2-15
✳︎15.
『瞬星』の大ヒットから数日後。
ほたるのマンションは、いつもよりずっと賑やかだった。
『いらっしゃーい!』
玄関の扉が開く。
笑顔で迎えたほたるは、淡いクリーム色のニットに、ゆるく結んだ髪。
完全にオフの格好だった。
「お邪魔しまーす!」
真っ先に飛び込んできたのは水城。
その後ろから黒瀬。
神崎。
弓弦。
阿久津。
そしてレナ。
それぞれ両手いっぱいに荷物を抱えている。
「ちょっと!」
『え?』
「これ全部食べ物?」
ほたるが笑う。
水城が胸を張った。
「今日は打ち上げ!」
「『瞬星』大ヒット記念!」
「だから!」
「買いすぎた!」
黒瀬が苦笑する。
「こいつ、スーパーでテンション上がっちゃって。」
「全部カゴ入れてた。」
「だって今日くらい豪華にしたいじゃん!」
そんなやり取りを聞きながら、神崎は静かに段ボールを運ぶ。
「酒はこっちだ。」
「神崎さん。」
阿久津が呆れたように言う。
「飲み過ぎないようにお願いします。」
「努力する。」
「努力じゃ困ります。」
その会話に全員が笑った。
◇◇◇
「きたーー!!」
リビングへ入った水城が歓声を上げる。
テーブルの真ん中には、大きな二色鍋。
真っ赤な麻辣スープ。
そして、透き通った白湯スープ。
香辛料の香りが部屋いっぱいに広がる。
「本格的!」
「店じゃん!」
黒瀬が鍋を覗き込む。
『今日は火鍋です。』
ほたるが嬉しそうに説明する。
『こっちが麻辣。』
『こっちが白湯。』
『リンリンは辛いの食べられないから。』
『別のお鍋も作るね。』
キッチンには、小さな土鍋。
野菜たっぷりの優しいスープがぐつぐつ煮えていた。
「わー!」
リンがぴょんぴょん跳ねる。
『リンリン専用!』
「やったぁ!」
その姿に、水城が思わず頬を緩めた。
「かわいい……。」
「分かる。」
弓弦も頷く。
「天使。」
「お前。」
神崎が冷静に突っ込む。
「その台詞、最近何にでも言ってないか。」
「言ってない!」
「言ってる。」
黒瀬まで頷いた。
◇◇◇
そこへ。
廊下からゆっくり現れる一人の青年。
黒いTシャツ。
黒いパンツ。
無造作な黒髪。
首にはヘッドホン。
耳にはピアス。
腕には刺青。
「……。」
ユンユンだった。
『あ、ユンユン。』
『火鍋できたよ。』
「……。」
無言で席へ座る。
それだけなのに。
絵になる。
水城が黒瀬へ小声で囁く。
「今日もかっこいい。」
「黙ってればモデル。」
「喋ると。」
「塩。」
二人で笑う。
「聞こえてる。」
ぼそり。
「うわ!」
「地獄耳!」
「普通。」
ユンユンは平然としていた。
◇◇◇
「いただきまーす!」
全員で手を合わせる。
鍋から立ち上る湯気。
山盛りの野菜。
牛肉。
羊肉。
海鮮。
手作りの肉団子。
春雨。
湯葉。
どれも本格的だった。
「うまぁぁぁ!」
水城が叫ぶ。
「何これ!」
「店じゃん!」
『中国のおばあちゃんに教えてもらったの。』
「おばあちゃん天才!」
黒瀬は肉を頬張りながら頷く。
「この胡麻だれも美味い。」
レナが笑う。
「全部手作りですよ。」
「えぇ!?」
沙織まで驚いていた。
「本当に?」
『はい。』
『市販のより好きなんです。』
「すごい……。」
弓弦は静かにほたるを見つめる。
テレビで見る世界的アイドル。
その人が今。
エプロン姿で、みんなのお皿へ野菜をよそっている。
「弓弦さん。」
『お肉なくなってるよ?』
「あ。」
『いっぱい食べて。』
「……はい。」
思わず敬語になる。
水城が笑い転げた。
「なんで敬語!」
「王子どこ行った!」
◇◇◇
食事が進み、一時間ほど経った頃。
リンが小さく欠伸をした。
「ふぁぁ……。」
『眠い?』
「……うん。」
こくり。
ほたるは優しく微笑む。
『ちょっと寝ようか。』
「うん。」
小さな身体を抱き上げる。
