第6話:家族の食卓【1/3】
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シャッターによって外の世界から完全に遮断されたリビングは、人工的なLEDの白い光に満たされていた。
数分前まで、この部屋を支配していたのは凍りつくような恐怖とパニックだった。しかし、国営放送のキャスターが読み上げた『サイバーテロと新型麻薬による暴動』という、耳当たりが良く、理解可能な政府の公式発表によって、その絶望はすっかり鳴りを潜めていた。
もちろん、それはただのメッキに過ぎない。
だが、今の母と妹にとっては、その薄っぺらなメッキこそが、正気を保つための絶対的な盾だった。
「蓮、お皿並べるのお願いできる? 結衣はスプーンとお箸を出してちょうだい」
キッチンから、恵子の穏やかな声が響いた。コンロの上では、一度は火を止められて冷めかけていたカレーの鍋が再び温め直され、コトコトとリズミカルな音を立てている。スパイシーで家庭的な、どこにでもあるお母さんのカレーの香りが、換気扇の音と共にリビングの隅々にまで広がっていく。
「わかった。お兄ちゃん、コップに麦茶注いでおいてよ」
結衣はソファから勢いよく立ち上がると、すっかりパニックを忘れたかのような軽い足取りで食器棚へと向かった。
「はいはい」
蓮は短く返事をし、言われた通りに食器棚から白い陶器の皿を三枚取り出した。
手にした皿の、ひんやりとした滑らかな感触。キッチンから聞こえてくる、お玉と鍋が擦れる微かな金属音。蛇口から水が流れる音。
どれもが、蓮がこの十七年間、当たり前のように享受してきた日常のパーツだった。
だが、今の彼には、その一つ一つがガラス細工のように脆く、危ういものに感じられてならなかった。
蓮はダイニングテーブルに皿を並べながら、ふと、リビングの掃き出し窓へと視線を向けた。
重厚な金属製のシャッターが、天井から床までを隙間なく覆い隠している。その向こう側には、見慣れた庭の植え込みがあり、レンガ造りの門扉があり、そして、月明かりに照らされた住宅街のアスファルトの道があるはずだ。
だが、蓮の脳裏には、数十分前に二階の窓から見下ろしたあの光景が、呪いのように焼き付いて離れなかった。
首が折れ曲がり、口の周りを血で染めたサラリーマン。足首を引きずりながら歩く若い女。機動隊の持つアルミ製の刺股を、狂ったように噛みちぎろうとしていた異常な執念。
あれが、ただの麻薬中毒者であるはずがない。彼らは人間を『食べる』ために襲っていたのだ。テレビの中で、渋谷のスクランブル交差点を埋め尽くしていたあの群衆と同じように。
(政府は、嘘をついている)
パニックを防ぐための大本営発表。通信インフラが遮断され、テレビも国営放送の静止画とクラシック音楽しか流れない今、真実を知る手段は完全に絶たれている。
外の世界では、今この瞬間にも、あの化け物たちが警察の防衛線を突破し、住宅街へと雪崩れ込んできているかもしれないのだ。
だが、耳を澄ましても、シャッターの向こう側からは何も聞こえてこない。遠くで鳴っていたサイレンの音すらも、今は奇妙なほどに途絶えていた。
その静寂が、蓮にはかえって恐ろしかった。まるで嵐の前の静けさのような、あるいは、この家が世界からポツンと切り離されてしまったかのような、底知れぬ孤立感が押し寄せる。
「お兄ちゃん、何ぼーっとしてるの? 早く麦茶注いでよ」
テーブルの向かい側から、結衣がスプーンを並べながら不満げに口を尖らせた。
ハッとして我に返る。
「あ、ああ。悪い」
