2-18
✳︎18.
付き合い始めてから。
弓弦は、ほたるの家へ来る回数が明らかに増えた。
最初の頃こそ。
「今日、行ってもいい?」
と、きちんと確認していた。
ほたるも。
『いいよ。』
『今日はご飯あるよ。』
『リンリンも喜ぶと思う。』
そんなふうに返していた。
けれど。
一度。
二度。
三度。
回数を重ねるうちに。
だんだんと。
本当に、だんだんと。
弓弦は、この家へ馴染んでいった。
手土産を持ってくる。
リンの宿題を見る。
ほたるが料理をしている間、洗い物を手伝う。
ユンユンの分の食事まで勝手によそう。
いつの間にか、自分用のマグカップまであった。
白地に、小さな星が描かれたもの。
誰が買ったのかは知らない。
多分、ほたる。
あるいはリン。
どちらにしても。
もう完全に。
この家には、弓弦の居場所ができていた。
◇◇◇
その日。
大学帰りのユンユンは、いつものようにマンションへ戻ってきた。
玄関の鍵を開ける。
「ただいま。」
返事を待つつもりもない、小さな声。
靴を脱ぐ。
リビングへ向かう。
その途中。
楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「もう一回!」
「よし、次は負けないよ。」
「絶対りんが勝つ!」
「じゃあ本気出す。」
「大人げない!」
「勝負だから。」
聞き覚えのある声。
嫌な予感しかしなかった。
ユンユンがリビングの扉を開ける。
「……。」
いた。
当たり前のように。
本当に。
あまりにも当たり前の顔で。
御影弓弦が、リビングの床に座っていた。
向かいにはリン。
二人の間には、カードゲーム。
ソファには、学校の鞄。
テーブルには、弓弦が持ってきたらしい洋菓子店の箱。
テレビでは、夕方の情報番組が流れている。
『おかえり。』
キッチンから、ほたるが顔を出す。
エプロン姿。
髪を後ろでまとめている。
『もうすぐご飯だよ。』
「……。」
「おかえり。」
弓弦まで言った。
ユンユンは、しばらく何も返さなかった。
お前の家ではない。
その言葉が喉まで出かかった。
けれど。
ほたるは機嫌がいい。
リンも楽しそう。
その空気を、自分だけが壊すのも面倒だった。
「……ただいま。」
低く返し。
自室へ鞄を置きに行く。
背中へ。
弓弦の声が追いかけてきた。
「今日、肉じゃがだって。」
「聞いてない。」
「美味しそうだよ。」
「見れば分かる。」
「あと、ケーキあるよ。」
「いらない。」
『ユンユン、甘いの好きでしょ?』
ほたるが言う。
「……食べる。」
弓弦が笑った。
その笑い方まで。
何だか腹が立った。
◇◇◇
夕食の時間。
食卓には、温かな料理が並んでいた。
肉じゃが。
焼き魚。
だし巻き卵。
味噌汁。
炊きたてのご飯。
ほたるは日本へ戻ってから、和食を作る機会が増えていた。
リンは嬉しそうに箸を持つ。
「いただきまーす!」
『いただきます。』
「いただきます。」
弓弦まで自然に声を重ねる。
ユンユンは黙ったまま席に着く。
席順も、いつの間にか固定されていた。
ほたるの隣にリン。
その向かいに弓弦。
ユンユンは斜め向かい。
誰も決めたわけではない。
けれど。
自然と、いつもそうなっている。
それがまた。
気に食わない。
◇◇◇
テレビでは、温泉地の特集が始まっていた。
山あいの旅館。
雪景色。
湯気の立つ露天風呂。
囲炉裏料理。
浴衣。
夜のライトアップ。
リンは箸を止め、画面へ釘付けになる。
「ねぇ。」
「温泉ってなに?」
その問いに。
