2-19.
✳︎19.
旅行当日。
朝。
ほたるは、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は柔らかく、空はよく晴れている。
天気予報では、一日を通して穏やかな陽気になるらしい。
ベッドから起き上がり。
まだ眠っているリンを起こさないよう、静かに部屋を出た。
リビングへ行けば。
ユンユンが、すでにダイニングテーブルへ座っていた。
黒いTシャツ。
寝癖のついた髪。
片手にはマグカップ。
もう片方では、スマートフォンの画面を見ている。
『おはよう。』
「……おはよう。」
返事はある。
けれど、顔は上げない。
ほたるは小さく笑いながら、キッチンへ向かった。
旅行に行くからといって。
家の朝食を何も用意しないわけにはいかない。
リンの分。
ユンユンの分。
簡単に食べられるよう、サンドイッチと果物を冷蔵庫へ入れておく。
『お昼も置いておくね。』
「いらない。」
『食べて。』
「大学の帰りに買う。」
『今日はリンリンと一緒でしょう?』
「……。」
『ちゃんと食べさせてね。』
「分かってる。」
『ユンユンも。』
「分かってる。」
ぶっきらぼう。
けれど。
テーブルの端には、すでに今日の予定が書かれたメモが置いてあった。
リンが飲む薬の時間。
食べていいおやつ。
体調が変わった場合の連絡先。
その下には、宿泊先の住所と電話番号。
ほたるは、それを見つけて目を細める。
『調べてくれたの?』
「何を。」
『旅館。』
「別に。」
『近くの病院まで書いてある。』
「念のため。」
『ふふ。』
「何。」
『ありがとう。』
「……早く準備すれば。」
相変わらず、素直ではない。
けれど。
ほたるの帰りを待っていることだけは、よく分かった。
◇◇◇
身支度を終え。
ほたるがエントランスへ降りたのは、約束の時間の少し前だった。
淡い色のワンピースに。
薄手のカーディガン。
長時間歩いても疲れないよう、靴は低いものを選んだ。
小さめの旅行鞄。
肩には帽子。
以前のデートより少しだけ荷物が多い。
今日は日帰りではない。
初めての温泉旅行。
そう考えると。
少しだけ胸が落ち着かなかった。
自動ドアが開く。
その向こう。
朝の光を受けながら、一台の真っ赤なオープンカーが停まっていた。
低く滑らかな車体。
長く伸びたフロント。
艶やかな赤いボディが、朝日の下で宝石のように輝いている。
フェラーリ・ローマ・スパイダー。
運転席のそばに立っていた弓弦が、ほたるへ気付く。
途端に。
表情が柔らかくなる。
「おはよう。」
『おはようございます。』
弓弦は、ほたるの全身を一度見て。
すぐに目を逸らした。
けれど。
耳は、少し赤い。
『どうしたの?』
「いや。」
「かわいいなと思って。」
『ありがとう。』
「旅行っぽい。」
『旅行だからね。』
「そうなんだけど。」
弓弦は困ったように笑った。
「なんか。」
「本当に行くんだなって。」
『昨日も連絡したでしょう?』
「した。」
『旅館の予約もしたでしょう?』
「した。」
『なのに?』
「今、実感した。」
ほたるは、くすっと笑う。
付き合い始めても。
弓弦は、ほとんど変わらない。
ほたるを見れば嬉しそうにし。
褒めれば赤くなり。
少し距離が近づくだけで、分かりやすく緊張する。
その反応を見るたび。
なぜか、ほたるまで少し嬉しくなる。
弓弦は助手席のドアを開けた。
「どうぞ。」
『ありがとうございます。』
「荷物は預かる。」
『自分で持てるよ。』
「持ちたい。」
『……そう。』
素直に渡す。
弓弦は、ほたるの旅行鞄を丁寧にトランクへ収めた。
その間。
ほたるは、真っ赤なフェラーリを眺める。
見覚えのある車。
前回。
二人が湘南へ行った時にも乗った。
海沿いの道路。
青い海。
赤いフェラーリ。
帽子とサングラスで変装していたのに。
車の方が、よほど目立っていた。
ほたるは、その時のことを思い出して小さく笑う。
『そういえば。』
「ん?」
『この車。』
「うん。」
『前に湘南へ行った時、すごく目立ってたよね。』
「……。」
弓弦の動きが止まる。
自分でも思い当たるのだろう。
ゆっくり車を見る。
真っ赤。
低い。
高級車。
そして、オープンカー。
目立たない要素が、一つもない。
「……今思うと。」
「かなり目立ってたね。」
『うん。』
『海沿いで、ずっと見られてた。』
「ほたるちゃんがいたからじゃなくて?」
『車も。』
「車もか。」
『車の方が先に見られてたかも。』
「……。」
少し落ち込んだような顔。
ほたるは笑った。
『でも。』
「うん。」
『かっこよかったよ。』
「……本当?」
『うん。』
『弓弦さんに似合ってる。』
その一言で。
弓弦は、すぐに機嫌を直した。
「じゃあ、今日もこれでよかった。」
『単純。』
「ほたるちゃんに褒められたら、何でもいい。」
『知ってる。』
そんな会話をしながら。
