第6話:家族の食卓【3/3】
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――朝。
微かな光が、シャッターの隙間からリビングに差し込んでいた。
蓮はハッと目を開けた。時計を見ると、午前六時を回っていた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ナイフは右手で握りしめたままだ。
周囲を見渡すと、恵子がすでに起きており、キッチンでやかんにお湯を沸かしていた。結衣はまだ布団に包まり、すやすやと寝息を立てている。
「あ、蓮。おはよう。起こしちゃったかしら」
恵子が、少し疲れたような笑顔で振り返った。
「いや、大丈夫。母さん、外の様子は?」
蓮が小声で尋ねると、恵子は首を横に振った。
「何も聞こえないわ。サイレンも鳴ってないし……とっても静か」
蓮は立ち上がり、シャッターの隙間から外を覗き込んだ。朝日は昇っているが、空はどんよりとした曇り空だった。
住宅街の道路には、人っ子一人いない。だが、昨日の夕方にはなかった異変があった。
道路の真ん中に、血まみれのワイシャツや、誰かの靴が片方だけ転がっていた。そして、アスファルトには、何かを引きずったような赤黒い痕跡が、生々しく残されている。夜の間に、ここで何かが起きたのだ。
(……昨日の夜中、勝手口に来たやつらか?)
蓮は背筋が寒くなるのを感じた。
「蓮、テレビつけてみるわね。政府からの新しい発表があるかもしれないから」
恵子がリモコンを操作する。だが、画面に映し出されたのは、昨日と同じNHKの特別番組のスタジオではなく、無機質なカラーバーと、『現在、放送設備に不具合が発生しており、放送を休止しています』というテロップだけだった。
「……え?」
恵子が他のチャンネルに変えるが、民放もすべて同じ状態だった。一部のチャンネルは、砂嵐のノイズしか映らない。
「放送が……全部止まってる……?」
恵子の声が震えた。
蓮は急いで自分のスマートフォンを確認した。アンテナは依然として『圏外』。インターネットにも繋がらない。
「母さん。スマホは?」
「だ、ダメよ。繋がらない。固定電話も、ツー、っていう音がしないの……」
完全な情報遮断。昨夜の「暴動は鎮圧された」という政府の言葉が、急速に嘘くさく思えてくる。もし本当に事態が収束しているなら、なぜテレビ放送が完全に停止しているのだ。なぜ通信インフラが復旧しないのだ。
「……お兄ちゃん? お母さん? どうしたの?」
結衣が目をこすりながら起き上がってきた。
「結衣、テレビが……テレビが映らないのよ。電話も繋がらないし……」
パニックになりかける恵子を見て、蓮は強い口調で言った。
「落ち着いて、母さん。きっと、テロリストのサイバー攻撃がまだ続いてるんだよ。テレビ局が狙われたって昨日言ってたじゃないか。だから放送が止まってるだけだ」
蓮は、再び『正常性バイアス』を利用して家族をなだめようとした。
だが、蓮自身の心の中では、最悪のシナリオが確信へと変わりつつあった。
国家機能の崩壊。この街は、いや、この国は、すでにあの化け物たちに飲み込まれてしまったのではないか。
「とりあえず、顔を洗って、朝飯にしよう。昨日のカレーがあるだろ」
蓮は努めて平然を装い、キッチンへと向かった。蛇口をひねる。
『ゴフッ……ゴボボボッ』
赤茶けた水が少しだけ吐き出され、その後、水道管から空気が抜ける音だけが響き、水は完全に止まった。
「……」
蓮は無言で蛇口を見つめた。
「蓮? どうしたの?」
「……水が、出ない。断水だ」
「えっ……?」
恵子が駆け寄り、蛇口をひねるが、やはり水は一滴も出なかった。
電気はまだ生きている。だが、通信、放送、そして水道という、現代社会の生命線が次々と断たれていく。それは、見えない真綿で首を絞められているような、じわじわとした絶望感だった。
「どうしよう……。お水が出ないんじゃ、顔も洗えないし、トイレも……」
結衣が不安そうに言う。
「大丈夫だ。冷蔵庫のペットボトルの水がある。それに、いざとなれば庭の雨水タンクも使える」
蓮は冷静に答え、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。
「とりあえず、手だけ洗って、ご飯にしよう。腹が減ってちゃ、何も考えられないからな」
ガスはまだ通っていた。恵子がカレーを温め直し、昨日と同じようにダイニングテーブルに食事が並べられる。
だが、食卓の空気は、昨夜の『安堵』とは全く違っていた。
テレビのカラーバーが放つ無機質な光。水道が止まったという現実。政府の言う『鎮圧』という言葉が、虚構であることを誰もが薄々感じ始めていた。無言でカレーを口に運ぶ。味など全くしなかった。
「……蓮」
恵子が、スプーンを置いて蓮を見た。
「これから、どうするの?」
それは、もはや子供に向ける質問ではなかった。父が不在の中、この家の家長として、意思決定を委ねる大人の目だった。
蓮はカレーを飲み込み、まっすぐに母を見た。
「親父は『外に出るな』って言った。だから、基本はこの家で籠城する。水と食料は、親父の備蓄があるから数週間は持つはずだ。でも……」
蓮は言葉を区切った。
