第1話:変哲のない朝【1/3】
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリ。
鼓膜を直接揺さぶるような、無機質で甲高い電子音が部屋の空気を切り裂いた。
蓮は、重たいまぶたをゆっくりと押し上げる。目に飛び込んでくるのは、見慣れた天井の木目模様だ。壁掛けのエアコンが微かなモーター音を立てて冷気を吐き出しているが、それでも夏の終わりの湿気が部屋の中にじんわりと滞留しているのがわかる。
枕元のスマートフォンに手を伸ばし、画面をスワイプしてアラームを止める。時刻は午前七時ちょうど。画面には『九月二日・火曜日』という無機質な文字列が表示されていた。二学期が始まってまだ数日。夏休みの気怠い余韻が、身体の芯に鉛のようにへばりついている。
「……起きるか」
誰に聞かせるわけでもない独り言をこぼし、蓮は薄いタオルケットを剥ぎ取った。ベッドから身を起こすと、足の裏にフローリングのひんやりとした感触が伝わってくる。壁には高校に入学した頃に何となく貼った海外の風景ポスターが色褪せたまま飾られており、机の上には昨夜やりかけたままの数学の課題プリントが乱雑に散らばっていた。
どこにでもある、何の変化もない高校二年生の男子の部屋。昨日と同じ今日が始まり、今日と同じ明日が来る。それが当然だと疑いもしない、退屈なほどに平和な朝の風景だった。
あくびを噛み殺しながらドアを開け、階段を下りる。
一階のリビングからは、テレビの朝のニュース番組のアナウンサーの声とフライパンで何かを炒める小気味よい音が聞こえ、キッチンからは出汁の優しい匂いが漂っていた。
「おはよう」
洗面所で顔を洗い、寝癖を水で適当に撫でつけてからリビングに入ると、食卓にはすでに朝食が並べられていた。
「あ、お兄ちゃん遅い。私もう食べ終わっちゃうよ」
ダイニングテーブルの向かい側で、目玉焼きの黄身を箸でつつきながら不満げに口を尖らせているのは、中学生になったばかりの妹・結衣だ。彼女はすでにセーラー服に着替えており、肩にかかる髪をヘアピンで留めようと四苦八苦している。
「七時ジャストに起きたんだから遅刻はしないだろ。お前が早すぎるんだよ」
「中学生は朝の会が早いの。高校生みたいにダラダラしてられないの」
憎まれ口を叩き合う二人の背後で、「ほらほら、朝から喧嘩しないの。蓮、早く座って食べなさい。冷めちゃうわよ」と、エプロン姿の母・恵子が味噌汁のお椀をお盆に乗せて運んできた。
豆腐とワカメの味噌汁、ウインナー炒め、そして白米。日高家の定番の朝食だ。
「いただきます」
蓮は椅子に腰掛け、箸を取る。味噌汁を一口すすると、いつもの優しい味が胃袋に染み渡っていく。
「お母さん、お父さんから連絡あった? 今週は帰ってくるのかな」
結衣がウインナーを頬張りながら尋ねた。父の哲也は現在、隣県で単身赴任中であり、週末にしか実家に帰ってこない。
「さあねえ。今月はプロジェクトが忙しいって言ってたから、どうかしら。帰ってくるなら、結衣の好きなハンバーグでも作ろうかと思ってるんだけど」
「やった! 絶対帰ってくるようにLINEしとこ」
母と妹の他愛のない会話をBGMに、蓮は黙々とご飯を口に運ぶ。
ふと、リビングに置かれた大型テレビに目を向けた。爽やかな笑顔で星占いを紹介していた女性アナウンサーの顔が消え、急に深刻そうな顔つきの男性キャスターに切り替わっている。
『続いてのニュースです。昨夜未明、東欧の〇〇共和国の首都において、大規模な暴動が発生しました。現地の映像が入っています』
画面が切り替わり、手ブレの酷いスマートフォンで撮影されたと思われる荒い映像が映し出された。
燃え盛る車。割られたショーウィンドウ。そして、奇声を発しながら走り回る人々の群れ。警備隊のような一団が放水車で鎮圧を図っているが、暴徒たちはまるで痛みを感じていないかのように、凄まじい勢いで警備隊の盾に体当たりを繰り返している。中には、倒れた警備隊員に群がり、何かを貪るような異様な動きをしている者たちの姿も一瞬だけ映り込んだ。
『暴動の原因は依然として不明ですが、一部のSNSでは、新種の狂犬病に似た感染症ではないかという未確認情報も飛び交っており、現地は極度の混乱状態に陥っています。日本大使館は現在、現地に滞在する邦人の安否確認を急ぐとともに――』
「……なんだこれ、映画の撮影かよ」
蓮はウインナーを咀嚼しながら、呆れたように呟いた。
あまりにも現実離れした映像だった。遠い異国の地で起きている暴動。画面越しに見る炎も悲鳴も、どこか作り物めいていて、自分の足元にある平穏な日常とは完全に切り離された別世界の出来事にしか思えなかった。
「怖いニュースねえ。最近は海外旅行も物騒で嫌になっちゃう」
恵子がテレビを横目に見ながら、空いたお皿を重ねていく。
「それよりお母さん、今日の夕飯なに?」
結衣は暴動の映像など全く興味がないらしく、スマートフォンで友達とメッセージをやり取りしながら尋ねた。
「今日はカレーよ。昨日お肉を安く買えたから、多めに作っておくわね。蓮も部活ない日は寄り道しないで早く帰ってきなさいよ」