蓮は慌てて冷蔵庫を開け、プラスチックのピッチャーを取り出した。三つのガラスのコップに、麦茶を注いでいく。トクトクという涼しげな音が、彼の焦燥感を少しだけ落ち着かせてくれた。
「はい、お待たせ。お母さん特製の、たっぷり野菜カレーよ」
恵子が、湯気を立てる大盛りのカレー皿を両手に持って、キッチンから運んできた。テーブルの中央には、福神漬けとらっきょうの小鉢も置かれる。
「やった! 私、すっごくお腹空いてたんだ」
結衣が嬉しそうに椅子に座り、スプーンを握りしめる。
「蓮も、冷めないうちに食べなさい。今日は色々あって、本当に疲れちゃったわね」
恵子は蓮の顔を見て、優しく微笑んだ。その笑顔には、恐怖から解放された安堵と、愛する子供たちと食卓を囲めることへの素朴な喜びが満ちていた。
「……うん。いただきます」
蓮は椅子に腰掛け、小さく手を合わせた。
三人で囲む食卓。本来なら、ここに単身赴任中の父・哲也がいれば、完璧な家族の風景になるはずだった。
蓮はスプーンでカレーをすくい、口に運んだ。玉ねぎの甘みと、豚肉の旨味、そして市販のルーが絶妙にブレンドされた、食べ慣れた味。いつもなら素直に喜んで食べられるはずのそれが、今日はなぜか、喉の奥で砂を噛んでいるようにザラザラとした感触に思えた。
「美味しい! やっぱりお母さんのカレーが一番だね」
結衣は無邪気にカレーを頬張り、満面の笑みを浮かべている。
「ふふ、そう言ってくれると嬉しいわ。たくさん作ったから、明日の朝もカレーよ」
「えー、朝からカレー? まあいいけど。明日、学校で今日の暴動のこと、絶対みんな話題にするよね。フェイク動画とか、サイバーテロとか、映画みたいでちょっとワクワクしちゃうかも」
結衣の言葉に、蓮は思わずスプーンを止めた。
「……ワクワク、だと?」
「だってそうじゃん。結局、政府が全部解決してくれるんでしょ? 麻薬やって暴れてた人たちも捕まったみたいだし。明日には普通に学校行けるんだから、ちょっとした非日常イベントみたいなもんじゃん」
結衣は悪びれる様子もなく、福神漬けをカレーに混ぜ込みながら言った。
蓮の胸の奥で、ドス黒い感情が渦巻くのを感じた。
怒りではない。彼女のあまりにも無防備な『正常性バイアス』に対する、どうしようもない恐怖と焦りだった。
もし、明日の朝、玄関のドアを開けた時に、あの血まみれの化け物たちが待ち構えていたら。もし、学校に向かう道中で、狂気に飲み込まれたら。彼女は、その笑顔のまま、何の抵抗もできずに引き裂かれてしまうだろう。
「結衣」
蓮は、努めて低い声で妹を呼んだ。
「あんまり、面白半分に騒ぐな。本当に人が傷ついたりしてる事件なんだぞ。それに、まだ完全に安全だと決まったわけじゃない」
「わかってるよ。お兄ちゃん、お母さんみたいに小言ばっかり。図星突かれて怒ってるんでしょ」
「図星って、なんだよ」
「お兄ちゃんも、本当はビビってたんでしょ? お父さんの電話でさ、『街が狂ってる!』とか大げさに騒いじゃって。でも、結局テレビのニュース見たらテロだったってわかって、一人で空回りしてたのが恥ずかしいんでしょ?」
結衣はクスクスと笑いながら、蓮をからかうように見た。
「……っ!」
蓮は言い返そうとして、奥歯を強く噛み締めた。
言い返せない。いや、言い返してはいけないのだ。
ここで「テレビは嘘だ、親父の言葉が真実だ」と叫ぶことは簡単だ。二階の窓から見た光景を詳細に語って聞かせれば、妹の能天気な笑顔は一瞬で恐怖に引き攣り、パニックを起こすだろう。
だが、それが何になる?