二人は車へ乗り込んだ。
◇◇◇
フェラーリが、ゆっくり発進する。
朝の都内。
まだ交通量はそれほど多くない。
今日は箱根。
湘南の時とは違い。
海ではなく、山へ向かう。
弓弦は運転しながら。
時々、助手席のほたるへ視線を向ける。
『前見て。』
「見てる。」
『今、こっち見た。』
「信号赤だから。」
『そう。』
「……可愛かったから。」
『前見て。』
「はい。」
完全に浮かれている。
ほたるは呆れながらも、少し笑った。
高速道路へ入る頃には。
都心の高い建物が少しずつ遠ざかっていく。
空が広くなる。
屋根は閉じたまま。
箱根の山道へ入ってから開けるつもりらしい。
車内には、静かな音楽が流れていた。
弓弦が普段聴いている洋楽。
時々。
ほたるの曲。
そして。
『瞬星』。
イントロが流れた瞬間。
ほたるは横を見る。
『自分の曲、聴くんだ。』
「聴くよ。」
『移動中も?』
「聴く。」
『飽きない?』
「飽きない。」
『自分の声だよ?』
「いい曲だから。」
『ユンユンに言ったら喜ぶよ。』
「……本人に言っても、ふーんって言いそう。」
『言う。』
「絶対言うよね。」
二人で笑う。
サビへ入る。
明るくなったと思えば。
一瞬で暗く落ちる。
そこからまた、光が広がる。
何度聴いても。
星が瞬くような曲だった。
「ユンユン。」
「旅行のこと何か言ってた?」
弓弦が尋ねる。
『気をつけて。』
「それだけ?」
『あと。』
「うん。」
『車の事故だけは起こすなって。』
「怖い。」
『弓弦さんに言っておけって。』
「俺へ?」
『うん。』
「……気をつけます。」
『それから。』
「まだある?」
『旅館から一番近い病院まで調べてた。』
「……。」
弓弦は少し驚く。
それから、柔らかく笑った。
「優しいね。」
『本人は認めないけどね。』
「でも。」
ハンドルを握りながら。
弓弦は静かに言う。
「ほたるちゃんが大事なんだね。」
『うん。』
迷わず頷く。
『私も。』
「知ってる。」
その返事には。
寂しさも。
嫉妬もなかった。
ただ。
ほたるが大切にする人を、自分も大切にしたい。
そんな優しさだけがあった。
ほたるは。
窓の外へ視線を向ける。
その横顔には。
小さな笑みが残っていた。
◇◇◇
途中。
サービスエリアへ立ち寄った。
平日の午前中。
人はそれほど多くない。
それでも。
赤いフェラーリが駐車場へ入ると。
何人かが振り返った。
『やっぱり目立つ。』
「……箱根でも?」
『箱根へ行く前から。』
「次は黒にしようかな。」
『車を買い替えるの?』
「目立たないように。」
『フェラーリの時点で目立つと思う。』
「確かに。」
二人は笑いながら車を降りる。
帽子。
マスク。
眼鏡。
簡単な変装。
けれど。
弓弦は背が高く。
ほたるは、隠しても雰囲気まで消せない。
並んで歩けば。
それなりに目立つ。
売店へ入り。
ほたるが、棚に並んだ焼き立てパンを見つける。
『これ。』
「食べたい?」
『うん。』
「買おう。」
『一個でいい。』
「俺も食べる。」
『じゃあ半分。』
「全部食べていいよ。」
『多い。』
「じゃあ半分。」
結局。
焼き立てのパンを一つ買い。
外のベンチへ座る。
ほたるが半分に割る。
まだ温かい。
ふわりと甘い香り。
『はい。』
「ありがとう。」
二人で食べる。
『おいしい。』
「うん。」
『こういうの、旅行っぽい。』
「旅行だよ。」
『まだ実感ない。』
「俺は、朝からずっと実感してる。」
『そうなの?』
「うん。」
「だって。」
弓弦は少しだけ声を落とす。
「今日。」
「一緒に帰らないんだよ。」
『……。』
「同じところに泊まる。」
言った本人が照れる。
ほたるも。
少しだけ目を逸らした。
『そうだね。』
「……。」
『弓弦さん。』
「うん。」
『パン、落としそう。』
「え。」
手元を見る。
本当に落としかけていた。
慌てて持ち直す。
『緊張しすぎ。』
「まだ旅館にも着いてないのにね。」
『大丈夫?』
「多分。」
『多分なんだ。』
二人で笑った。
◇◇◇
車は再び走り出す。
しばらくすると。
景色が大きく変わった。
街並みが減り。
山が近づく。
道路の両側には、深い緑。
窓を少し開ければ。
都会とは違う、冷たい空気が入ってくる。
「屋根、開ける?」
『うん。』
安全な場所へ車を停め。
弓弦が操作する。
静かに屋根が開いていく。
頭上へ。
青い空が広がる。
『わぁ。』
ほたるが思わず声を上げる。
車が動き出す。
山の風。
木々の香り。
鳥の声。
赤いフェラーリは、箱根の坂道を滑るように登っていく。
『気持ちいい。』
「寒くない?」
『大丈夫。』
「疲れてない?」
『大丈夫。』
「酔ってない?」
『大丈夫。』
「お腹空いてない?」
『弓弦さん。』
「なに?」
『心配しすぎ。』
「だって。」
『大丈夫だよ。』
ほたるは笑う。
『楽しい。』
その一言で。
弓弦の顔にも笑みが広がった。
