第5話:夕暮れのサイレン【1/3】
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九月一日、月曜日の午後五時五十分。
スマートフォンから聞こえていたツー、ツーという無機質な切断音が、蓮の鼓膜にこびりついて離れなかった。
『お前が、家族を守るんだ。躊躇するな。生き延びろ』
父・哲也の残した最後の言葉が、重く、冷たい鉛の塊のように胃の腑にストンと落ちていく。
蓮は、夕暮れの坂道の途中で自転車にまたがったまま、右手で握りしめたスマートフォンを見つめていた。画面は真っ黒に暗転し、彼自身の青ざめた顔を鏡のように映し出している。
事なかれ主義を自認し、面倒なことには一切首を突っ込まず、ただ平穏無事に高校生活をやり過ごせればそれでいい。そう思って過ごしてきた。テストの点数も平均点ギリギリを狙い、部活にも入らず、目立つような行動は極力控えてきたのだ。
そんな自分が、家族の命を預かる。
それも、得体の知れない『狂い始めた街』という巨大な脅威から。
「……冗談じゃない。俺にそんなこと、できるわけないだろ」
蓮は震える唇から、誰にも聞こえない弱音をこぼした。
だが、頼りの父はここにはいない。隣県へ単身赴任をしており、今この瞬間も、想像を絶するような地獄の渦中にいるかもしれないのだ。
(親父は、あんな切羽詰まった声を出すような人じゃない)
蓮の記憶の中の父は、いつも冷静で、どこか達観しており、休みの日は無言でサバイバルナイフの手入れやキャンプ道具のメンテナンスをしているような、不器用だが芯の強い男だった。どんなトラブルが起きても眉一つ動かさずに解決してしまう、圧倒的な安心感の象徴と言えた。
その父が、電話の向こうで息を乱し、声を荒げ、何かから必死に逃げ惑っていたのだ。事態は、蓮の想像をはるかに超えるレベルで悪化している。
「……行くしかない」
蓮はスマートフォンを学生ズボンのポケットに乱暴に突っ込み、自転車のペダルに足を乗せた。
立ち漕ぎで、急な坂道を一気に駆け上がる。
ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げ、息は切れ、心臓が肋骨を突き破らんばかりの勢いで早鐘を打つ。だが、ペダルを踏み込む足の力を緩めることはできなかった。秋の初めの生ぬるい風が、汗ばんだ顔にまとわりつく。
坂を登りながら、蓮は左手に広がる彩葉市の市街地を眼下に収めた。
空は、不吉なほどに真っ赤に染まっていた。燃え盛るような茜色の夕焼けが、雲の底をどす黒く照らし出し、街全体を血の海に沈めたかのような錯覚を抱かせる。
そして、その赤い空を背景にして、市街地のあちこちから、細く、しかし真っ黒な煙の柱が何本も立ち上っているのが見えた。
(火事……? 一箇所じゃない。三、四……いや、もっとある)
工業地帯の煙突から出る煙とは違う。明らかに何かが燃えている、制御されていない火災の煙だ。
さらに、市街地を貫く主要なバイパス道路に目を凝らすと、そこには異様な光景が広がっていた。
普段の夕方の帰宅ラッシュであれば、車のヘッドライトやテールランプが川のように流れているはずの時間帯だ。しかし、今日のバイパス道路は、赤いテールランプが数キロにわたって完全に停止し、巨大な光の蛇のように身動きを失っていた。
ただの渋滞ではない。よく見ると、車線を無視して斜めに停まっている車や、中央分離帯に乗り上げているトラック、さらには車から降りて道路上を走り回っている豆粒のような人影が無数に見える。
パニックだ。
誰もがこの街から逃げ出そうとして、結果として自らの首を絞め合っている。
蓮は背筋に氷のような悪寒を感じながら、自転車のハンドルを握る手に力を込めた。
『ウゥゥゥゥゥゥ……!』
『ピィーポー、ピィーポー、ピィーポー』
『カンカンカンカン!』
遠くから、いや、街の四方八方から、あらゆる種類のサイレンの音が湧き上がっていた。救急車、消防車、パトカー。それらが入り混じり、不協和音のオーケストラとなって夕暮れの空に反響している。普段ならどこかで事故があったのだろうと気にも留めない音だが、今のこの音量は異常だった。まるで街中のすべての緊急車両が一斉に出動し、目的地に辿り着けずに絶望のサイレンを鳴らし続けているかのようだった。