恐怖で泣き叫ぶ母と妹を抱えて、この密室で朝まで怯え続けることが、彼女たちを守ることになるのか。
違う。親父が俺に託したのは、そういうことじゃない。
『お前が、家族を守るんだ』
守るためには、彼女たちの精神を壊してはいけない。
偽りの平和であっても、今はそれにすがらせて、体力を回復させる方が優先だ。警戒し、備え、血を流す覚悟を持つのは、この家で俺一人だけでいい。
「……そうだな。俺が、過剰にビビりすぎてただけだ。親父も、きっとデマに踊らされてパニックになってたんだろうな」
蓮は、ゆっくりと息を吐き出しながら、自分のプライドを押し殺して嘘をついた。
事なかれ主義だったかつての自分なら、妹のからかいにムキになって言い返し、無駄な口論をしていただろう。だが、今の蓮は、感情をコントロールし、最善の生存戦略を選ぶだけの冷静さを持ち始めていた。
「ほらほら、ご飯の時に喧嘩しないの。結衣も、お兄ちゃんをからかわない。お兄ちゃんはね、いざという時にお父さんの代わりに私たちを守ろうとしてくれたんだから。立派だったわよ」
恵子が優しくたしなめるように言い、蓮のグラスに麦茶をつぎ足してくれた。
「ありがとう、母さん」
「お父さんも、今頃どうしてるかしらね……。早く通信が復旧して、声が聞きたいわ」
恵子は心配そうに、ダイニングテーブルの端に置かれた自分のスマートフォンに視線を向けた。画面は真っ暗なままで、通知のランプは一切点滅していない。
「大丈夫だよ。親父は、あんなことでやられるような柔な男じゃない。きっと会社の安全な場所で、カップラーメンでもすすりながら状況が落ち着くのを待ってるさ」
蓮は、母を安心させるために、努めて明るい声で言った。
父の書斎から持ち出したサバイバルナイフとマグライト。そして、玄関の納戸から引きずり出してきた非常用持ち出し袋。それらは今、リビングの隅に乱雑に置かれたままになっている。
テレビのニュースを信じ切った恵子と結衣にとっては、それらは「取り越し苦労の残骸」であり、邪魔な荷物でしかなかった。
だが、蓮にとっては違う。それらは、明日の朝、この家を一歩出た瞬間から、生死を分ける絶対的な命綱なのだ。
食事が終わり、恵子が食器を片付け始めた。
「お母さん、私お風呂入ってくるね」
「ええ、いってらっしゃい。蓮も、結衣の次に入りなさいよ。汗かいてるでしょ」
「わかった。俺、ちょっと片付けしとくよ」
結衣がバスタオルを持って洗面所へと消え、恵子がキッチンのシンクで食器を洗い始める。水道の水音が、リビングの静寂を少しだけ和らげていた。
テレビからは、依然として政府広報の静止画と、退屈なクラシック音楽が流れている。
二人の意識が自分から離れた。その瞬間を、蓮は待っていた。
彼は音を立てないように立ち上がり、リビングの隅に置かれた非常用持ち出し袋の元へと歩み寄った。
銀色の大きなリュックサック。蓮はそのジッパーを静かに開け、中身を素早く、しかし慎重に確認し始めた。
懐中電灯、携帯ラジオ、手回し充電器、アルミブランケット、救急セット、乾電池、カロリーメイト、水。
完璧な備えだ。父・哲也のアウトドア趣味と心配性が、これほどまでに頼もしく思えたことはない。
(……これを、いざという時にすぐに持ち出せるようにしておかないと)
もし、夜中にあの化け物たちが家の窓を破って侵入してきたら。その時、重いリュックを背負って逃げる余裕があるとは限らない。最悪の場合、身一つで家を飛び出さなければならない可能性もある。
だからこそ、生存に必要な最低限の物資を、リュックの中だけでなく、家の『動線』の途中に分散させて隠しておく必要がある。
蓮は、リュックの中から、予備の小さなLED懐中電灯と、カロリーメイトの箱を二つ、そして五百ミリリットルのペットボトルの水を二本取り出した。そして、それらをリビングのソファの下、クッションの影になる部分に素早く滑り込ませた。