ほたるが少し考える。
『えーっと。』
『大きなお風呂。』
「プール?」
『違う。』
「お湯のプール?」
『ちょっと近いけど、違う。』
弓弦が笑う。
「山とか地面の下から、温かいお湯が出るところがあって。」
「そこに入るんだよ。」
「お外で?」
「外のお風呂もある。」
「服は?」
「着ない。」
「えぇ!?」
リンが目を丸くする。
「みんなで!?」
「女の人と男の人は分かれてるよ。」
「なんだ。」
何に安心したのか分からない。
ほたるはテレビを見ながら、首を傾げる。
『私も、あんまり行ったことないなぁ。』
「そうなの?」
弓弦が聞く。
『うん。』
『仕事で撮影したことはあるけど。』
『ゆっくり入ったことは、ほとんどない。』
「へぇ。」
リンは、露天風呂の映像を見ながら楽しそうに言う。
「行ってみたい!」
『いいね。』
『いつか行こうね。』
「ユンユンも?」
「行かない。」
即答。
「なんでー?」
「面倒。」
「弓弦は?」
「行きたい。」
これも即答。
「じゃあ四人で!」
リンが満面の笑みを浮かべる。
「……。」
ユンユンの箸が止まる。
四人。
なぜ。
なぜ、そこへ当然のように弓弦が入っている。
誰も疑問に思わないのか。
ほたるまで。
『楽しそう。』
と笑っている。
弓弦も。
「いいね。」
と嬉しそうに頷いている。
そこで。
ユンユンの中で。
何かが切れた。
◇◇◇
ことん。
箸が置かれる。
小さな音だった。
けれど。
食卓の全員が、自然とユンユンを見る。
『どうしたの?』
ほたるが、不思議そうに首を傾げる。
ユンユンは、しばらく黙っていた。
そして。
低い声で言う。
「なんで。」
「毎回、うち来るの。」
「……え?」
弓弦が固まる。
ほたるも目を瞬かせる。
『だめ?』
その声。
少しだけ。
本当に少しだけ、悲しそうだった。
眉が下がる。
いつもの、ユンユンが一番弱い顔。
「……。」
ユンユンは目を逸らした。
ずるい。
本当に。
その顔はずるい。
自分が弓弦へ言ったのに。
なぜか、ほたるが傷ついているような顔をする。
「ほたるが来るなって意味じゃない。」
『ここ、私の家でもあるけど。』
「分かってる。」
『弓弦さんが来るの、嫌?』
「嫌。」
即答。
弓弦が、しゅんとする。
本当に、大型犬の耳が垂れたような顔だった。
「ごめん……。」
『ユンユン。』
ほたるの声が少し低くなる。
責めてはいない。
でも。
困っている。
その声にも、ユンユンは弱い。
「……。」
ユンユンは、もう一度テレビを見る。
画面には。
広い露天風呂。
山。
紅葉。
静かな旅館。
そして。
にこにこ笑う弓弦とほたる。
ユンユンは思った。
もう。
家へ来るくらいなら。
外へ出て行けばいい。
そうすれば。
自分の家は静かになる。
リンも自分が見ればいい。
そうだ。
その方がいい。
完全に。
やけだった。
「……来週。」
突然、ユンユンが言った。
全員が見る。
「二人で。」
「どっか行ってくれば。」
「……え?」
ほたるが目を丸くする。
「リンは俺が見るから。」
リンがすぐに声を上げる。
「えー!」
「りんも行きたい!」
「だめ。」
「なんで!」
「二人で行かせる。」
「やだ!」
「留守番。」
「やだー!」
ユンユンは無視する。
弓弦が、信じられないものを見るようにユンユンを見ていた。
「いいの?」
「いい。」
「本当に?」
「何回聞くの。」
「でも。」
「リンちゃん、見てくれるの?」
「家族だから。」
「……ありがとう。」
弓弦は、本当に嬉しそうだった。