◇◇◇
箱根で最初に訪れたのは。
箱根神社だった。
駐車場へ車を停め。
二人は並んで歩き出す。
朱色の鳥居。
長く続く石段。
高く伸びる杉の木々。
境内へ近づくほど。
空気が静かになっていく。
木漏れ日が、足元へ斑に落ちる。
風が吹くたび。
葉が擦れる音。
遠くから聞こえる鳥の声。
ほたるは、立ち止まって上を見た。
『すごい。』
「杉?」
『うん。』
『高い。』
「ずっと昔からあるんだろうね。」
『どれくらい?』
「……。」
「ごめん。」
「そこまで調べてない。」
『ふふ。』
「帰ったら調べる。」
『今じゃなくていいよ。』
石段を上る。
急ではあるけれど。
ほたるは、ゆっくりなら問題なく歩ける。
それでも。
弓弦は何度も振り返った。
「大丈夫?」
『大丈夫。』
「手、いる?」
『まだ大丈夫。』
「疲れたら言って。」
『はい。』
少し進む。
また振り返る。
「本当に?」
『弓弦さん。』
「はい。」
『前向いて。』
「はい。」
以前。
山道で美月を気遣っていた王子様。
けれど今は。
気遣いというより。
心配性の恋人だった。
ほたるは、そんな背中を見ながら笑う。
◇◇◇
途中。
石段の端に、小さな段差があった。
ほたるの足が、ほんの少しだけ止まる。
その瞬間。
弓弦の手が差し出された。
「どうぞ。」
『まだ何も言ってない。』
「俺が繋ぎたい。」
『……。』
「だめ?」
少しだけ不安そうな顔。
ほたるは。
差し出された手を見つめる。
そして。
そっと重ねた。
『いいよ。』
指が絡む。
付き合ってから。
まだ、何度も手を繋いだわけではない。
だから。
たったそれだけでも。
互いに少し緊張する。
弓弦の手は温かい。
握る力は優しい。
でも。
離したくないという気持ちだけは、よく伝わってきた。
「……嬉しい。」
『手を繋いだだけだよ。』
「恋人として。」
『前も繋いだでしょう?』
「今日は旅行。」
『違うの?』
「違う。」
弓弦は真剣だった。
「全部違う。」
ほたるは、少し笑う。
『そっか。』
「うん。」
そのまま。
二人は並んで石段を上った。
◇◇◇
拝殿の前。
二人は静かに手を離す。
賽銭を入れ。
鈴を鳴らし。
並んで手を合わせる。
弓弦は目を閉じた。
願うことは、一つ。
今度こそ。
ほたると離れずにいられますように。
隣にいることを。
当たり前にしていけますように。
そして。
ほたるが大切にしている家族も。
ずっと笑っていられますように。
少し長くなった。
目を開ければ。
ほたるもまだ、静かに祈っていた。
横顔は穏やかだった。
やがて。
ほたるも目を開ける。
二人は顔を見合わせる。
「何お願いした?」
『言ったら叶わなくなるんでしょう?』
「そうなの?」
『知らない。』
「じゃあ言わない。」
『うん。』
「ほたるちゃんも?」
『言わない。』
「気になる。」
『秘密。』
「俺も秘密。」
『そうして。』
二人で笑った。
◇◇◇
境内を歩き。
お守りを見る。
弓弦は、縁結びのお守りの前で足を止めた。
「……。」
ほたるが気付く。
『欲しいの?』
「もう結ばれたけど。」
『うん。』
「今度は。」
「切れないように。」
『そういう意味のお守りなの?』
「分からない。」
『さっきから知らないこと多いね。』
「雰囲気で来たから。」
『ふふっ。』
結局。
二人で一つずつ買った。
弓弦は、淡い青。
ほたるは、白。
色違い。
店員から渡され。
その場で鞄へつける。
「指輪も。」
「お守りも。」
「お揃い増えた。」
『嬉しい?』
「すごく。」
『知ってる。』
ほたるの声は、少しだけ優しかった。
◇◇◇
神社を出て。
二人は、湖の方へ少し歩いた。
木々の間から見える水面。
風に揺れる光。
遠くの山。
都内では見られない景色。
『静か。』
ほたるが呟く。
「好き?」
『うん。』
『何も考えなくていい。』
「仕事のことも?」
『少しだけ。』
「少しは考えるんだ。」
『癖だから。』
歌。
撮影。
次の仕事。
家族の予定。
考えることは、いつもたくさんある。
それでも。
今日は。
隣に弓弦がいる。
風の音を聞きながら。
急がず歩いている。
それだけで。
頭の中が、少しずつ静かになっていく。
『来てよかった。』
ぽつり。
「まだ最初だけど。」
『もう楽しい。』
弓弦は。
一瞬、何も言えなかった。
それから。
照れたように笑う。
「俺も。」
箱根の朝は。
まだ始まったばかりだった。
⭐︎21 はじめての温泉旅行 ―中編―
箱根神社をあとにした二人は、ゆっくりと参道を歩いていた。
石畳の道。
土産物屋から漂う甘いお饅頭の香り。
木でできた小さな風鈴が、風に揺れて涼しげな音を鳴らしている。
『箱根って、落ち着くね。』
ほたるが周囲を見回しながら言った。
「うん。」
「俺も好き。」
『何回来たことあるの?』
「仕事では何回か。」
「でも、旅行は初めて。」
『私も。』
二人で笑う。
