声が聞こえてきた。
「え、何これ。マジで?」
「嘘だろ、映画の宣伝じゃないの?」
クラスのお調子者である男子数人が、一台のスマートフォンを囲んで画面を覗き込んでいる。
「どうしたんだ?」
健太が興味津々で立ち上がり、彼らの輪に近づいていった。蓮もなんとなくその後を追う。
「健太、これ見てみろよ。さっきからSNSで出回ってるんだけどさ」
差し出された画面には、動画共有アプリの短いクリップが再生されていた。
手ブレの酷い縦画面の映像。場所はどこかの駅前のようだった。見覚えのあるロータリーの形状から、この彩葉市から電車で数駅離れた大きなターミナル駅ではないかと蓮は推測した。
映像の中では、周囲の人々が悲鳴を上げて逃げ惑っている。その中心で、スーツ姿の男が、うつ伏せに倒れている女性に覆い被さっていた。
『なんだ、痴話喧嘩か?』
動画の撮影者と思われる若者の声が入り込んでいる。だが、すぐにその声は恐怖の悲鳴へと変わった。
覆い被さっていた男が顔を上げた瞬間、画面越しにもわかるほどの鮮血が、男の口元から顎を伝って滴り落ちていたのだ。男は白目を剥き、獣のような唸り声を上げると、次は撮影者の方へ凄まじいスピードで四つん両足を使って突進してくる。
『うわっ、やめろ、来んな! ギャアアア!』
スマートフォンがアスファルトに落下する激しい音と共に、画面が乱れ、映像はプツリと途切れた。
「……」
動画を見終わった数人の間に、重苦しい沈黙が落ちた。
「……やばくない? これ」
「だから映画の宣伝か、ドッキリ系のユーチューバーだろ。血糊とか使ってさ」
「でも、さっきからこういう動画がどんどんアップされてるんだぜ。しかも、アップされた端からアカウントごと凍結されて消されてる」
生徒たちが半信半疑で議論している横で、蓮は心臓の奥が冷たくなるような感覚を覚えた。朝、家で見た海外の暴動のニュース。それと全く同じ異常性が、この動画の男の目にも宿っていた。薬物中毒者とも違う、もっと根本的に『人間であることをやめた』ような狂気。
「なんだよこれ。さっきの朝のニュースと関係あんのかな」
健太も珍しく顔を強張らせている。
「わかんない。でも、なんか気味が悪いな」
蓮がそう呟いた直後、再び教室のドアが開き、次の授業を担当する英語の教師が入ってきた。
「はい、席につけー。休み時間終わりだぞ」
教師の号令に、生徒たちは渋々スマートフォンをしまい、それぞれの席へと戻っていく。蓮も席に着いたが、頭の片隅に先ほどの血まみれの男の顔が焼き付いて離れなかった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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