住宅街の中腹に差し掛かった時、蓮の背後から猛烈な勢いで接近してくる車のエンジン音が聞こえた。
反射的に自転車を歩道の端に寄せる。
直後、赤色灯を激しく回転させたパトカーが、猛スピードで蓮の真横を走り抜けていった。
ほんの一瞬、窓越しに運転席の警察官の横顔が見えた。その顔は尋常ではないほどに引き攣り、汗だくになり、何かを叫びながらハンドルを握りしめている。無線機からは、「応援を! 第三分署、完全に突破されました! 発砲を許可して――」という、ノイズまじりの切羽詰まった声が漏れ聞こえた気がした。
「……発砲?」
蓮は自転車を停め、走り去るパトカーのテールランプを見送った。
日本の警察が、市街地で発砲の許可を求める。それは、相手が刃物を持った単独の通り魔などではなく、命の危険が迫る大規模な暴徒であることを意味していた。
周囲の住宅街にも、異変は起きていた。
電線に止まっていた何百羽というカラスの群れが、突然、異様な鳴き声を上げながら一斉に空へと飛び立った。空を覆い尽くす黒い影が、まるでこの街に降りかかる死の予兆のように見える。あちこちの家で飼われている犬たちが、何かに怯えるように、あるいは何かを威嚇するように激しく吠え立てていた。
動物たちは、人間よりもはるかに早く、この街に迫る『異常』を本能で感じ取っているのだ。
「急がないと……!」
蓮は再びペダルを踏み込んだ。
心臓が破裂しそうになるのを必死に堪え、自宅のある路地へと曲がる。
見慣れたレンガ造りの門柱と、白い壁の二階建て。我が家は、朝出た時と同じように、静かにそこにあった。玄関のポーチには温かみのあるオレンジ色の電球が灯り、庭の植え込みも風に揺れている。
蓮は自転車を庭先に放り出すように停め、玄関のドアノブに手をかけた。
一瞬、躊躇いが生まれる。
(このドアを開けたら……)
外の狂気とは無縁の、平和な家族が待っているはずだ。だが、自分が親父からの伝言を伝えれば、その瞬間に、この家の中の平和な日常も完全に終わってしまう。自分が、家族を絶望の淵に突き落とすメッセンジャーになってしまうのだ。
そんな恐怖が、一瞬だけ蓮の腕を重くした。
だが、迷っている暇はない。
「……開けるぞ」
蓮はドアノブを回し、勢いよく玄関を開け放った。
「ただいま!」
靴を脱ぎ捨て、短い廊下を小走りで進んでリビングのドアを開ける。
そこには、拍子抜けするほどに完璧な『日常』の風景が広がっていた。
キッチンからは、玉ねぎと肉を炒める甘く香ばしい匂いが漂っている。コンロの上では深い鍋がコトコトと音を立て、カレーが煮込まれていた。エプロン姿の母・恵子が、菜箸を持って鍋の中をかき混ぜている。
ダイニングテーブルの向こう側のソファーでは、中学生の妹・結衣が、制服のリボンを外しただらしない格好で寝転がり、スマートフォンを見ながらクスクスと笑い声を漏らしていた。
テレビからは夕方のワイドショーの芸能コーナーが流れ、若手俳優の熱愛スキャンダルをコメンテーターたちが面白おかしく論じている。
外の世界の崩壊など、一ミリも入り込んでいない、絶対的な安全地帯。
「あ、お兄ちゃん、おかえり。今日遅かったね。部活ない日なのに」
結衣がスマートフォンから目を離さずに、気だるそうな声で言った。
「蓮、おかえりなさい。ちょうど今、カレーのルーを入れたところよ。お腹空いてるでしょ? 先にシャワー浴びてきなさい」
恵子が振り返り、いつもの優しい笑顔を向けた。
その平和すぎる光景に、蓮は一瞬、自分が悪い夢でも見ているのではないかと錯覚しそうになった。
外のサイレンの音も、警察官の悲鳴も、親父の切迫した声も、全てが自分の妄想だったのではないか。ここで「ああ、腹減った」と言ってシャワーを浴びれば、いつも通りの退屈な月曜日の夜が続くのではないか。事なかれ主義の心が、激しくそう囁きかけてくる。
だが、窓の外から響いてくるサイレンの音は、さっきよりも明らかに大きくなっていた。防音性の高いペアガラスの窓を突き破り、リビングの中にまでその不吉な音が侵入してきている。
「……お兄ちゃん? どうしたの、玄関で突っ立ったまま。顔、真っ青だよ?」