同じ”初めて”が、少し嬉しかった。
◇◇◇
「お腹空いた?」
弓弦が尋ねる。
『少し。』
「じゃあ。」
「予約してある。」
『予約?』
「せっかくだから。」
「箱根っぽいもの食べようかなって。」
『楽しみ。』
車で十分ほど。
山の中腹にある、小さな蕎麦屋だった。
茅葺き屋根。
古民家を改装した店。
窓からは箱根の山々が見渡せる。
「すごい。」
ほたるが目を輝かせる。
『こんなお店あるんだ。』
「ネットで見つけた。」
『弓弦さんって意外と調べるね。』
「ほたるちゃん連れてくるなら。」
「失敗したくない。」
その言葉が、少し照れくさかった。
◇◇◇
二人は窓際の席へ案内された。
窓の外には緑。
遠くで鳥が鳴いている。
エアコンではなく、山から吹く風だけで十分涼しい。
『気持ちいい。』
「ね。」
「都会と全然違う。」
メニューを開く。
『わぁ。』
『全部おいしそう。』
「決まった?」
『決まらない。』
ほたるが困ったように笑う。
『天ぷらも食べたい。』
『鴨も食べたい。』
『とろろも……。』
「全部食べよう。」
『え?』
「シェア。」
『……。』
『それずるい。』
「いい案でしょ?」
『うん。』
結局。
天ぷら蕎麦。
鴨せいろ。
季節の炊き込みご飯。
二人で分けることになった。
◇◇◇
『いただきます。』
「いただきます。」
最初に運ばれてきたのは、鴨せいろ。
細く美しい蕎麦。
湯気の立つ鴨汁。
『いただきます。』
一口。
『……おいしい。』
思わず笑顔になる。
「よかった。」
「こっちも。」
弓弦も天ぷらを頬張る。
「うま。」
『交換する?』
「もちろん。」
小鉢を入れ替える。
『はい。』
「ありがとう。」
ほたるが取り分けてくれる。
その自然な仕草に。
弓弦は少しだけ照れた。
『どう?』
「うまい。」
「やっぱり。」
『ね。』
二人で笑う。
そんな時間が心地よかった。
◇◇◇
食後。
温かい蕎麦湯を飲みながら。
ほたるが窓の外を見る。
『静か。』
「眠くなる?」
『ううん。』
『ずっとここにいたくなる。』
「俺も。」
しばらく。
会話が止まる。
それでも気まずくない。
静かな時間が流れていた。
◇◇◇
午後。
次に向かったのは、彫刻の森美術館。
広い芝生。
自然の中に点在する巨大な彫刻。
遠くには箱根の山。
『わぁ……。』
ほたるの目が輝く。
『すごい。』
『全部外なんだ。』
「雨の日はまた違う雰囲気らしい。」
『来てみたい。』
ゆっくり歩く。
作品の前で立ち止まり。
説明を読む。
『へぇ。』
『こういう意味なんだ。』
ほたるは美術館も好きだった。
有名だからではなく。
一つ一つの作品を眺める時間が好きなのだ。
弓弦は。
そんな横顔を眺める時間が好きだった。
◇◇◇
「ねぇ。」
『ん?』
「写真撮ろう。」
『ここで?』
「記念。」
『いいよ。』
二人で作品を背景に立つ。
セルフタイマー。
肩が少し触れる。
「近い?」
『これくらいなら。』
「もう少し。」
『欲張り。』
「恋人だから。」
『……。』
ほたるは少しだけ笑って。
あと一歩だけ近付いた。
カシャ。
一枚。
二枚。
三枚。
「かわいい。」
『写真見せて。』
「どうぞ。」
『……。』
『弓弦さん。』
「なに?」
『私ばっかり見てる。』
「え。」
『カメラ見てない。』
「……。」
本当だった。
弓弦だけ。
写真の中でずっとほたるを見ている。
『ふふ。』
「ごめん。」
『撮り直そう。』
「今度はちゃんとカメラ見る。」
『ほんと?』
「……努力する。」
『努力なんだ。』
二人で笑った。
◇◇◇
その時だった。
「あの……。」
小さな声。
二人が振り返る。
二十代くらいの女性が二人。
少し緊張した様子で立っていた。
「あの……。」
「もしかして……。」
弓弦は一瞬だけ身構える。
ほたるも立ち止まる。
けれど。
二人は慌てて両手を振った。
「写真とか!」
「サインとか!」
「お願いしません!」
「だから安心してください!」
二人は深く頭を下げた。
「本当に。」
「ずっと応援してます。」
「お二人とも。」
「幸せになってください。」
その一言だけだった。
騒ぐことも。
追いかけることもない。
ただ。
笑顔だけを残して歩いていく。
静かな応援だった。
ほたるは少し驚きながら。
優しく微笑む。
『ありがとうございます。』
弓弦も軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
二人が見えなくなるまで。
静かに見送った。
◇◇◇
「……。」
歩き始めてからも。
二人は少し黙っていた。
先に口を開いたのは弓弦だった。
「嬉しかった。」
『うん。』
「付き合ったこと。」
「ちゃんと応援してくれる人もいるんだなって。」
『私も思った。』
『すごく嬉しかった。』
ほたるは空を見上げる。
『前だったら。』
『きっと近付いて来られなかったよね。』
「そうだね。」
