2-20
✳︎20.
翌朝。
柔らかな朝日が障子越しに部屋を照らしていた。
鳥のさえずり。
木々を揺らす風。
都会では聞こえない音だけが、静かな朝を包んでいる。
「……。」
弓弦はゆっくりと目を開けた。
腕の中には、小さな温もり。
規則正しい寝息。
まだ眠っているほたるだった。
昨日より少し乱れた髪。
穏やかな寝顔。
安心しきったように、自分の腕へそっと頬を預けている。
「……。」
思わず笑みがこぼれる。
(幸せだ。)
その一言しか浮かばなかった。
何年も憧れて。
何年も応援して。
画面の向こうにいた人が。
今、自分の腕の中で眠っている。
夢みたいだ。
けれど。
腕に伝わる温もりは、本物だった。
弓弦は起こさないよう、そっと前髪を撫でる。
すると。
『……おはよう。』
眠たそうな声。
ゆっくり目を開けたほたるが、小さく微笑んだ。
「おはよう。」
『もう朝?』
「うん。」
『早いね。』
「うん。」
少しだけ名残惜しい。
けれど今日は、二人とも昼から仕事が入っている。
世界的アイドルと、トップアイドル。
恋人になっても、その毎日は変わらない。
忙しい。
でも。
幸せだった。
◇◇◇
朝食も部屋でいただく。
炊きたてのご飯。
焼き魚。
出汁の香る味噌汁。
湯豆腐。
小鉢がいくつも並ぶ、美しい和朝食。
『おいしい。』
ほたるが幸せそうに笑う。
「昨日食べ過ぎたのに。」
『朝は別。』
「そうなんだ。」
『旅行だから。』
「それもそうか。」
二人で笑い合う。
時計を見ながら、
「このあとスタジオ?」
『うん。』
「俺も歌番組。」
『頑張ろう。』
「頑張ろう。」
仕事の話をする時間さえ、以前とは少し違って感じた。
“またね。”
ではなく。
“行ってきます。”
と言える相手ができたのだから。
◇◇◇
チェックアウトを済ませる。
旅館のスタッフが深く頭を下げる。
「ありがとうございました。」
『こちらこそ、ありがとうございました。』
最後まで誰にも会わない。
静かで、優しい宿だった。
◇◇◇
帰り道。
箱根の土産物店へ立ち寄る。
『リンリン、これ好きそう。』
可愛いうさぎの焼き菓子。
小さな缶には、星の形のクッキー。
ほたるは嬉しそうに手に取る。
「ユンユンは?」
『甘いもの好きだから。』
『あんまんじゃ持って帰れないし。』
「確かに。」
二人で真剣に選ぶ。
「これどう?」
『かわいい。』
「じゃあ決まり。」
袋は二つ。
大切な家族へのお土産だった。
◇◇◇
東京へ向かう高速道路。
フェラーリの車内には、静かな音楽が流れている。
やがて。
聞き慣れたイントロが流れ始めた。
『雨恋』
ほたるの代表曲。
弓弦は音量を少しだけ上げる。
透き通る歌声が車内を優しく満たしていく。
⸻
『雨恋』
静かな空を見上げて
今日も君を探してる
届きそうで届かない
名前さえ呼べない距離
笑っているその横顔を
ただ遠くから見つめてた
触れたらきっと壊れてしまう
そんな恋を知りました
君が笑えば嬉しくて
君が泣けば苦しくて
想いは募るほどに
言葉だけが消えていく
私は雨。
君は雲。
どれだけ空を見上げても
重なることは、きっとない。
君は風に流されて
私は静かに降り続ける。
それでもいい。
君の空を濡らせるなら。
私は今日も
雨のままで。
同じ季節を歩いても
見ている景色は違うね
隣に立てる誰かがいても
幸せなら、それでいい
心は何度
忘れようとしても
君の名前を
また歌ってしまう
雨はいつか止むでしょう
雲もいつか消えるでしょう
それでも
あの日、君を好きだった空だけは
きっと消えない
私は雨。
君は雲。
交わらない運命でも
好きになったことだけは
間違いじゃない。
君がどこかで笑うたび
私の空にも虹が咲く。
報われなくてもいい。
届かなくてもいい。
君を好きだった、この歌だけは
ずっと
ずっと
忘れない。
⸻
歌が流れる中。
助手席のほたるは、小さなメモ帳を二枚取り出した。
『ちょっと待ってね。』
「手紙?」
『うん。』
膝の上で、さらさらとペンが走る。
信号で車が止まる。
弓弦は何気なく、その文字へ視線を向けた。
そこに書かれていた名前に、思わず目を留める。
鈴月へ
初めて見る本名だった。
いつも「リンリン」と呼んでいるから。
その二文字が、どこか新鮮だった。
ほたるは優しい字で書いていく。
鈴月へ
お留守番ありがとう。
ユンユンの言うことをちゃんと聞いてくれてありがとう。
お土産、一緒に食べようね。
大好き。
書き終えると、もう一枚。
雲景へ
こちらも初めて見る。
沈雲景。
“ユンユン”ではなく、本当の名前。
字を見るのは初めてだったけど、
思っていた、字と同じだった。
ほたるは少しだけ笑って書き始めた。
雲景へ
二人の時間をくれてありがとう。
リンリンのお世話、お疲れさま。
お土産、ちゃんと食べてね。
いつもありがとう。
短い手紙。
たった数行。
でも。
そこには家族への愛情が、まっすぐ込められていた。
便箋を封筒へしまいながら、ほたるが顔を上げる。
『どうしたの?』
「いや。」
弓弦は穏やかに笑う。
「きれいな名前だなって。」
『うん。』
『ママとパパが残してくれた大切な宝物。』
そして。
自分の胸元をそっと指さす。
『私も。』
雨蛍。
雨のように優しく。
蛍のように小さな光を灯す名前。
弓弦は改めて隣の恋人を見つめた。
雨蛍。
その名前も。
その笑顔も。
その優しさも。
全部、好きだった。
そして。
その人が大切にしている人たちも。
自分にとって、いつしか大切な存在になっていた。
大切な人。
その大切な人たち。
守りたい幸せが、少しずつ増えていく。
フェラーリは東京へ向かって走り続ける。
忙しい日常が、また始まる。
それでも。
帰る場所がある。
笑い合える人がいる。
「おかえり」と言ってくれる家族がいる。
それだけで十分だった。
弓弦はハンドルを握りながら、小さく笑う。
隣では、ほたるも笑っていた。
青い空の向こうで。
今日もどこかの星が、静かに瞬いている。
――完――




