9.
⭐︎9.
店内の話し声が、少し遠くなる。
神崎は色紙をテーブルへ置き、キャップを外したペンを指先でくるりと回した。
こういう作業は慣れている。
ライブ終わり。
キャンペーン。
イベント。
何度も書いてきたサイン。
けれど。
今日は少しだけ違った。
「……リンちゃん、だったな。」
『はい。』
ほたるが嬉しそうに頷く。
神崎は一度だけ頷き返すと、さらさらとペンを走らせた。
迷いのない字だった。
一文字一文字が丁寧で、真っ直ぐ。
書き終えると、少しだけインクを乾かしてから色紙を持ち上げる。
「よし。」
そのまま水城へ差し出した。
「宗真。」
「お、俺も?」
「せっかくだ。」
「全員で書け。」
「もちろん!」
水城は嬉しそうにペンを受け取る。
「リンちゃん、絶対喜ぶじゃん!」
鼻歌まじりにサインを書き始める。
「六歳かぁ。」
「かわいいなぁ。」
「うちの姪っ子くらいだ。」
「おい。」
黒瀬が笑う。
「話しながら書くな。」
「字、曲がってる。」
「え?」
水城が見下ろす。
「あ、ほんとだ。」
「やっべ。」
「やべぇじゃねぇ。」
黒瀬が肩を揺らして笑う。
店内の空気までつられて柔らかくなる。
水城が書き終えると、
「はい。」
と黒瀬へペンを回した。
「リンちゃんか。」
黒瀬は色紙を見ながら微笑む。
「六歳で俺ら応援してくれてるなんてな。」
さらさらと軽快にサインを書き終え、
「よし。」
今度は弓弦へ渡した。
「センター。」
「締め。」
「……。」
弓弦はペンを受け取ったまま、少しだけ色紙を見つめる。
神崎。
水城。
黒瀬。
三人のサインが並んでいる。
その横の余白へ、ゆっくりとペン先を置いた。
(リンちゃん。)
(六歳。)
(ほたるちゃんの大事な妹。)
自然と口元が緩みそうになる。
(この色紙を持って帰ったら。)
(きっと、すごく喜ぶんだろうな。)
(ほたるちゃんも嬉しいんだろうな。)
そんな光景を想像してしまう。
だから。
いつものファンへの一言ではなく。
少しだけ優しい言葉を書いた。
書き終え、ペンを置く。
「はい。」
神崎が色紙を受け取り、軽く目を通した。
「大丈夫。」
そう言って、ほたるへ差し出す。
「リンちゃんに。」
一瞬。
ほたるは目を丸くしたまま動かなかった。
『……。』
『……え。』
恐る恐る、両手を伸ばす。
『……本当に。』
『いただいても、いいんですか?』
「そのために書いた。」
神崎が短く答える。
「遠慮すんな。」
「持って帰って。」
「いっぱい自慢して。」
水城が笑う。
「ライブもまた来てって伝えといて。」
「まだ六歳だけどな。」
黒瀬が突っ込む。
「いつか、だよ。」
「その頃には俺ら、おじさんか。」
「まだ大丈夫だろ。」
四人のやり取りに、ほたるはくすっと笑った。
それから。
胸の前で色紙を抱きしめる。
まるで壊れ物を扱うように。
本当に、本当に大切そうに。
『……ありがとうございます。』
その声は少し震えていた。
『リン。』
『絶対、飛び跳ねて喜びます。』
『毎日、大事に眺めると思います。』
そう言って笑った顔は。
自分がプレゼントをもらった時の笑顔ではなかった。
妹が喜ぶ姿を思い浮かべている笑顔。
それが分かるから。
四人とも、自然と微笑んでいた。
「……いいお姉ちゃんだな。」
水城がぽつりと漏らす。
「ほんと。」
黒瀬も頷く。
神崎は何も言わなかった。
ただ、照れくさそうにグラスを持ち上げ、一口だけ酒を飲む。
弓弦は色紙を抱えるほたるを見つめたまま、静かに息を吐いた。
(……こういう人だから。)
(みんな、好きになるんだな。)
テレビで見ていた笑顔よりも。
ドラマで演じる姿よりも。
今、妹のために嬉しそうに笑うその横顔が。
誰よりも綺麗だった。