「今は。」
「ちゃんと恋人として応援してもらえてる。」
ほたるはゆっくり頷く。
『ありがたいね。』
「うん。」
弓弦は。
そっと手を差し出した。
ほたるが見る。
「……。」
「繋ぐ?」
『うん。』
小さく笑って。
その手を握る。
温かい。
前よりも自然に。
恋人として。
手を繋げるようになっていた。
◇◇◇
芝生を歩く。
風が吹く。
山の匂い。
木漏れ日。
繋いだ手。
何気ない時間が。
ただ幸せだった。
「次。」
「旅館だね。」
『うん。』
『楽しみ。』
ほたるは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら。
弓弦は思う。
今日一日だけでも。
来て、本当によかった。
赤いフェラーリは。
二人を乗せて。
静かな山道を、旅館へ向かって走り始めた。
⭐︎21 はじめての温泉旅行 ―後編―
彫刻の森美術館をあとにした頃には。
時刻はまだ午後三時を少し過ぎたくらいだった。
一般的なチェックインには少し早い時間。
けれど。
今日予約している旅館は違う。
芸能人や著名人も利用する、完全予約制の離れ宿。
人と顔を合わせることが、ほとんどない。
それが決め手だった。
◇◇◇
箱根の山道を、フェラーリはゆっくり走る。
窓を開けると。
少しひんやりした風が頬を撫でた。
『気持ちいい。』
ほたるが嬉しそうに窓の外を眺める。
「眠くない?」
『少し。』
「いっぱい歩いたもんね。」
『でも大丈夫。』
「旅館着いたら少し休もう。」
『うん。』
助手席を見る。
ほたるは静かに景色を見ていた。
時々。
目が合う。
そのたびに、小さく笑う。
それだけで。
弓弦の胸はいっぱいだった。
◇◇◇
やがて。
一本の細い山道へ入る。
さらに進むと、大きな門が見えてきた。
木でできた立派な門。
看板も小さい。
知らなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうなほど控えめだった。
『ここ?』
「うん。」
門の前で車が止まる。
スタッフがすぐに近付いてきた。
「御影様でいらっしゃいますね。」
「はい。」
「お待ちしておりました。」
名前を確認すると。
そのまま門が静かに開く。
砂利道。
竹林。
小川。
季節の花。
『……。』
『すごい。』
ほたるは思わず息を呑んだ。
まるで一つの村のようだった。
建物は見えない。
一棟一棟が離れて建っているらしい。
「誰もいない。」
『ほんとだ。』
「ここなら安心かなって。」
芸能人にとって。
“誰にも会わない”
ということは、とても大きな価値だった。
◇◇◇
車を降りる。
スタッフが荷物を運んでくれる。
「チェックインも、お部屋で承ります。」
『え。』
ほたるが驚く。
「ロビーないんですか?」
「ございますが、お客様同士がお顔を合わせないよう、このようなご案内になっております。」
『すごい……。』
弓弦も初めてだった。
ネットで評判を見て予約しただけ。
ここまで徹底しているとは思わなかった。
◇◇◇
石畳を歩く。
竹林の中を抜ける。
風が葉を揺らす音だけが聞こえていた。
『静か。』
ほたるが小さく呟く。
「好き?」
『うん。』
『こういう場所。』
『すごく好き。』
弓弦は心の中でガッツポーズをした。
(よかった。)
(選んで正解だった。)
◇◇◇
スタッフが、一軒の離れの前で立ち止まる。
「こちらでございます。」
木の扉がゆっくり開いた。
『……。』
ほたるが止まる。
『わぁ……。』
自然と声が漏れた。
玄関だけでも広い。
木の香り。
畳の匂い。
柔らかな間接照明。
正面には大きな窓。
その向こうには、小さな庭園が広がっていた。
『きれい……。』
靴を脱ぐ。
部屋へ入る。
『えっ。』
『広い。』
リビングだけで、自宅のリビングくらいある。
和室。
洋室。
寝室。
縁側。
全部繋がっていた。
ほたるは子どものように歩き回る。
『見て。』
『ここもお部屋。』
『わぁ。』
『ソファもある。』
『テレビ大きい。』
『景色すごい。』
嬉しそうだった。
弓弦は、その姿を見ているだけで嬉しい。
◇◇◇
『ねぇ!』
ほたるの声。
縁側の方から聞こえる。
弓弦も向かう。
障子を開ける。
そこには。
木で囲まれた露天風呂があった。
湯気がゆっくり立ち上る。
庭の緑。
鳥の声。
誰にも見られない。
完全な貸切。
『露天風呂……。』
ほたるは目を輝かせる。
『部屋にあるんだ。』
『すごい。』
『入りたい。』
「いつでも入れるよ。」
『ほんと?』
「うん。」
ほたるは露天風呂の縁へ近付く。
温泉の湯気がふわりと頬へ当たる。
『あったかい。』
『気持ちよさそう。』
その笑顔は。
今日一番だった。
◇◇◇
スタッフから館内の説明を受ける。
夕食の時間。
朝食。
部屋の設備。
貸切風呂。
エステ。
すべて部屋から連絡できるらしい。
説明が終わり。
静かに扉が閉まる。
