第5話:夕暮れのサイレン【2/3】
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次に、蓮は二階にある父の書斎へと向かった。
階段を駆け上がり、廊下の一番奥の部屋のドアを開ける。壁一面の本棚と、黒い木製のデスク。壁には山岳写真のパネルが飾られている。
蓮はデスクに向かい、一番下の引き出しを開けた。父の指示通り、引き出しの裏側に手を回すと、ガムテープで貼り付けられた小さな金属の鍵の感触があった。
「あった……」
鍵を剥がし取り、部屋の隅にあるスチール製の黒いキャビネットへと向かう。
鍵穴に差し込み、回す。
ガチャン、という重い音と共に、キャビネットの扉が開いた。
中には、父が趣味で集めていたアウトドアギアが所狭しと収納されていた。浄水フィルター、ファイヤースターター、パラコード、頑丈な手袋。
そして、その中心に、黒い革のシース(鞘)に収められた、ずっしりと重い『キャンプ用のサバイバルナイフ』と、警棒のような形をした漆黒の『強力マグライト』が置かれていた。
蓮はナイフを手に取った。
鞘から抜くと、鈍く光る分厚い刃が現れた。刃渡りは二十センチ近くあり、片側はノコギリのようなギザギザになっている。単なる調理用ではなく、明らかに「切る」「叩き割る」といった荒事に特化したプロ仕様の道具だった。
(『躊躇するな。生き延びろ』……)
父の最後の言葉が、ナイフの冷たい重みと共に蓮の手に伝わってくる。
人を殺傷するための武器。現代日本の高校生が、決して手にしてはいけないもの。
だが、父はあえてこれを蓮に託した。街が狂い、言葉が通じない化け物が徘徊する世界で、家族を守るためには、倫理や常識を捨ててこれを使えと、そう言いたかったのだ。
「……わかったよ、親父」
蓮はナイフを鞘に戻し、マグライトと共にリュックの中に押し込んだ。
二階から一階へ戻る途中、窓の外を見た。
完全に日が落ち、街は夜の闇に包まれている。しかし、遠くの市街地の方角の空だけが、不気味なオレンジ色に明るく照らされていた。火災だ。
そして、サイレンの音はもはや個別の音として認識できないほど重なり合い、街全体を覆う巨大なノイズと化していた。
一階のリビングに戻ると、恵子と結衣がテーブルの上に食料や水を広げていた。
「蓮、お父さんの言っていたものは見つかった?」
「ああ。全部揃えた。あとは、テレビとラジオで情報を集めよう」
蓮が非常用袋をテーブルの横に置いた時だった。
『ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……』
突然、窓の外から、腹の底を震わせるような重低音のサイレンが鳴り響いた。消防車や救急車のそれとは違う。街中に設置された、防災無線のスピーカーからの音だ。
「な、なにこれ。空襲警報みたい……」
結衣が耳を塞ぎながら怯える。
サイレンの音が止み、代わりに男性の焦ったような声が響き渡った。
『――市民の皆様に、緊急にお知らせします。現在、市内で大規模な暴動事件が発生しております。警察の指示に従い、速やかに屋内へ避難し、戸締まりを厳重に行ってください。絶対に、外に出ないでください。繰り返します――』
防災無線のアナウンスが、街中に不気味なエコーとなって響く。
テレビの画面では、先ほどのニュース番組が特別報道番組に切り替わり、アナウンサーが青ざめた顔で原稿を読み上げていた。
『……たった今、入ってきた情報です。暴徒化した集団は、警察の規制線を突破し、現在、彩葉市の中心部に向かって移動しているとの未確認情報があります。市民の皆様は、決して外に出ず、安全な場所で待機してください』
「彩葉市……ここに来てるの……?」
恵子が震える声で呟いた。
蓮は窓のシャッターに近づき、わずかな隙間から外の様子を窺った。自宅の前の住宅街の道路には、まだ人影はない。だが、遠くの方から、何かが割れる音、車のクラクション、そして……人間の叫び声のようなものが、風に乗って微かに聞こえてくるような気がした。
「母さん。結衣。今夜は、一階のリビングに布団を敷いて、全員ここで寝よう。何かあったらすぐに動けるように、靴はすぐに履ける状態にしておいてくれ」
蓮は振り返り、家族に向かって明確な指示を出した。事なかれ主義の息子が、見違えるように冷静で力強い瞳をしていることに、恵子は驚きながらも頷いた。
「……わかったわ。結衣、お母さんと一緒に二階から布団を下ろしましょう」
「うん……」
家族が動いている間、蓮は父から託されたサバイバルナイフの入ったリュックを、自分の手元に引き寄せた。
電話が切れた時の、あの絶望的な状況。父は今どこでどうしているのか。
「頼むから、死なないでくれよ……」
蓮は誰にも聞こえない声で呟き、窓の外の狂い始めていく街を睨みつけた。
暗闇に包まれた一階のリビング。
シャッターを下ろした窓の向こうから聞こえてくる、得体の知れないうめき声と、アスファルトを擦るような引きずり足の音が、少しずつ、だが確実に日高家の前へと近づいてきていた。
『アァァ……ウゥゥゥゥ……』
それは、酷く酔っ払った人間の声にも聞こえるし、重い病に苦しむ患者の呻吟のようにも聞こえた。だが、その声の底には、人間としての理性や感情が一切削ぎ落とされた、純粋な『飢え』だけが響いているように蓮には感じられた。
リビングの中心に敷かれた布団の上で、結衣がガタガタと震えながら恵子の腕にしがみついている。恵子もまた、結衣を抱きしめながら、顔面を蒼白にして窓の方を凝視していた。
