第4話:父からの電話【3/3】
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事なかれ主義の少年の足元で、平和な日常という名のガラスの床に、決定的なひび割れが走った。
坂道を駆け上がる蓮の息は、先ほどまでの穏やかな下校時とは打って変わって激しく乱れていた。
足元のコンクリートを蹴るスニーカーの音が、やけに大きく耳に響く。
夕日はすでに山の端に沈みかけ、住宅街は青みがかった薄暗い影に包まれ始めていた。家々の窓からはオレンジ色の明かりが漏れ出し、どこからか夕食のカレーの匂いが漂ってくる。
だが、その平和な情景と、蓮の心臓を鷲掴みにするような焦燥感とは、完全に乖離していた。
「クソッ……!」
蓮は歯を食いしばり、最後の坂を一気に登り切った。
見慣れた自宅の前に到着する。レンガ造りの門柱。白い壁の二階建て。
外観は、今朝家を出た時と何一つ変わっていない。庭先の花壇も荒らされた形跡はなく、玄関のポーチ灯が平和に点灯している。
蓮は慌ただしく玄関に飛び込んだ。
「母さん! 結衣!」
勢いよくドアを開け、靴を脱ぎ捨てて廊下へ上がる。
リビングのドアを開けると、そこには、いつものようにエプロン姿でキッチンに立つ母・恵子と、ダイニングテーブルでスマートフォンをいじっている妹・結衣の姿があった。
「あ、お兄ちゃん、おかえり。今日遅かったね」
結衣が顔を上げる。
「蓮、おかえりなさい。ちょうど今、ご飯が炊けたところよ。今日はカレーだから、たくさん食べなさいね」
恵子がフライパンの火を止め、お玉を持ったまま微笑みかけてきた。
そのあまりにも日常的で、平和な二人の姿を見て、蓮は全身の力が抜けるのを感じた。間に合った。まだ、この家の中は安全だ。
「……母さん、戸締まりは? 全部の鍵、かかってるか?」
蓮は息を切らしながら、キッチンに歩み寄った。
「戸締まり? ええ、玄関の鍵はさっきあなたが開けるまでかかっていたし、窓も閉めてあるけど。どうしたの、そんなに慌てて」
恵子が不思議そうに蓮の顔を覗き込む。
「結衣、悪いけどリビングとダイニングの窓のシャッター、全部下ろしてくれ。それから、玄関のドアのチェーンもかけてきて」
「えー? まだ外そんなに暗くないのに? なんで?」
結衣が不満げに唇を尖らせる。
「いいから早く! 命令だ!」
蓮が強い口調で怒鳴ると、結衣はビクッと肩を震わせ、不承不承立ち上がった。
「……わかったよ、もう。何なのよ、急に」
結衣が窓際へ向かい、ガラガラと音を立ててシャッターを下ろし始める。
「蓮、本当にどうしたの? 学校で何かあったの?」
恵子が心配そうにお玉を置き、蓮の顔に手を伸ばそうとする。
蓮は母の手を制し、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「さっき、親父から電話があったんだ。ものすごく焦った様子で……『街が狂い始めてる。絶対に外に出るな』って」
「お父さんから?」
恵子の顔から、わずかに笑みが消えた。
「うん。それから、『非常用持ち出し袋と、書斎の鍵のかかったキャビネットからナイフとマグライトを出しておけ』って言われた。……母さん、親父があんな取り乱した声出すの、初めて聞いたよ。絶対に、何かヤバいことが起きてる」
蓮の真剣な言葉に、恵子も状況の異常さを察したようだった。
「……わかったわ。お父さんがそこまで言うなら、何か理由があるのね。お父さん、職場から電話してきたの? 今はどこに?」
「わからない。すぐに電話が切れちゃって、かけ直しても繋がらないんだ」
「繋がらない……」
恵子は少しだけ青ざめた顔で、キッチンのカウンターに置いてあった自分のスマートフォンを手に取った。
「……あら? 圏外になってるわ。さっきまでアンテナ立ってたのに」
「えっ、私のスマホも繋がらないよ! LINE送れない!」
シャッターを下ろし終えた結衣が、スマートフォンを振りながら叫んだ。
蓮も自分の端末を取り出す。アンテナマークは完全に消え、『圏外』の文字が表示されていた。通信インフラのダウン。それが一時的な障害なのか、意図的な規制なのかはわからない。だが、このタイミングでの通信の遮断は、事態の深刻さをさらに裏付けるものだった。
「……テレビ、つけてみて」
蓮が指示すると、結衣が慌ててリモコンの電源ボタンを押した。
リビングの大型液晶テレビが点灯し、夕方のニュース番組が映し出される。画面には、ヘリコプターからの空撮映像が流れていた。
『――現在、S県内の主要都市において、原因不明の暴動が同時多発的に発生しています。ご覧の映像は、K市の上空からのものです。主要な幹線道路は放棄された車両で完全に麻痺しており、至る所で火災が発生しています。また、一部の地域では、暴徒化した集団と警察部隊が衝突しており――』
アナウンサーの声が、興奮と恐怖で上ずっている。
空撮映像には、黒煙を上げるビルや、道路に溢れ返る何千、何万という人々の小さな影が映っていた。その影は、規則正しく逃げているのではなく、アリの巣をつついたように無秩序に動き回り、あちこちで塊となってぶつかり合っているように見えた。
「……嘘でしょ。これ、本当に日本なの?」
恵子が口元を手で覆い、信じられないというように画面を見つめた。
画面の右上には『暴動は周辺県にも拡大か。政府、緊急事態宣言を検討』というテロップが表示されている。周辺県。つまり、自分たちのいる彩葉市もすでに安全ではないということだ。
「母さん、親父の非常用持ち出し袋はどこにある?」
蓮はテレビから目を離し、現実の行動へと移った。事なかれ主義で呆然としている暇はない。父から託された指示を、確実に実行しなければならない。