ほたるも、少し驚きながら微笑む。
『ありがとう、ユンユン。』
「……。」
その笑顔を見た瞬間。
ユンユンは、少しだけ後悔した。
言わなければよかった。
そんなに嬉しそうにすると思わなかった。
でも。
もう遅い。
弓弦とほたるは、すっかりその気になっていた。
「どこ行く?」
『どこがいいかな。』
「遊園地?」
『人が多い。』
「映画?」
『すぐ終わる。』
「ドライブ?」
『こないだ行った。』
「水族館?」
『ばれそう。』
「美術館?」
『静かすぎない?』
「静かな方がよくない?」
『デートで?』
「デートだから。」
『うーん。』
二人とも。
全然決まらない。
リンは、ふてくされながら肉じゃがを食べている。
「りんも行きたい。」
ユンユンは。
そのやり取りをしばらく聞いていた。
そして。
だんだん面倒になった。
「……温泉。」
「え?」
二人の声が重なる。
ユンユンはテレビを指差した。
「それ。」
画面には、ちょうど大きな露天風呂が映っている。
山に囲まれた、開放的な温泉。
湯気。
静かな景色。
旅館の食事。
「温泉行けば。」
「……。」
弓弦とほたるが固まる。
ユンユンは、ほたるを見る。
「ほたる。」
「こういうの、好きそう。」
『……。』
ほたるは、画面を見る。
広い湯船。
静かな山。
湯上がりの浴衣。
美味しそうな料理。
表情が、少しずつ明るくなっていく。
『好き。』
「ほら。」
ユンユンは、ぶっきらぼうに言う。
弓弦も画面を見る。
「温泉……。」
頭の中に、浴衣姿のほたるが浮かぶ。
「……いい。」
『弓弦さん?』
「いや。」
「すごくいい。」
『なに想像したの?』
「何も。」
目が泳いでいる。
ほたるはじっと見る。
ユンユンも見る。
「きも。」
「なんで!?」
水城はいない。
黒瀬もいない。
それなのに。
いつものように、弓弦の叫び声がリビングへ響いた。
◇◇◇
結局。
行き先は、温泉に決まった。
平日。
人の少ない場所。
貸切風呂のある旅館。
都内から少し離れた山間。
弓弦はすぐにスマートフォンを取り出し。
ほたると一緒に宿を探し始める。
『ここ、きれい。』
「露天風呂ある。」
『ご飯も美味しそう。』
「部屋も広い。」
『こっちは貸切。』
「いいね。」
二人の距離が。
自然と近くなる。
肩が触れそうなほど。
同じ画面を覗き込んでいる。
ユンユンは、それを見て。
深く。
本当に深く、ため息をついた。
「家でやるな。」
「え?」
「探すなら帰ってやれ。」
「でも、まだご飯が。」
「食べたら帰れ。」
『ユンユン。』
「何。」
『ありがとう。』
「……。」
また。
その笑顔。
ユンユンは、もう何も言えなくなる。
リンが、隣で小さく笑った。
「ユンユン。」
「ほんとは優しいね。」
「違う。」
「二人で遊びに行ってほしいんでしょ?」
「家に来てほしくないだけ。」
「同じじゃない?」
「違う。」
リンはにこにこ笑う。
弓弦も、ほたるも。
すっかり温泉旅行の話で盛り上がっている。
そして。
その日の夜。
ユンユンは気付くことになる。
家へ来るなと言った結果。
弓弦とほたるの初めての温泉旅行を、自分で提案してしまったことに。
「……。」
自室のベッド。
天井を見つめる。
「……最悪。」
ぼそり。
隣の部屋からは。
ほたるとリンが、楽しそうに旅館の話をする声が聞こえていた。
ユンユンは布団を頭まで被る。
けれど。
翌朝。
誰よりも早く。
その旅館の評判と。
周辺の治安と。
車での所要時間と。
近くの病院まで。
全部調べていた。