蓮は、ズボンのベルトに差し込んだサバイバルナイフの柄に手を当てた。硬く、冷たい金属と強化プラスチックの感触。それが、今この家で唯一、外の理不尽な暴力に対抗できる『力』だった。
(……家の前を、通り過ぎてくれ)
蓮は息を殺し、心の中で祈った。
だが無情にも、その足音は日高家の門扉のすぐ外側でピタリと止まった。
『ガシャン……ガシャ、ガシャ』
金属製の門扉が、外から不規則に揺すられる音が響いた。
「ひっ……!」
結衣が短く悲鳴を上げ、両手で自分の口を塞いだ。誰かが、門を開けようとしている。いや、『開ける』という知的な動作ではなく、ただ目の前にある障害物に体重をぶつけ、無軌道に揺さぶっているような音だった。
「母さん。結衣」
蓮は、極力声を潜めて二人に囁きかけた。
「ここでじっとしててくれ。声は絶対に出すなよ。俺は、二階の窓から外の様子を見てくる」
「ダメよ、蓮! 危ないわ!」
恵子が蓮の袖を強く引いた。その手は氷のように冷たかった。
「大丈夫だ。二階から見下ろすだけだから、見つかることはない。相手が何なのか、どれくらいの数がいるのかを確認しておかないと、いざという時に逃げ遅れる」
蓮は母の手を優しく、だが力強く振りほどいた。事なかれ主義で、いつも逃げ腰だった息子の瞳に、かつて見たことのない強固な意志の光が宿っているのを見て、恵子はそれ以上引き止める言葉を飲み込んだ。
「……気をつけてね。絶対に、無理はしないで」
「わかってる。もし俺が『逃げろ』って叫んだら、二人は裏の勝手口から全速力で逃げて、近所の家でもどこでもいいから助けを求めるんだ。いいな?」
二人がこくりと頷くのを確認し、蓮は立ち上がった。
抜き足差し足でリビングを出て、廊下へと向かう。
家の中は、冷蔵庫のモーター音と、壁掛け時計の秒針の音しか聞こえないほどの静寂に包まれていた。だが外からは、依然として門扉を揺さぶる不気味な音が続いている。
蓮は階段の冷たい手すりに手をかけ、一段一段、音を立てないように慎重に二階へと登っていった。
二階の廊下も真っ暗だった。
蓮は、道路側に面している両親の寝室へと向かった。ドアノブを静かに回し、中へと入る。部屋の中には、父の使っていたオーデコロンの微かな香りが残っていた。それが、奇妙に蓮の心を少しだけ落ち着かせた。
足音を忍ばせて、ベランダへと続く大きな掃き出し窓へと近づく。分厚い遮光カーテンの端を指先でほんの数ミリだけめくり上げ、外の道路を見下ろした。
雲一つない夜空には不気味なほどに明るい月が浮かんでおり、住宅街の道路を青白く照らし出している。
街灯の光と月明かりの下。
日高家の門扉の前に、二つの人影があった。
一人はスーツ姿の中年男性。もう一人は、カジュアルな服装の若い女だった。
蓮の心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
彼らの姿は、あまりにも異様だった。スーツの男性はワイシャツの胸元がどす黒く染まっており、首が右側に不自然な角度で傾いたまま固定されている。若い女の方は裸足であり、足首のあたりから血を流してアスファルトを引きずっていた。
『アァァ……ウゥゥ……』
男の方が日高家の門扉に顔を押し付け、何度も何度も無意味に頭をぶつけ続けている。金属の門扉に額がぶつかるたびに鈍い音が鳴るが、男は痛みを全く感じていないかのように同じ動作を繰り返していた。
(なんだ、あれは……。やっぱり、人間じゃない)
ネットの動画で見たのと同じだ。人間としての理性を完全に失い、ただ目の前にある獲物――この家の中にいる生きた人間――の匂いか音に引き寄せられているだけの、純粋な暴力の塊。
蓮はナイフの柄を握る手に力を込めた。手のひらにはびっしりと冷や汗をかいている。
もし、あいつらが門を乗り越えてきたら。玄関のドアを破ってきたら。俺は、このナイフであいつらの頭を刺せるのか。相手は人間だ。つい数時間前まで、自分たちと同じようにこの街で暮らしていた人間なのだ。それを、殺せるのか。
自問自答する蓮の耳に、ふいに別の音が飛び込んできた。
『ガラッ』
二軒隣の家の玄関の引き戸が、無造作に開く音だった。
「おいおい、こんな夜更けに何の騒ぎだよ。酔っ払いか?」
声の主は、近所に住む初老の男性、佐藤さんだった。パジャマ姿の彼は、家の外で続く不審な物音に腹を立てて、注意しに出てきてしまったのだ。
(ダメだ、佐藤さん! 外に出るな!)
蓮は心の中で絶叫したが、声に出すことはできなかった。自分が声を出せば、あいつらの標的が完全にこの家に向いてしまう。
佐藤さんは、門扉の前でうごめく二つの人影に近づいていく。
「ちょっとあんたたち、うちの近所で何やって――」
その瞬間。
門扉に頭をぶつけていたスーツの男と若い女が、同時に佐藤さんの方へと首を猛烈な勢いで回転させた。そして、まるでバネ仕掛けの獣のようにアスファルトを蹴り、佐藤さんへと飛びかかった。
「うわっ!? な、なんだお前ら!」
佐藤さんが悲鳴を上げ、突き飛ばされて尻餅をつく。男と女は、佐藤さんの上に容赦なく覆い被さろうとした。
(やめろ……!)
蓮が思わずカーテンを強く握りしめ、窓を開けて叫ぼうとした、まさにその時だった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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