「わかってるよ。ごちそうさま」
テレビの中ではキャスターが「今後の動向に注意が必要です」と締めくくり、すぐに人気アイドルのスキャンダル報道へと切り替わった。燃える街の映像は、瞬く間に消費され、忘れ去られていく。
蓮もまた、その映像が持つ本当の意味に気づくことなく、箸を置いて席を立った。遠い世界の出来事として受け流し、誰もが今日も変わらぬ一日が続くと疑っていなかった。
二階に戻り、指定のワイシャツとスラックスに着替える。ネクタイを緩めに締め、通学用のリュックを肩に引っ掛けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
玄関で靴を履き、恵子の声に短く応えてドアを開ける。
外に出ると、九月特有の生ぬるい風が頬を撫でた。見上げれば、雲ひとつない青空がどこまでも広がっている。
蓮の住む『彩葉市』は、海と山に囲まれた地方の中核都市だ。駅前には大型の商業施設やチェーン店が立ち並びそれなりに発展しているが、少し離れれば田んぼや古い住宅街が広がる、絵に描いたような地方都市である。
自宅のある高台の住宅街から、自転車を押して緩やかな坂道を下っていく。道の両脇には手入れの行き届いた生垣が続き、どこかの家から朝の連続テレビ小説のオープニングテーマが漏れ聞こえてきた。
毎日同じ時間に家を出て、同じ道を通り、同じ風景を見る。
蓮にとって、この世界は安全な箱庭のようなものだった。大きな不満はない。だが、胸の奥底が熱くなるような情熱もない。ただ、波風を立てずに平穏無事に毎日をやり過ごすこと。それが「事なかれ主義」を自認する彼の生き方だった。
「おーい! 蓮!」
坂を下りきり、通学路の主要な交差点に差し掛かったところで、背後から大きな声で名前を呼ばれた。振り返らなくても誰だか分かる。高校に入学して以来、腐れ縁のようにずっと一緒にいる親友の声だ。
「遅えよ、健太。俺はいつも通りだぞ」
自転車のペダルを立ち漕ぎしながら猛スピードで接近してきたのは、陸上部に所属する城山健太だった。夏の日差しで真っ黒に日焼けした肌に、ワックスで無造作に立たせた短い髪。ワイシャツの第一ボタンを開け、だらしなく着崩した制服姿は、彼の能天気で陽気な性格をそのまま体現しているかのようだった。
「わりぃわりぃ! 昨日の夜、ネットで変な動画見てたら寝落ちしちゃってさ。いやー、朝からマジで焦ったわ」
健太は蓮の横に自転車を並べ、息も切らさずにケラケラと笑う。陸上部で鍛え上げられた無尽蔵のスタミナは、こういう時にこそ発揮されるらしい。
「変な動画って、またどうせくだらないバラエティの切り抜きだろ」
「いや、それがさ、昨日の夜中からSNSでめっちゃバズってるやつなんだけど。なんか、人が人を噛みちぎるみたいな、海外のグロテスクなドッキリ動画? みたいなやつ。めっちゃリアルでさぁ、夢に出そうだったわ」
「ああ、それなら朝のニュースでもやってたぞ。東欧で暴動が起きたって」
「マジで? ニュースになるレベルなの? いやー、俺はてっきりCGかと思ったわ。あいつら、絶対クスリか何かやってるだろ。目がイッちゃってたもん」
健太は首をすくめながら、大げさな身振り手振りで昨夜の動画の感想を語る。しかし、彼の興味は数秒後には別の方向へと移っていた。
「まあそんなことよりさ、今日のお昼、購買の限定カツサンド買いに行くの協力してくれよ! あそこの争奪戦、陸上部の俺の足でもなかなか厳しいんだって」
「自分でどうにかしろよ。俺は母さんが弁当作ってくれてるから、わざわざ戦場に行きたくない」
「冷たいこと言うなよー。俺たち、親友だろ?」
「親友の定義を購買のパンに使うな」
呆れながらも、蓮の口元には自然と笑みがこぼれていた。健太のこの底抜けに明るい性格は、時に鬱陶しくもあるが、一緒にいるとどんな悩みもバカバカしく思えてくる不思議な引力がある。彼との他愛のない会話は、蓮にとってこの退屈な日常における数少ない清涼剤でもあった。
二台の自転車が、通勤ラッシュで混雑し始めた幹線道路の歩道をゆっくりと進んでいく。
すれ違うスーツ姿のサラリーマン。バス停で列を作るOL。散歩中の犬の鳴き声。コンビニの自動ドアが開くたびに聞こえる電子音。
そのすべてが、永遠に続くかのように思える完璧な日常のパーツだった。
ただ一つ、いつもと違ったことといえば、遠くのバイパス道路の方角から、消防車と救急車のサイレンがやけに長く、幾重にも重なって響き渡っていたことくらいだ。
「なんか、朝から騒がしいな。どこかでデカい事故でもあったのかな」
健太がサイレンの音に耳を傾けながら呟いた。
「さあな。通勤ラッシュの時間帯だし、玉突き事故でも起きたんじゃないか」
蓮は気のない返事を返す。遠くで起きている事故など、自分たちには何の関係もない。そう信じて疑わなかった。
やがて、通学路の突き当たりに、自分たちが通う『県立彩葉第一高等学校』の正門が見えてきた。
今回の続きは、13:10の投稿になります。お楽しみに!
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