部屋には。
二人だけになった。
「……。」
「……。」
静かだった。
さっきまで普通だった空気が。
急に変わる。
弓弦は。
なんとなく部屋を見回した。
その時。
寝室が目に入る。
キングサイズのベッド。
真っ白なシーツ。
枕は二つ。
「……。」
止まる。
(……。)
(そうだよな。)
(泊まるんだから。)
(ベッド……。)
(あるよな……。)
当たり前だった。
当たり前なのに。
急に現実味を帯びる。
顔が熱い。
耳まで赤くなる。
『弓弦さん?』
「はい!」
思わず声が裏返る。
『どうしたの?』
「いや!」
「なんでも!」
『ほんと?』
「ほんと!」
絶対嘘だった。
ほたるは首を傾げる。
そのまま寝室を見る。
ベッドを見る。
「……。」
「……。」
数秒。
沈黙。
『……あ。』
ようやく気付いた。
顔が少し赤くなる。
『そういうことか。』
「……。」
「はい。」
『……。』
今度は。
二人とも黙る。
部屋には。
庭の風が葉を揺らす音だけが響いていた。
◇◇◇
『お茶淹れるね。』
先に動いたのはほたるだった。
少し照れ隠しをするようにキッチンへ向かう。
「手伝う!」
弓弦も立ち上がる。
『いいよ。』
「手伝う。」
『じゃあ湯呑み出して。』
「はい。」
少しぎこちない。
付き合ってから。
初めての旅行。
初めて二人だけで泊まる。
意識しない方が難しかった。
◇◇◇
お茶を飲みながら。
二人は縁側へ座る。
目の前には庭。
その奥には露天風呂。
風が気持ちいい。
『ねぇ。』
「うん。」
『来てよかった。』
「うん。」
『すごく楽しい。』
弓弦は微笑んだ。
「俺も。」
「ずっと来たかった。」
『温泉?』
「ほたるちゃんと。」
『……。』
照れる。
ほたるは湯呑みに口を付けた。
『ありがとう。』
「うん。」
『こんな素敵なところ、連れてきてくれて。』
「ほたるちゃんが喜んでくれてよかった。」
『すごく嬉しい。』
その言葉だけで。
弓弦は予約して本当によかったと思えた。
◇◇◇
ふと。
ほたるが庭を見る。
『ねぇ。』
「ん?」
『夕飯まで少し時間あるよね。』
「あるね。」
『せっかくだから。』
露天風呂を見る。
『お風呂、入ろうかな。』
「……。」
弓弦が固まる。
『温泉。』
『楽しみだったし。』
「う、うん。」
『弓弦さんも、ゆっくり入ってきてね。』
「……。」
『どうしたの?』
「いや。」
「心の準備が。」
『温泉入るだけだよ?』
「そうなんだけど。」
ほたるはくすっと笑う。
『変なの。』
「変かな。」
『うん。』
『恋人になってから、前より照れ屋になった。』
「だって。」
「恋人だから。」
『ふふ。』
その笑顔に。
弓弦はまた顔を赤くする。
箱根の山には。
静かな夕暮れが、ゆっくりと近付いていた。
少し甘めで、二人らしい距離感を大切にしながら続きを書きます。
夕食までは、まだ一時間ほど時間があった。
縁側から庭を眺めながら、弓弦は部屋に置かれていた館内案内を手に取る。
「……。」
ぱらり、とページをめくる。
貸切風呂。
大浴場。
湯上がり処。
休憩ラウンジ。
館内は思っていた以上に充実していた。
「よし。」
小さく頷く。
『どうしたの?』
露天風呂を眺めていたほたるが振り返る。
「俺。」
「ちょっと大浴場行ってくる。」
『大浴場?』
ほたるは不思議そうに首を傾げた。
そして。
すぐ隣にある客室露天風呂を指差す。
『……あるのに?』
「うん。」
『あるのに。』
「……。」
弓弦は視線を泳がせた。
「ほたるちゃん。」
「先、入って。」
『……。』
「俺は外の行くから。」
ほたるは数秒、きょとんとした。
そして。
事情を察する。
『……あぁ。』
思わず笑みがこぼれた。
恋人同士。
同じ部屋。
客室露天風呂。
それだけで弓弦は、まともに部屋へいられないらしい。
どこまでも、この人らしい。
『分かった。』
『じゃあ、お先にもらうね。』
「うん。」
「ゆっくり入って。」
『弓弦さんも。』
「行ってきます。」
浴衣とタオルを持ち、少し早足で部屋を出ていく。
その背中を見送りながら。
ほたるは小さく笑った。
『かわいい。』
誰にも聞こえないくらい、小さな声だった。
◇◇◇
露天風呂。
木の香り。
湯気。
山から吹く風。
『はぁ……。』
身体がゆっくりと温まっていく。
静かだった。
聞こえるのは風の音だけ。
『気持ちいい……。』
思わず目を閉じる。
東京では、こんな時間はなかなかない。
仕事。
家事。
リン。
ユンユン。
毎日があっという間に終わる。
だからこそ。
何もしない時間が、こんなにも贅沢だった。
◇◇◇
一度上がって。
縁側で冷たいお茶を飲む。
少し休んで。
『もう一回入ろう。』
せっかくだからと、もう一度露天風呂へ。
時間を忘れてしまうほど心地良かった。
◇◇◇
それでも。
『……。』
ふと時計を見る。
『まだ帰ってこない。』
少しだけ。
寂しい。
