第7話:空席の目立つ教室【1/2】
おかげさまで、月間ホラー〔文芸〕と[週間]ホラー〔文芸〕のランキングにランクインしました!
読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます!
「ハァッ……!!」
蓮は大きく息を吸い込み、ベッドの上で勢いよく上体を起こした。
全身がびっしょりと寝汗にまみれ、心臓が肋骨を突き破らんばかりの勢いで激しく警鐘を鳴らしている。
両手を見る。そこにあるはずの冷たいサバイバルナイフの感触はない。ただ、汗で湿ったシーツを力強く握りしめているだけだった。
「……夢、か……」
掠れた声が、自分の喉から漏れ出た。
震える手で顔を覆い、深く長い息を吐き出す。
部屋の中には、見慣れた壁紙と、机に散乱した教科書。壁掛けのエアコンが微かなモーター音を立てて冷気を吹き出している。
カーテンの隙間から、眩しい朝の光が一本の鋭い線となって床に伸びていた。
蓮はベッドから這い出し、よろけるような足取りで窓際へと向かった。遮光カーテンを勢いよく開け放つ。
目に飛び込んできたのは、澄み渡る青空と、どこまでも平和で退屈な彩葉市の住宅街の風景だった。
遠くの市街地から立ち上っていた黒煙もない。道路を埋め尽くす血まみれの暴徒も、耳をつんざくようなサイレンの音も、何もかもが存在していなかった。
電線にはスズメが止まってのどかに囀り、近所の家からは朝食を作る焼き魚の匂いが微かに風に乗って漂ってくる。
「……よかった」
蓮は窓枠に額を押し当て、安堵のあまりその場にへたり込みそうになった。
昨日、月曜日の放課後。単身赴任中の父・哲也から電話がかかってきたのは事実だ。『念のため、非常用持ち出し袋の場所を確認しておけ』と、確かに父は言った。声も少し焦っていたように思う。
だが、その後の『街が狂い始めている』という怒号や、家の外を取り囲む化け物たち、テレビの停波、そして学校が燃え盛る光景は、すべて極度の緊張と不安が蓮の脳内で作り出した『最悪の悪夢』に過ぎなかったのだ。
時計を見ると、午前六時半を回ったところだった。
蓮はふらつく足で洗面所へ向かい、蛇口をひねった。『ジャーッ』という小気味よい音と共に、冷たく透き通った水が勢いよく流れ出す。断水などしていなかった。
両手で水をすくい、何度も顔を洗う。冷たい感触が、夢の残滓を少しずつ削ぎ落としてくれる。
一階のリビングに下りると、母の恵子がキッチンで味噌汁を作っており、妹の結衣が制服姿でテレビを見ながら欠伸をしていた。テレビの画面からは、爽やかな朝の情報番組のキャスターの声が流れている。
「おはよう、蓮。今日は早いのね」
「あ、うん。ちょっと目が覚めしゃって」
蓮は努めて平然を装いながら、ダイニングテーブルについた。
悪夢の中での絶望的な籠城戦が嘘のような、完璧な日常の朝食風景。蓮は出された味噌汁を一口すすり、胃の腑に染み渡る温かさにようやく人心地がついた。
(親父の電話も、きっとただの心配性から来たものだ。防災の日に合わせたチェックとか、そういうレベルの話だったんだ)
そう自分に言い聞かせることで、蓮は事なかれ主義の殻の中に再び身を隠そうとした。
だが、テレビのニュースが東欧の暴動事件を報じた時、一瞬だけ、夢の中で見たあの血走った化け物の目が脳裏をよぎった。
蓮は無言で箸を動かしながら、胸の奥底に小さな、しかし冷たいしこりのような不安が残っているのを感じていた。それは、いくら日常の光を浴びても溶け切らない、不吉な予感の結晶だった。
九月二日、火曜日。午前八時。
蓮はいつものように自転車にまたがり、通学路の坂道を下っていた。
途中の交差点で親友の健太と合流し、彼の能天気な軽口を聞きながらペダルを漕ぐ。
「だからさ、昨日の夜中バズってた動画、絶対映画の宣伝だって! 人が人を噛みちぎるなんて、日本で起きるわけねえじゃん!」
健太が笑いながら言うその『動画』の話も、蓮の心にはひどく重く響いた。悪夢の中で見た光景と、あまりにも似通っていたからだ。
「……そうだな。作り物に決まってる」
蓮は生返事を返しつつ、学校の正門を抜けた。
昇降口で靴を履き替え、少し遠回りをして弓道場の前を通る。そこには、朝の光を浴びながら凛とした姿勢で弓を引く葵の姿があった。