「え、ええと……廊下の突き当たりの、納戸の奥よ」
「わかった。結衣、お前は母さんを手伝って、冷蔵庫の中のペットボトルの水と、日持ちしそうな食べ物をリュックに詰められるだけ詰めておいてくれ」
「わ、わかった」
結衣も事態の異常性に気づき、怯えながらも頷いた。
蓮はリビングを出て、廊下の奥の納戸へと向かった。
普段は掃除機や季節外れの家電が詰め込まれている納戸。その一番奥に、父が趣味と実益を兼ねて用意していた、銀色の大きな非常用持ち出し袋が三つ並んでいた。
重いリュックを引っ張り出し、廊下へと引きずり出す。中身を確認すると、懐中電灯、携帯ラジオ、手回し充電器、簡易トイレ、アルミブランケット、そして大量の非常食がぎっしりと詰まっていた。
次に、蓮は二階にある父の書斎へと向かった。
階段を駆け上がり、廊下の一番奥の部屋のドアを開ける。壁一面の本棚と、黒い木製のデスク。
蓮はデスクに向かい、一番下の引き出しを開けた。父の指示通り、引き出しの裏側に手を回すと、ガムテープで貼り付けられた小さな金属の鍵の感触があった。
鍵を剥がし取り、部屋の隅にあるスチール製の黒いキャビネットへと向かう。
鍵穴に差し込み、回す。
ガチャン、という重い音と共に、キャビネットの扉が開いた。
中には、父が趣味で集めていたアウトドアギアが所狭しと収納されていた。浄水フィルター、ファイヤースターター、パラコード、頑丈な手袋。
そして、その中心に、黒い革のシース(鞘)に収められた、ずっしりと重い『キャンプ用のサバイバルナイフ』と、警棒のような形をした漆黒の『強力マグライト』が置かれていた。
蓮はナイフを手に取った。
鞘から抜くと、鈍く光る分厚い刃が現れた。刃渡りは二十センチ近くあり、片側はノコギリのようなギザギザになっている。単なる調理用ではなく、明らかに「切る」「叩き割る」といった荒事に特化したプロ仕様の道具だった。
父の言葉が、ナイフの冷たい重みと共に蓮の手に伝わってくる。
人を殺傷するための武器。
現代日本の高校生が、決して手にしてはいけないもの。
だが、父はあえてこれを蓮に託した。言葉が通じない狂気が徘徊する世界で、家族を守るためには、倫理や常識を捨ててこれを使えと、そう言いたかったのだ。
「……わかったよ、親父」
蓮はナイフを鞘に戻し、マグライトと共にリュックの中に押し込んだ。
二階から一階へ戻る途中、窓の外を見た。
完全に日が落ち、街は夜の闇に包まれている。しかし、遠くの市街地の方角の空だけが、不気味なオレンジ色に明るく照らされていた。火災だ。
そして、サイレンの音はもはや個別の音として認識できないほど重なり合い、街全体を覆う巨大なノイズと化していた。
一階のリビングに戻ると、恵子と結衣がテーブルの上に食料や水を広げていた。
「蓮、お父さんの言っていたものは見つかった?」
「ああ。全部揃えた。あとは、テレビとラジオで情報を集めよう」
蓮が非常用袋をテーブルの横に置いた時だった。
『ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……』
突然、窓の外から、腹の底を震わせるような重低音のサイレンが鳴り響いた。
消防車や救急車のそれとは違う。街中に設置された、防災無線のスピーカーからの音だ。
「な、なにこれ。空襲警報みたい……」
結衣が耳を塞ぎながら怯える。
サイレンの音が止み、代わりに男性の焦ったような声が響き渡った。
『――市民の皆様に、緊急にお知らせします。現在、市内で大規模な暴動事件が発生しております。警察の指示に従い、速やかに屋内へ避難し、戸締まりを厳重に行ってください。絶対に、外に出ないでください。繰り返します――』
防災無線のアナウンスが、街中に不気味なエコーとなって響く。
テレビの画面では、先ほどのニュース番組が特別報道番組に切り替わり、アナウンサーが青ざめた顔で原稿を読み上げていた。
『……たった今、入ってきた情報です。暴徒化した集団は、警察の規制線を突破し、現在、彩葉市の中心部に向かって移動しているとの未確認情報があります。市民の皆様は、決して外に出ず、安全な場所で待機してください』
「彩葉市……ここに来てるの……?」
恵子が震える声で呟いた。
蓮は窓のシャッターに近づき、わずかな隙間から外の様子を窺った。
自宅の前の住宅街の道路には、まだ人影はない。だが、遠くの方から、何かが割れる音、車のクラクション、そして……人間の叫び声のようなものが、風に乗って微かに聞こえてくるような気がした。
「母さん。結衣。今夜は、一階のリビングに布団を敷いて、全員ここで寝よう。何かあったらすぐに動けるように、靴はすぐに履ける状態にしておいてくれ」
蓮は振り返り、家族に向かって明確な指示を出した。
事なかれ主義の息子が、見違えるように冷静で力強い瞳をしていることに、恵子は驚きながらも頷いた。
「……わかったわ。結衣、お母さんと一緒に二階から布団を下ろしましょう」
「うん……」
家族が動いている間、蓮は父から託されたサバイバルナイフの入ったリュックを、自分の手元に引き寄せた。
電話が切れた時の、あの絶望的な状況。父は今どこにいるのか。
「頼むから、死なないでくれよ……」
蓮は誰にも聞こえない声で呟き、窓の外の狂い始めていく街を睨みつけた。
嵐が過ぎ去るのを待つように、静かに夜が更けていった。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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