『大浴場、広いのかな。』
そう思いながら髪を乾かす。
浴衣へ着替える。
帯を結ぶ。
鏡を見る。
『よし。』
ちょうど、その時だった。
コンコン。
「ただいま。」
弓弦の声。
『おかえり。』
扉が開く。
両手には、アイスキャンディーが二本。
「湯上がりサービスだって。」
「一本どうぞ。」
そう言って顔を上げた瞬間。
「…………。」
弓弦が止まる。
『?』
浴衣姿のほたるが立っていた。
淡い色の浴衣。
濡れた髪はゆるく乾かされている。
細い帯が、華奢な身体を包んでいた。
テレビで何度も見た衣装とは違う。
飾らない。
自然な美しさ。
「……。」
弓弦の手から。
アイスが滑りそうになる。
『あっ。』
ほたるが慌てて支える。
『落ちる。』
「ご、ごめん。」
なんとか持ち直す。
『大丈夫?』
「いや……。」
「大丈夫じゃないかも。」
『え?』
「かわいい。」
真顔だった。
『……。』
ほたるは少し照れて笑う。
『ありがとう。』
弓弦は頭を抱えそうになる。
(浴衣って。)
(こんなに破壊力あるの……。)
(帯一本なのに。)
(心臓もつかな……。)
ほたるはそんな弓弦を見ながら、くすっと笑った。
(本当に。)
(この人、かわいい。)
褒められている本人より。
褒めた本人の方が真っ赤になっている。
そんな恋人は初めてだった。
◇◇◇
夕食は部屋食だった。
一品ずつ丁寧に運ばれてくる。
旬の前菜。
お造り。
椀物。
焼き魚。
和牛。
炊き込みご飯。
『きれい……。』
思わず声が漏れる。
「食べるのもったいない。」
『でも食べる。』
「うん。」
二人で手を合わせた。
『いただきます。』
「いただきます。」
どれも優しい味だった。
季節の野菜。
出汁の香り。
素材の甘み。
『おいしい。』
ほたるが幸せそうに笑う。
「連れてきてよかった。」
「その顔が見たかった。」
『またそういうこと言う。』
「本当だから。」
ゆっくり食べて。
ゆっくり話して。
笑って。
時間だけが穏やかに流れていった。
◇◇◇
食後。
仲居が小さな木箱を置いていく。
「本日はご宿泊ありがとうございます。」
「宿からのサービスでございます。」
木箱の中には。
手作りの生チョコレート。
そして、小さなボトルのワインが一本。
『サービス?』
「みたい。」
『せっかくだし。』
「少しだけ飲もうか。」
『うん。』
グラスへ注ぐ。
赤い液体が静かに揺れた。
乾杯。
小さくグラスを合わせる。
『おいしい。』
「飲みやすいね。」
弓弦はゆっくり一口。
ほたるは。
ごくっ。
ごくっ。
ごくっ。
「……。」
弓弦が止まる。
「ほたるちゃん。」
『ん?』
「飲むの。」
「早くない?」
『そう?』
また一口。
ごくっ。
「待って待って。」
「ゆっくり。」
『大丈夫。』
「いや。」
「前もそれ言ってた。」
弓弦の脳裏に。
火鍋パーティーで果実酒をジュースと間違えて酔い潰れた姿が浮かぶ。
(これは。)
(危ない。)
そう思った時には。
『えへへ。』
ほたるの頬が、ほんのり赤く染まっていた。
「……。」
「早い。」
ソファへ座ったほたるは。
とろん、とした目で弓弦を見る。
『弓弦さん。』
「はい。」
『こっち。』
ぽんぽん。
ソファを叩く。
隣へ座ると。
何のためらいもなく。
ぎゅっ。
腕へ抱きついてきた。
『あったかい。』
「……。」
弓弦の心臓が、大きく跳ねる。
(近い。)
(近い近い近い。)
けれど。
幸せそうに笑うほたるを見ていると。
離れるという選択肢は、どこにもなかった。
『あったかい。』
そう言って腕に抱きついた、ほたるの体温が、浴衣越しに伝わってくる。
心臓が、耳の奥で警報のように鳴り響く。
けれど、ほたるはとろんとした目で、ただ幸せそうに弓弦の二の腕に頬をすり寄せていた。
甘い、生チョコレートの匂い。
そして、ほんの少しだけ混ざる、ワインの香り。
そのすべてが、弓弦の理性を少しずつ、溶かしていくようだった。
ソファに並んで座る二人。
ワインの余韻がまだ残っているのか、ほたるの頬はほんのり桜色だった。
部屋には静かな音楽。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
「……ほたるちゃん。」
『うん。』
弓弦が名前を呼ぶ。
ほたるは自然と顔を向けた。
視線が重なる。
どちらからともなく少しだけ距離が縮まっていく。
吐息が触れそうなほど近くなっても、不思議と嫌ではなかった。
弓弦は一度だけ確認するように微笑む。
「……いい?」
ほたるは小さく頷いた。
『うん。』
そっと重なる唇。
短く、優しい口づけだった。
ドラマで何度も経験したはずなのに。
仕事のキスとはまるで違う。
そこには台本も、カメラも、監督の「カット」もない。
好きな人へ向ける、たった一つの想いだけ。
離れると、お互い少し照れて笑ってしまう。
「……甘い。」
『チョコかな。』
「うん。」
「美味しかった。」