『パーーン!』
空気を弾く甲高い弦音。的に見事命中する矢。彼女の完璧な射法と、こちらに気づいて小さく微笑んでくれたその顔を見て、蓮はようやく「ここは現実の平和な世界だ」と心から安堵することができた。
彼女がいる。健太がいる。平凡な学校生活がある。悪夢は終わったのだ。
蓮は足取りも軽く、健太と共に二年B組の教室がある本棟の三階へと向かった。
廊下には、いつものように生徒たちの賑やかな笑い声が響いているはずだった。
しかし。
教室の前扉に手をかけ、引き開けた瞬間。
蓮の足は、無意識のうちにピタリと止まった。
「……ん? どうした、蓮。早く入れよ」
後ろからついてきた健太が、蓮の背中に軽くぶつかる。
「いや……」
蓮は教室内を見渡し、眉をひそめた。
時計の針は、朝のホームルーム開始五分前を指している。
普段なら、この時間帯の教室は四十人の生徒がひしめき合い、昨日のテレビ番組の話やスマートフォンのゲームの話題で、耳を塞ぎたくなるほどの喧噪に包まれているはずだ。
だが、今朝の二年B組の教室は、どこか奇妙に風通しが良かった。
「……なんか、今日休み多くね?」
蓮の背中越しに教室内を覗き込んだ健太が、間の抜けた声で呟いた。
その言葉通りだった。整然と並べられた机のあちこちに、主のいない『空席』がぽっかりと口を開けている。
一番前の窓際の席。真ん中の列の二つ。後ろの黒板側の席。
蓮は無意識に、空席の数を数えていた。
一つ、二つ、三つ……八つ、九つ、十……。
「十一人、か」
蓮の口から、微かな声が漏れた。
1クラスの定員は四十人。そのうちの十一人。つまり、クラスの三分の一近くの生徒が、今日のホームルーム開始直前になっても登校していないのだ。
「マジか。いくらなんでも休みすぎだろ。集団で食中毒でも起こしたのか?」
健太は首を傾げながら、自分の席へと向かって行った。
蓮もゆっくりと歩き出し、自分の席に鞄を置いた。
登校している生徒たちも、いつものような底抜けの明るさはなく、どこか落ち着かない様子で周囲の空席をチラチラと気にしている。
「ねえ、沙耶香も休みなの?」
「うん、朝LINEきた。『熱が三十八度出て頭痛いから休む』って。昨日まであんなに元気だったのに」
「えー、マジで? 実は私の弟の小学校も、今日いきなり二クラスが学級閉鎖になったらしいよ。なんかタチの悪い夏風邪が流行ってるみたい」
前の席の女子生徒たちの会話が、蓮の耳に飛び込んできた。
夏風邪。インフルエンザ。食中毒。
集団欠席の理由として考えられる一般的な要因はいくつもある。だが、蓮の胸の奥で、朝の冷たい水で洗い流したはずの『悪夢の残滓』が、再びどす黒く形を成して膨らみ始めていた。
(クラスの三分の一が、一夜にして一斉に体調不良……?)
いくら感染力が強くても、こんなに極端な広がり方をするものだろうか。
ふと、視線を斜め前に向ける。
葵は、すでに登校して自分の席に座っていた。だが、彼女もまた、いつもなら始業前に文庫本を開いているはずなのに、今日は本を机の上に置いたまま、不安げな目で空席の目立つ教室内を見渡していた。
彼女の横顔には、金曜日の図書室で「嫌な予感がする」と言っていた時と同じ、微かな恐怖の影が落ちていた。
蓮は無意識に、自分の左腕を右手で強くさすった。
エアコンの効いた教室だというのに、肌にまとわりつくような薄気味悪い寒気が止まらない。
窓の外から、遠くのバイパス道路を走る救急車のサイレンの音が、かすかに聞こえてきた。
『ピーポー、ピーポー……』
街を埋め尽くすような絶望の大合唱ではない。まだ、個別の事故として処理されるレベルの音量だ。だが、そのサイレンの音は、昨日よりも確実に増えている。
『街が、狂い始めてる』
電話越しの父の声が、唐突に脳内で再生された。あれは現実だったのか、それとも悪夢の一部だったのか。蓮の記憶の境界線が、恐怖によって曖昧に溶け出しそうになる。
「おーい、席につけー。ホームルーム始めるぞ」
教室の前扉が開き、担任の教師が入ってきた。
三十代後半の、いつもは快活で声の大きい数学教師だ。しかし、今日の彼はどこか疲労の色が濃く、目の下にうっすらとクマを作っていた。手にした出席簿をやけに重そうに教卓に置く。
生徒たちが慌てて着席し、私語を止める。教室内へ、水を打ったような静寂が落ちた。
