10.
⭐︎10.
ほたるは色紙を両手で受け取ると、まるで壊れ物でも扱うように、そっと胸へ抱き寄せた。
『……ありがとうございます。』
瞳がきらきらと輝いている。
そこには、自分がプレゼントをもらった時のような喜びだけではなかった。
『リン……絶対、喜びます。』
『帰ったら、一番に見せますね。』
その一言だけで十分だった。
四人には分かった。
この色紙は、ほたる自身のためではない。
大切な妹へ渡すための宝物なのだと。
「喜んでくれるといいな。」
黒瀬が自然と笑う。
『はい。』
『たぶん……。』
ほたるは少し考えるように首を傾げたあと、小さく吹き出した。
『泣くと思います。』
「泣くの?」
水城が目を丸くする。
『はい。』
『嬉しいと、すぐ泣いちゃう子なんです。』
『この前も、1週間ぶりに会っただけで泣いてました。』
「かわいいなぁ。」
「六歳らしい。」
水城は思わず頬を緩めた。
『でも。』
『泣きながら、ちゃんと大事な箱にしまうんです。』
『宝物だからって。』
ほたるも思い出したように笑う。
『だから、この色紙もきっと……。』
『家宝みたいに大切にすると思います。』
「家宝は大げさだろ。」
黒瀬が笑って突っ込む。
『いえ。』
ほたるは真剣な顔で首を振った。
『リン、本当に皆さんが大好きなので。』
『毎日見えるところに飾ると思います。』
その嬉しそうな横顔を見て、水城が小さく息を吐いた。
「……いいお姉ちゃんだな。」
『え?』
「いや。」
「妹ちゃんの話してる時のほたるちゃん。」
「めちゃくちゃ優しい顔してる。」
『そうですか?』
ほたるは自分の頬へそっと触れた。
『あんまり意識したこと、なかったです。』
「してるしてる。」
黒瀬も笑う。
「さっきからずっと。」
「妹ちゃんのこと話す時だけ、表情違う。」
『本当ですか……?』
少しだけ照れたように笑う。
『恥ずかしいですね。』
「別に恥ずかしくねぇよ。」
神崎がぶっきらぼうに口を開いた。
「大事なんだろ。」
『……はい。』
ほたるは迷うことなく頷いた。
『世界で一番、大切な家族です。』
静かな声だった。
けれど、その言葉には揺るぎがなかった。
神崎は「そうか」とだけ返し、グラスへ口をつける。
それ以上は何も言わない。
だが、その短い一言だけで、ほたるは少し嬉しそうに微笑んだ。
そんな空気の中。
弓弦は胸ポケットへそっと手をやった。
そこには、つい数分前にもらったばかりの一枚。
ほたるのサイン。
──交換、という形で。
あまりにも自然に。
流れるように。
誰にも違和感を与えないまま手に入れてしまった。
(……よし。)
心の中だけで、小さく拳を握る。
(家帰ったら額縁。)
(いや、先に写真撮る。)
(保存用も欲しいな……。)
その横顔を見ていた三人は、危うく吹き出しそうになった。
水城はグラスで口元を隠し。
黒瀬は俯いて肩を震わせる。
神崎だけは平然と酒を飲みながら、小さくため息をつく。
(……上手くやったな。)
(交換って形にしたか。)
(あいつ、本当にこういう時だけ頭が回る。)
弓弦はもちろん気付かない。
いや、気付いていても気付かないふりをしているのか。
何事もなかったような顔で料理を口へ運ぶ。
その姿が余計に面白くて。
「……。」
「……。」
「……。」
三人は必死に笑いを堪えていた。
少しして。
監督の一本締めで、打ち上げはお開きとなった。
「それじゃあ、今日はこの辺で!」
「明日も朝早いからな!」
「お疲れ様でした!」
「「「お疲れ様でした!」」」
あちこちから椅子を引く音が響く。
スタッフたちは上着を羽織り、忘れ物がないか確認しながら店を出る準備を始めた。
名刺を交換する者。
「また次の作品で」と笑い合う者。
バーの中は、最後まで和やかな空気に包まれていた。
ほたるもバッグを肩へ掛けると、色紙が折れないようにもう一度だけ中を確認する。
ファイルは大丈夫。
位置もずれていない。
安心したように小さく息を吐く。