結衣が体を起こし、不思議そうに蓮を見た。
「蓮? 具合でも悪いの?」
恵子も火を弱め、心配そうに歩み寄ってくる。
蓮は両手で自分の頬を一度強く叩き、現実に意識を繋ぎ止めた。
「母さん。結衣。驚かないで聞いてくれ」
蓮の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
「さっき、親父から電話があったんだ」
「お父さんから? 仕事中じゃないの?」
「仕事中だ。でも、普通じゃなかった。ものすごく焦った声で……『街が狂い始めてる。絶対に外に出るな』って」
恵子の足が止まった。
「……え?」
「親父は、家に置いてある非常用持ち出し袋と、書斎の鍵のかかったキャビネットからナイフを出しておけって言った。母さん、親父があんな大声で怒鳴るの、俺初めて聞いたよ。絶対に、何かヤバいことが起きてるんだ」
リビングの空気が、ピンと張り詰めた。
テレビの中では、依然として能天気なバラエティのBGMが流れているが、家族の間の温度は急激に下がっていた。
「ちょっと待ってよ。街が狂い始めてるって、何それ。映画の見すぎじゃないの? お父さん、また変なサバイバルごっこのスイッチ入っちゃったんじゃない?」
結衣が無理に笑って冗談めかそうとしたが、その声は微かに震えていた。
「冗談じゃない! 俺も外で見てきた。バイパス道路は大渋滞で、あちこちで火事が起きてる。パトカーも気が狂ったみたいなスピードで走ってた。結衣、お前スマホ見てただろ? SNSで何も情報回ってきてないのか?」
蓮が問いただすと、結衣はハッとしたように手元のスマートフォンの画面に目を落とした。
「あ……えっと、タイムライン、さっきから全然更新されないの。友達にライン送っても、ずっと未読のままだし。電波が悪いのかと思ってたけど……」
「見せてみろ」
蓮が結衣のスマートフォンを覗き込むと、画面の左上のアンテナマークは一本も立っておらず、『圏外』の表示になっていた。
「俺のもだ。家に入る前から、ずっと電波が死んでる」
蓮が自分のスマートフォンを取り出して見せると、恵子の顔から完全に血の気が引いた。
「電話が繋がらない……。じゃあ、お父さんの安否は……?」
「わからない。最後に『俺が帰るまで死ぬな』って言って、電話が切れたんだ」
恵子はよろけるように後ろに下がり、ダイニングテーブルの椅子に手をついた。
「そんな……お父さん……」
「母さん、今は親父を信じるしかない。親父は絶対に生き延びる人だ。俺たちがここでパニックになったら、親父の足手まといになるだけだぞ」
蓮は母の肩を強く掴み、真っ直ぐに目を見た。
「親父が俺たちに指示を出したんだ。それを実行する。結衣、お前は今すぐリビングとダイニングの窓のシャッターを全部下ろせ。それから、玄関のチェーンを二重にかけろ。誰が来ても、絶対に開けるな」
「う、うん……わかった」
結衣は半泣きになりながらソファーから飛び起き、掃き出し窓へと向かった。
ガラガラガラッ!
金属製の重いシャッターが下ろされ、夕暮れの赤い光がリビングから遮断される。部屋の中が、密閉されたシェルターのような重苦しい空間に変わった。
「母さん。親父の非常用持ち出し袋は、納戸の奥だったよな。俺が出してくる」
「え、ええ……。冷蔵庫の中のペットボトルの水も、リュックに詰めた方がいいわよね」
「頼む」
蓮は廊下に出て、納戸へと向かった。
普段は掃除機や季節外れの家電が詰め込まれている納戸。その一番奥に、父が趣味と実益を兼ねて用意していた、銀色の大きな非常用持ち出し袋が三つ並んでいた。一つは父用、一つは母用、そしてもう一つは子供用(蓮と結衣)のようだ。
蓮は重いリュックを引っ張り出し、廊下へと引きずり出した。中身を確認すると、懐中電灯、携帯ラジオ、手回し充電器、簡易トイレ、アルミブランケット、そして大量のカロリーメイトや乾パンなどの非常食がぎっしりと詰まっていた。
(……親父、いつの間にこんな完璧な準備を)
普段は「アウトドア狂い」と呆れていた父の備えが、今となっては命綱に思えた。
今回の続きは、13:10の投稿になります。お楽しみに!
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