ソファは、庭に面した掃き出し窓から最も遠く、勝手口へと続く廊下に出るのに最も近い位置にある。もし窓から何かが侵入してきた場合、母と妹をソファの裏に隠れさせ、そこから外へ逃がすルートが一番現実的だ。その際、ソファの下にある物資をサッと掴んで逃げられるようにしておくための、彼なりの布石だった。
次に、玄関のシューズボックスの中。
蓮は足音を忍ばせて廊下に出ると、シューズボックスの扉を開け、自分のスニーカーの隣に、もう一つの懐中電灯と救急セットの小さなポーチを隠した。玄関から逃げるパターン。あるいは、外から帰還した時に、すぐに治療や明かりを確保するための備えだ。
「蓮ー? 何してるの?」
キッチンから、恵子の声が飛んできた。
蓮はビクッと肩を跳ねさせ、慌ててシューズボックスの扉を閉めた。
「あ、いや! 戸締まりの確認! チェーンがちゃんと掛かってるか見てただけだよ!」
「そう。ありがとうね。お母さんも、もうすぐ洗い物終わるから」
誤魔化すように言い返し、蓮は再びリビングへと戻った。
心臓がバクバクと鳴っている。まるで、親の目を盗んでイタズラをしている子供のような気分だ。いや、実際にやっていることは、家族に隠し事をしているという点では同じだ。
だが、これはイタズラではない。命を繋ぐための、孤独な作業なのだ。
リビングに戻った蓮は、自分のズボンのベルトに差し込まれたままの、重いサバイバルナイフと大型のマグライトに手を触れた。
父の書斎のキャビネットに隠されていた、非日常の象徴。
(これは……どうする?)
ナイフを常に身につけておくのが一番安全だ。
だが、もし母や妹にこのナイフを見られれば、必ず問いただされる。「どうしてそんな物騒なものを持っているのか」と。
政府の言う通り、ただの暴動で明日には終わるなら、ナイフなど必要ないはずだ。ナイフを持っているということは、蓮が政府の発表を信じておらず、事態が致命的であると考えていることの証明になってしまう。
それは、彼が守ろうとしている『偽りの平和』を根本から破壊する行為だ。
蓮は悩んだ末、ナイフを鞘ごとベルトから引き抜き、リビングのテレビ台の裏側、普段は誰も手を伸ばさない配線の隙間に、マグライトと共に隠すことにした。ここなら、リビングで寝泊まりする限り、数歩で手が届く。そして、母や妹の目に触れることもない。
『躊躇するな。頭を狙え』
ナイフをテレビ台の裏に置いた瞬間、再び父の言葉が脳裏に蘇った。
このナイフを抜く時。それは、俺が本当に『人間』を、あるいは『人間だったもの』を刺し殺す時だ。
俺に、そんな覚覚悟があるのか?
平和な日本で育ち、喧嘩すらろくにしたことのない俺に、誰かの命を奪ってでも家族を守るという、そんな血生臭い覚悟が。
蓮は、自分の両手を見つめた。
震えていた。ナイフの重みが、手のひらに生々しく残っている。
怖い。化け物が怖い。死ぬのが怖い。
そして何より、自分が人殺しになるかもしれないという事実が、狂おしいほどに恐ろしかった。
「……やるしかないんだ」
蓮は、両手を強く握り締め、震えを無理やり抑え込んだ。
事なかれ主義で、責任から逃げてばかりいた俺は、今日の夕方、あのサイレンの中で死んだ。俺は今、日高家の長男として、そして父の代理として、ここに立っている。
守る。絶対に。母さんも、結衣も。
そして……。
蓮の脳裏に、図書室で不安げに微笑んでいた、葵の顔が浮かんだ。
『すっごく頼りにしてるね』
あいつも、今頃、怯えているのだろうか。
連絡を取る手段はない。彼女が無事に家に帰り着いたのかどうかすら、わからない。
(水島……無事でいてくれ。明日、学校で必ず会おう)
蓮は、テレビ台の裏に隠したナイフに、心の中で祈りを込めた。
今回の続きは、13:10の投稿になります。お楽しみに!
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