第6話:家族の食卓【2/3】
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「お風呂、空いたよー」
洗面所のドアが開き、パジャマ姿で髪をタオルで拭きながら、結衣がリビングに入ってきた。石鹸の甘い香りが、漂ってくる。日常の匂い。平和の象徴。
「おう。じゃあ、次俺が入るわ」
蓮は努めて普段通りの声を作り、立ち上がった。
「蓮、着替えは洗面所の棚に置いてあるわよ。お湯、冷めてない?」
キッチンから恵子が声をかけてくる。
「大丈夫。すぐに出るから」
蓮はリビングを出て、洗面所へと向かった。
脱衣所で服を脱ぎ、浴室のドアを開ける。モワッとした湯気が立ち込め、鏡が白く曇っている。
シャワーを出し、お湯を頭から浴びる。温かい湯が、こわばっていた筋肉をほぐし、疲労を洗い流していくように感じられた。
だが、目を閉じると、暗闇の中にあの血走った目が浮かび上がってくる。蓮は何度も頭を振り、シャワーの温度を少し下げて、冷たい水で強制的に意識を覚醒させた。
風呂から上がり、パジャマに着替えてリビングに戻ると、すでに恵子と結衣によって、部屋の中央に三組の布団が『川の字』に敷かれていた。
テレビの明かりと、小さな豆電球だけの薄暗い部屋。シャッターは固く閉ざされ、外の様子は全く窺い知れない。
「なんだか、修学旅行みたいだね」
結衣が布団に潜り込みながら、少しだけ楽しそうに笑った。
「そうね。昔、お父さんがキャンプ用のテントをリビングに張って、みんなで寝たことがあったわね。あの時みたい」
恵子も布団の上に座り、懐かしそうに目を細めた。
家族の温もり。それは、蓮の心を強く締め付けた。この温もりを、明日以降も守り抜くことができるのか。
蓮は、自分が寝る位置を確認した。一番ドアに近く、そして、テレビ台の裏のサバイバルナイフに最も近い位置。それが、彼が選んだポジションだった。
「じゃあ、明日の朝にはテレビも直って、全部元通りになってることを祈って。おやすみなさい」
恵子が言い、豆電球の紐を引いた。リビングが、完全な闇に包まれた。
「おやすみ、お母さん。お兄ちゃんもおやすみ」
「……おやすみ」
蓮は布団に横たわり、目を閉じた。
結衣の規則正しい寝息が聞こえ始める。彼女は、本当に政府の言葉を信じ切り、何の疑いもなく眠りに落ちたのだ。恵子も、少し寝返りを打った後、静かになった。
家族が眠りについた後も、蓮だけは暗闇の中で目を見開いていた。
耳を澄ませる。冷蔵庫のモーター音。時計の秒針。
そして。
シャッターの向こう側の、遠い闇の中から。
『アァァ……』
微かな、だが確かに、人間のものとは思えないうめき声が、風に乗って聞こえてきたような気がした。
蓮は、布団の中で両手を強く握りしめた。
長い、長い夜が、始まった。
この静かな温もりがどれほど脆く儚いものかを噛み締めながら、蓮は深く息を吐いた。
暗闇の中で、時計の秒針だけがチクタクと無機質に時を刻んでいる。
夜中の二時を過ぎた頃だろうか。蓮は布団の中で目を開けたまま、寝返りさえ打たずに天井の闇を睨みつけていた。
隣からは、恵子と結衣の規則正しい寝息が聞こえてくる。二人は政府の『暴動は鎮圧された』というニュースを信じ切り、あるいは極度の緊張からの反動で、泥のように深い眠りに落ちていた。
だが、蓮の神経は刃物のように研ぎ澄まされ、決して眠りを許さなかった。
(……静かすぎる)
夕方にあれほど街中を包み込んでいたサイレンの音が、今は完全に途絶えている。
それは事態の収束を意味するものではないと、蓮の本能が告げていた。緊急車両を出動させる人間すらも、あるいはサイレンを鳴らす意味すらも、この街から消失してしまったということだ。
シャッターの向こう側、道路の方から、時折アスファルトを擦るような『ズッ……ズッ……』という足音が聞こえてくる。それは、機動隊によって連れ去られたスーツの男たちとは別の、新たな『感染者』の徘徊する音だった。
彼らは光や音に反応するらしい。だからこそ、家中の明かりを消し、息を潜めている。
蓮は布団の中でそっと右手を伸ばし、テレビ台の裏に隠してあるサバイバルナイフの柄の感触を確かめた。硬く、冷たい。これを使う時が、来ないことを祈る。だが、もし来たなら、その時は。
(親父……。あんたは今、どこでどうしてるんだ)
単身赴任先の隣県。電話口で聞いた、あのガラスが割れる音と悲鳴。
父の生存を信じたい。だが、もし父がすでに……あの化け物の一員になってしまっていたとしたら。
「ダメだ、考えるな」
蓮は心の中で首を振り、ネガティブな思考を強制的にシャットアウトした。今はただ、目の前の家族を守ることだけを考えろ。