『よかった……。』
それからバッグを閉じると、また一人ずつスタッフへ頭を下げ始めた。
『今日はありがとうございました。』
『お疲れ様でした。』
『明日もよろしくお願いします。』
律儀だった。
帰る直前まで、一人も飛ばさない。
監督へ。
助監督へ。
照明スタッフへ。
大道具へ。
メイクへ。
衣装へ。
「ほたるちゃん!」
「今日はありがとう!」
『こちらこそです。』
「明日も頑張ろう!」
『はい!』
その笑顔につられるように、みんな笑う。
店の出口へ向かう頃には、自然と人の輪ができていた。
その様子を眺めながら、水城がぽつりと呟く。
「……最後までああなんだな。」
「ん?」
黒瀬が視線を向ける。
「ほら。」
「あそこ。」
出口近く。
スタッフたちに囲まれながら笑うほたる。
誰かが話しかけ。
ほたるが笑い。
また誰かが笑う。
まるで、彼女のいるところだけ灯りが少し明るくなったようだった。
「すげぇな。」
黒瀬が感心したように息を漏らす。
「空気作る人っているんだな。」
「本人は何もしてねぇのにな。」
神崎も静かに立ち上がる。
「それが一番強い。」
弓弦は何も言わなかった。
ただ、その背中を見送っていた。
(……ほんとに。)
(すごい人だ。)
その時だった。
「ほたるちゃん。」
少し低い男の声が聞こえた。
店の出口近く。
局のディレクターが、ほたるへ声を掛けていた。
四十代半ば。
業界歴も長く、顔も広い人物。
ただ――。
弓弦はその男を見た瞬間、小さく眉をひそめた。
(あの人……。)
良い噂を聞かない。
酒癖。
女癖。
どちらも。
芸能界にいれば、一度くらい耳に入る名前だった。
「今日はありがとう。」
ディレクターは人当たりのいい笑顔を浮かべる。
「主演、本当に良かったよ。」
『ありがとうございます。』
ほたるも丁寧に頭を下げる。
「このあと時間ある?」
『え?』
「もう一軒だけ付き合わない?」
「ゆっくり作品の話もしようよ。」
ほたるはきょとんと目を瞬かせる。
『作品の……ですか?』
「そうそう。」
「主演なんだから、いろいろ聞きたいこともあるし。」
ごく自然な誘い方だった。
何も知らなければ。
仕事の延長だと思ってしまう。
『そうなんですね。』
『少しでしたら――』
疑う様子は、まるでなかった。
その返事を聞いた瞬間。
弓弦は無意識に立ち上がっていた。
考えるより早く、身体が動く。
「ほたるちゃん。」
『御影さん?』
振り返るほたる。
弓弦は息を切らすこともなく、ごく自然な笑顔を浮かべた。
「ああ、よかった。」
「探してた。」
『私ですか?』
「うん。」
「マネージャーさん。」
「さっきから、ほたるちゃん探してたよ。」
『え?』
ほたるの表情が変わる。
「地下だから携帯つながらなかったみたい。」
「急ぎの仕事の連絡があるって。」
『そうなんですか……!』
慌ててバッグからスマートフォンを取り出そうとする。
その様子を見たディレクターは、少し残念そうに肩をすくめた。
「仕事なら仕方ないか。」
「また今度、ゆっくり話そう。」
『はい。』
『申し訳ありません。』
ほたるは深々と頭を下げる。
ディレクターは「気にしなくていいよ」と手を振り、そのまま店を後にした。
姿が見えなくなる。
ようやく弓弦は小さく息を吐いた。
ほたるはすぐにスマートフォンの画面を開く。
『大変……。』
『マネージャーさんに電話しないと……。』
その横で。
弓弦は少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「ごめん。」
『はい?』
「あれ。」
「……嘘。」
その一言に。
ほたるの動きがぴたりと止まる。
ほんの一瞬だけ。
その瞳から温度が消えた。
凪いだ水面のような、静かな目。
けれど、それは瞬きをするより短い時間だった。
次の瞬間には、いつもの柔らかな笑顔へ戻っている。
弓弦は、その変化に気付かなかった。