担任は教卓に両手をつき、ぐるりと教室内を見渡した。空席の多さを確認し、小さく、だが重いため息をついた。
「えー、おはよう。……なんだ、今日は随分と寂しい教室だな」
担任が努めて明るい声を作ろうとしているのが、かえって生徒たちの不安を煽る結果になっていた。
「出席を取る。返事しろよ」
担任が出席簿を開き、名前を読み上げ始める。
「相沢」
「……」
「相沢、休みか。次、石井」
「はい」
「上田」
「……」
名前が呼ばれるたびに、返事のない空白の時間が教室に落ちる。普段なら「あいつサボりかよ」というような軽口が飛ぶ場面だが、今日に限っては誰も口を開こうとしない。
「……水島」
「はい」
葵の澄んだ声が響く。
「城山」
「はいっす!」
健太の無駄に元気な声が、少しだけ教室の空気を緩める。
「日高」
「……はい」
蓮は短く返事をした。
最後まで名前が呼ばれ終わると、担任はチョークを手に取り、黒板の端に欠席者の数を書き込んだ。
『欠席 十二名』
蓮が数えた時から、さらに一人増えていた。遅刻してくるだろうと思っていた生徒からの、欠席連絡が直前に入ったのだろう。
「えー、見ての通り、今日は欠席が非常に多い。朝から職員室の電話が鳴りっぱなしだ」
担任はチョークを置き、生徒たちに向き直った。
「休んでいる連中の理由は、軒並み『突然の高熱』と『激しい倦怠感』だそうだ。インフルエンザの時期には早いが、夏休み明けの疲れが出たのか、あるいは変な夏風邪が流行っているのかもしれない」
担任の言葉は事務的で、冷静を装っていた。だが、蓮はその言葉の裏にある違和感を正確に嗅ぎ取っていた。
(職員室の電話が鳴りっぱなし……? ということは、このクラスだけじゃない。学校全体で、大量の欠席者が出ているってことか)
蓮の背筋を、冷たい汗が伝い落ちる。
もし、これがただの風邪ではないとしたら。ネットの動画。狂ったように人を襲う化け物。あれが、何らかの『感染症』によるものだとしたら。
「いいかお前ら、他人事じゃないぞ。少しでも体調がおかしいと思ったら、無理せずにすぐに保健室に行くか、担任に言え。手洗いうがいを徹底して、休み時間は無駄に他のクラスへ遊びに行かないように。わかったな?」
「はーい……」
生徒たちの返事は、ひどく重く、どんよりと沈んでいた。
ホームルームが終わり、一限目の授業の準備が始まる。
健太が後ろから身を乗り出して、蓮の肩を叩いた。
「なあ、蓮。なんか今日の空気、重くね? 欠席が十人以上出ただけで、お通夜みたいになってるじゃん」
健太は相変わらず能天気な声を出そうとしていたが、その表情には微かな戸惑いが混じっていた。
「……ああ。みんな、気味悪がってるんだよ」
蓮は教科書を机の上に出しながら、声を潜めて答えた。
「気味悪いって、風邪が流行ってるだけだろ?」
「ただの風邪で、一夜にしてこんなに一斉に休むか? それに、昨日のネットの動画の噂もある。みんな、口には出さないけど、心のどこかで『あれと何か関係があるんじゃないか』って疑い始めてるんだ」
蓮の言葉に、健太は一瞬絶句し、すぐに引き攣ったような笑いを浮かべた。
「おいおい、冗談キツイぜ。お前までそんなオカルトじみたこと言い出すなよ。俺は昨日の夜、ホラー映画の特集見て寝不足なんだからさ」
「冗談なら、それでいいさ。俺もそうであってほしいと思ってる」
蓮はそう言って、視線を斜め前の葵の後ろ姿に向けた。彼女の背中は、いつもより少しだけ小さく丸まり、硬く緊張しているように見えた。
(もし、この日常が崩れるようなことがあれば)
悪夢の中で見た、絶望の籠城戦。あんな思いは二度としたくない。だが、もし現実が夢をなぞるように壊れ始めた時は。
『その時は、俺が水島を守るから』
図書室で口にしたその言葉が、蓮の胸の奥で、静かなる誓いとなって燃え上がり始めていた。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
面白かった、続きが気になると思っていただけたら、執筆を続ける大きな励みになります。
ぜひ「★評価」と「ブックマーク」で応援してください!
これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