その時だった。
『……ドンッ』
一階の奥、勝手口の方から、鈍い衝撃音が聞こえた。
蓮の心臓が、早鐘のように打ち始める。風で何かが飛んできた音ではない。明らかに、ある程度の質量を持ったものが、勝手口のアルミドアにぶつかった音だ。
『ガシャッ、ガシャガシャッ』
続いて、勝手口のドアノブが、外から乱暴に揺さぶられる音が響いた。
(……来た)
蓮は布団を跳ね除け、音を立てずに立ち上がった。暗闇に目が慣れてきたとはいえ、足元はほとんど見えない。蓮は手探りでテレビ台の裏からナイフとマグライトを引き抜き、素足のまま廊下へと出た。
ドアノブを揺さぶる音は、執拗に続いている。勝手口のドアは、上半分がすりガラスになっている。もし強く叩き割られれば、簡単に侵入されてしまう。
蓮は息を殺し、廊下の壁に背中を張り付けながら、勝手口へと少しずつ近づいていった。
暗闇の廊下の奥、勝手口のすりガラス越しに、月明かりに照らされた『二つの人影』が浮かび上がっているのが見えた。
(二人……いや、三匹か)
人影は、ドアにぴったりと張り付き、無意味に頭や肩をぶつけながら、ドアノブをガチャガチャと回そうとしている。
『ウゥゥ……アァァァ……』
ガラス越しに、腹の底から響くような低いうめき声が聞こえる。
蓮はマグライトのスイッチに親指をかけ、右手でナイフの柄を強く握りしめた。手が震えている。奥歯がガチガチと鳴りそうになるのを、必死に噛み締めて耐える。
(落ち着け。チェーンは二重にかけてある。鍵も閉まってる。簡単には破られない)
自分に言い聞かせるが、もしガラスが割られたらどうする? その隙間から腕を突っ込まれ、鍵を開けられたら?
その時は。
蓮はナイフの刃を、ドアの方向へと向けた。
『ガシャンッ!!』
ひときわ大きな音が鳴り、すりガラスにヒビが入った。
「っ!」
蓮は思わず声を上げそうになり、口を両手で塞いだ。ドアの向こうの化け物は、何か硬いもの――拾った石か、あるいは自分自身の拳か――で、ガラスを叩き割りにかかっていた。
(来る……入ってくる……!)
蓮は一歩、後ずさりした。逃げるか? 母と妹を起こして、二階へ逃げるか?
いや、ダメだ。パニックになった二人が声を出せば、さらに化け物を呼び寄せることになる。ここで、俺が食い止めるしかない。
蓮が覚悟を決めてドアに向かって一歩踏み出そうとした、その時。
『パァン! パァァン!』
静寂の夜を引き裂くような、乾いた破裂音が二発、外の道路の方から響き渡った。
銃声だ。
勝手口のドアを叩いていた影が、その音に反応してピタリと動きを止めた。
『アァ?』
化け物たちは、より大きな音と刺激を求めて、ドアから離れ、銃声のした方角へとフラフラと歩き去っていった。すりガラス越しの影が消える。
「ハァ……ハァ……」
蓮は、その場に膝から崩れ落ちた。全身からどっと冷や汗が噴き出し、震えが止まらない。
助かった。間一髪だった。
銃声がしたということは、まだ警察か自衛隊がこの近くで活動しているということだ。だが、それは同時に、彼らが発砲を余儀なくされるほどの激戦が、すぐそこまで迫っていることを意味していた。
蓮は震える足で立ち上がり、割れかけた勝手口のガラスを確認した。完全に割れてはいないが、もう一度強い衝撃を受ければ簡単に崩れ落ちてしまうだろう。
(……朝まで、持つのか)
蓮はナイフを握りしめたまま、再びリビングへと戻った。
母と妹は、銃声にも気づかず、まだ深い眠りの中にいた。
蓮は自分の布団の上に座り込み、両膝を抱えて暗闇を見つめた。長い、長すぎる夜だ。この絶望的な暗闇の中で、自分たちだけが取り残されてしまったかのような錯覚に陥る。
ふと、蓮の脳裏に、図書室で不安げに空を見上げていた葵の横顔が浮かんだ。
『すっごく頼りにしてるね』
葵は、今頃どうしているだろうか。彼女の両親は教師で、厳格な家庭だと言っていた。きっと家の中で息を潜め、この嵐が過ぎ去るのを待っているはずだ。
明日、学校で会えるだろうか。会えたら、何て声をかけよう。
『怖かったな』でいいのだろうか。それとも、『もう大丈夫だ』と嘘をつくべきか。
いや、そもそも明日、学校に行ける状況になっているのか。
蓮は、ソファの下に隠した非常用持ち出し袋と水のこと、そしてテレビ台の裏のナイフの場所を頭の中で何度も確認しながら、ゆっくりと意識を浅い眠りの底へと沈めていった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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