「もし、この状況が長引けば、いずれここも安全じゃなくなる。外の暴徒が、食い物を求めて家を漁り始めるかもしれない」
「じゃあ……逃げるの?」
「行くとしたら、指定避難所の『イオンモール彩葉』だ。あそこなら、自衛隊や警察の拠点になってる可能性が高いし、物資も豊富だ。でも、外の状況がわからない今、不用意に動くのは危険すぎる」
蓮は、昨夜の勝手口の光景を思い出しながら言った。
「だから、今日一日はここで様子を見る。電波が復旧して、親父と連絡が取れるかもしれないし、外で救助活動が始まるかもしれない。動くのは、確実な情報が手に入ってからだ」
それが、蓮の考えた現時点での最善の生存戦略だった。
「……わかったわ。あなたのお父さんが、あなたを頼りにした理由がわかる気がする。蓮、お願いね」
恵子が、少しだけ頼もしそうに微笑んだ。
「お兄ちゃん、かっこいいじゃん」
結衣も、少しだけ安心したように笑った。
家族の温もり。自分を信じてくれる視線。それが、蓮の心に重い責任と、生き抜くための絶対的な原動力をもたらしていた。
朝食を終え、蓮は家の中の再確認を始めた。
窓の鍵は全て閉まっているか。シャッターは固定されているか。勝手口のひび割れたガラスには、ガムテープを何重にも貼り付けて補強した。
そして、二階の自分の部屋へと向かう。制服に着替えるためだ。
暴動が起きている中、なぜ制服を着るのか。自分でも理由はよくわからなかった。だが、高校の制服を着ることで、自分がまだ『日常のルール』の中にいる人間なのだと、証明したかったのかもしれない。
ワイシャツに袖を通し、ズボンを穿く。
ふと、窓の外を見た。
相変わらず、空はどんよりと曇っている。だが、蓮の視線は、ある一点に釘付けになった。
遠く、市街地の方角。
昨日まで、そこには見慣れた学校の校舎――県立彩葉第一高等学校の、白い特別棟の屋上が見えていたはずだ。
だが、今、その屋上から。
真っ黒な、太い煙の柱が、空に向かって立ち上っていた。
「……嘘だろ」
蓮は窓に顔を押し付けた。
間違いない。学校が、燃えている。
それも、ただの小火ではない。特別棟全体を飲み込むような、大規模な火災だ。
「学校が……」
蓮の脳裏に、図書室で一緒に過ごした葵の顔がフラッシュバックした。
彼女は、昨日、無事に家に帰れたのだろうか。もし、まだ学校に残っていて、あの火災に巻き込まれていたとしたら。
いや、それよりも恐ろしいのは。
あの火災が、事故ではなく、意図的に『何か』を焼き払うため、あるいは『何か』から逃れるために、誰かが火を放ったのだとしたら。
昨日の放課後、クラスメイトたちが言っていた能天気な言葉を思い出す。
もし、何も知らずに登校してしまった生徒たちがいたら。そして、あの学校の中に、すでに狂気が侵入してしまっていたら。
「……」
蓮は、窓ガラスに額を押し当て、強く目を閉じた。
行かなければならない。学校に。葵が、健太が、そしてクラスメイトたちがいるかもしれないあの場所に。
事なかれ主義の自分なら、絶対にそんな危険な真似はしない。家で家族と一緒に息を潜めているのが一番安全だとわかっている。だが、胸の奥で、激しい衝動が渦巻いていた。
『俺が水島を守るから』
図書室で交わしたあの約束。親父から託された、生き延びろという言葉。
ここで見捨てて家の中に引きこもれば、俺は一生、後悔に殺される。
蓮は目を開け、決意を固めた。
ズボンのベルトに、サバイバルナイフとマグライトを差し込む。そして、学生鞄の中に、カロリーメイトとペットボトルの水を押し込んだ。
一階へ下りる。
「母さん。俺、ちょっと学校の様子を見てくる」
蓮の突然の言葉に、恵子と結衣は驚愕して立ち上がった。
「な、何言ってるの蓮! 外に出るなって、お父さんもあなたも言ってたじゃない!」
「わかった。でも、二階から見たら、学校から黒い煙が上がってたんだ。もしかしたら、避難所に指定されてて、誰かが助けを求めてるかもしれない。健太や水島が、そこにいるかもしれないんだ」
「だからって、あなたが行く必要はないわ! 警察に任せれば――」
「警察は来ないよ、母さん」
蓮は、残酷な現実を母に突きつけた。
「昨日、パトカーが逃げていくのを見た。防衛線は突破されてる。テレビも水道も止まった。俺たちが待ってても、誰も助けに来てくれないかもしれないんだ」
恵子は言葉を失い、その場にへたり込んだ。
「……死なないでよ、お兄ちゃん」
結衣が、涙ぐみながら言った。
「ああ。絶対に帰ってくる。だから、俺が帰ってくるまで、何があっても絶対に鍵を開けるな。いいな?」
蓮は二人を強く抱きしめ、そして玄関へと向かった。
ドアのチェーンを外し、鍵を開ける。冷たい金属のドアノブに手をかける。
このドアの向こうには、もう彼が知っている日常はない。
蓮は深く息を吐き出し、意を決して玄関のドアを押し開けた。
九月二日、火曜日。午前八時。
重い玄関の扉の向こうへと、一歩を踏み出す。
大切なものを守るための戦いが、静かに始まった。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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