『ふふ。』
ほたるが笑う。
その笑顔につられて、弓弦も笑った。
もう一度。
今度は少しだけ近づいて。
額が触れる。
「今日。」
「来てよかった。」
『私も。』
「本当に?」
『うん。』
『すごく幸せ。』
その一言が嬉しくて、弓弦は思わずほたるの手を包み込んだ。
細くて温かい手。
大切なものに触れるように、そっと指を重ねる。
ほたるも握り返してくれる。
それだけで胸がいっぱいになった。
しばらく静かな時間が流れる。
庭から聞こえる虫の声。
温泉の湯気。
柔らかな灯り。
すべてが穏やかだった。
弓弦はほたるの表情を見つめる。
「ほたるちゃん……。」
掠れた声が、自分のものではないように聞こえる。
『なぁに?』
顔を上げた、ほたるちゃんの視線。 いつもなら一歩引いたところで優しく笑っている彼女が、今はお酒のせいで、とろんとした、無防備な目で弓弦を見つめていた。
弓弦は。
もう、我慢できなかった。
「……ずるい。」
ぽつり、と呟いて。
ゆっくりと、顔を近づける。
『あ……。』
ほたるが、小さく息を呑む。 けれど、逃げようとはしなかった。
ドラマで何度もした、キスとは違う。 カメラも、照明も、監督の指示もない。
ただ、二人の気持ちだけが重なる、初めての口付け。
触れるだけの、優しいキス。
そこから。
ほたるの唇から、さっき食べたチョコレートの、甘さが伝わってきた。
『ん……。』
弓弦は。
何度も、角度を変えて。
啄むような、柔らかな口付けを繰り返した。
甘くて、愛おしくて。
ずっと、こうしていたい。
◇◇◇
やがて。
弓弦が少しだけ唇を離した時。
ほたるちゃんの瞳に、少しずつ、確かな光が戻っていた。
「……ほたるちゃん?」
『……。』
とろんとしていた目は。 今は、弓弦だけを、まっすぐに見つめている。
それは、お酒のせいじゃない。
ただの甘えじゃない。
お互いに、相手を、確かに求めている目だった。
「……。」
「……。」
静かな部屋に。
二人の、少しだけ乱れた吐息だけが、響いていた。
弓弦は。
「ベッド……行く?」
その言葉は、静かな離れの部屋で、思った以上に大きく響いた。
弓弦の心臓は、限界を告げるように、ドクドクと、耳の奥まで響いている。
その手は、先ほどからずっと、ほたるちゃんの小さな手と、絡み合っていた。
ほたるは。
『……。』
少しの間。
そして。
『うん。』
小さく、けれど、はっきりと、頷いた。
その一言で。
弓弦の全身に、一気に熱が広がる。
◇◇◇
寝室へ向かう。
広い、キングサイズのベッド。
真っ白なシーツが、柔らかな間接照明の下で、輝いていた。
「……。」
「……。」
二人は、並んでベッドの縁へ座る。
急に。
空気の密度が、高まったようだった。
弓弦は。
そっと、ほたるの肩へ手を回した。
「……いい?」
『……。』
ほたるは、少しだけ目を伏せて。 また、小さく頷いた。
弓弦は、ゆっくりとその体を横たえさせる。 淡い色の浴衣、濡れたままの髪、白い細い手足。 すべてが、あまりに綺麗で、あまりに尊くて。 弓弦は思わず息を呑んだ。
(きれい……きれいすぎて……。)
その美しさに、その白さに、弓弦は背徳的な感覚さえ覚えた。 (汚す……俺の指が……この綺麗なものを……。)
そんな汚らわしい欲望と、彼女を守りたいという純粋な気持ちが、弓弦の中で激しくぶつかり合っていた。
「……。」
弓弦の手が、ほたるのはだけかけた浴衣の襟元へ伸びる。
その瞬間。
「……あ。」
弓弦はすぐに気がついた。 熱を帯びた吐息の中で、ほたるちゃんの体が、ほんの少しだけ震えていることに。
(怯えてる?)
弓弦は、手を止めた。
「ほたるちゃん……?」
『……。』
ほたるちは、目を固く閉じ、唇を噛んでいた。 その震えは、行為そのものへの、怯えだった。
「ごめん。」
弓弦は、ゆっくりと手を離した。
「がっつきすぎた。」
彼は困ったように笑って、ほたるちゃんの額に、優しく口付けた。
「嫌だったら、すぐに言って。」
そう言って、彼はゆっくりと体を離した。
『……。』
ほたるは、きょとんとした目で弓弦を見つめていた。 (また、見抜かれた……。) 本当に、この人はどこまでも優しい。心が、暖かくなる。
ほたるは、弓弦の手をそっと自分の手で重ねて。
『……。』
自分から、彼に口付けた。 驚く、弓弦。彼は、わかりやすく照れている。でも、その嬉しそうな顔を見ると、安心する。 ほたるは、ふんわりと笑った。
『……やめないで。』
弓弦は、困ったような顔をして。
「……無理してない?」
『してない。』
「本当に?」
『本当に。』
「……。」
少しの間。 弓弦は、まだ迷っていた。でも、ほたるの、真剣な上目遣いを見て。
「……いやだったら、すぐに言って。」
『うん。』
弓弦の手が、再び彼女へ。 今度は、もっと、もっと優しく。
混じり合う吐息の中で。 その日はじめて、シアワセを、確かにかんじた。