「おやすみー!」
水城が手を振る。
「またあとでね!」
「おやすみ!」
リンも眠そうに手を振り返した。
そのまま、ほたるは寝室へ消えていく。
リビングには、大人たちだけが残った。
鍋はまだぐつぐつと音を立てている。
そして。
テーブルの端には、水城と黒瀬が持ってきた数本の酒瓶が、静かに並んでいた――。
少し時間が経ち、鍋もほとんど空になっていた。
火鍋の湯気は少しずつ落ち着き、テーブルの上には空いた皿が増えていた。
誰かが肉を追加し。
誰かが野菜を入れ。
誰かがお酒を注ぐ。
そんな穏やかな時間。
キッチンでは、ほたるが喉を押さえながら冷蔵庫を開けていた。
『なんか喉渇いちゃった。』
冷蔵庫の一番下。
透明なガラス瓶が目に入る。
淡い琥珀色。
果汁のような甘そうな色。
『ジュースだ。』
そう思った。
コップに注ぐのも面倒だった。
瓶を持ち上げ、そのまま口を付ける。
ごく、ごく、ごく、ごく……。
「……。」
レナが振り返る。
「あれ。」
「あれって……。」
その時にはもう遅かった。
ほたるは半分近く飲み終えていた。
『……おいしい。』
満足そうに瓶を戻す。
ほんのり桃の香り。
甘い。
飲みやすい。
ジュースみたいだった。
「ほたる。」
レナの声が少し震える。
『ん?』
「それ。」
「果実酒。」
『……。』
『え?』
「桃のお酒。」
『……。』
数秒。
ほたるは瓶を見つめる。
『ジュースじゃないの?』
「違う!」
「結構アルコールあるやつ!」
「えぇぇぇ!?」
水城が立ち上がる。
「どれくらい飲んだ!?」
黒瀬が瓶を持ち上げる。
「半分ないじゃん!」
「結構飲んでる!」
神崎は額を押さえた。
「これは……まずいな。」
ユンユンだけが静かだった。
「……。」
一度だけ瓶を見る。
そして。
「三分。」
ぼそり。
「え?」
「三分で酔う。」
「……。」
「早。」
水城が苦笑する。
◇◇◇
三分後。
『えへへ……。』
ソファに座るほたるは、とろんとしていた。
頬がほんのり赤い。
瞳も潤んでいる。
いつもの世界的アイドルの姿はどこにもない。
『なんかねぇ……。』
『ふわふわする。』
「完全に酔った。」
黒瀬が笑う。
水城はスマホを取り出しかけて、
「……。」
ユンユンの視線に気付き、
「撮りません。」
素直にしまった。
◇◇◇
ほたるは立ち上がる。
ふらり。
『ゆずるさーん。』
弓弦の心臓が跳ねた。
「はい!」
反射で返事をする。
『ぎゅー。』
両手を広げながら近付いてくる。
(え。)
(待って。)
(これって。)
(抱きつき……!?)
人生最大級の幸福が訪れようとしていた。
その瞬間。
「ダメ。」
すっと間へ入る影。
ユンユンだった。
『あ。』
「酔ってる。」
「他人に抱きつくな。」
『えー……。』
「ダメ。」
『……。』
ほたるは少し考える。
そして。
『じゃあ。』
方向転換。
そのまま。
ぽすん。
ユンユンへ抱きついた。
「……。」
部屋が静かになる。
『ぎゅー。』
ほたるは満足そうに目を閉じる。
『ユンユンあったかい。』
「……。」
ユンユンは慣れた様子だった。
逃げない。
慌てない。
ただ。
小さくため息をつくだけ。
「ほたる。」
「苦しい。」
『や。』
「……。」
『ぎゅー。』
さらに力が入る。
その瞬間だけ。
ユンユンの耳が少し赤くなった。
水城は見逃さなかった。
「照れてる!」
「照れてない。」
「いや赤い!」
「赤くない。」
「耳!」
「暑いだけ。」
「鍋?」
「鍋。」
黒瀬が吹き出す。
「絶対違う。」
ユンユンは無表情を崩さない。
それでも。
ほたるが頬を肩へ預けるたびに、
ほんの少しだけ目が泳ぐ。
抱きつかれることには慣れている。
きっと昔から。
酔った時も。
悲しい時も。
嬉しい時も。
ほたるはこうして抱きついてきたのだろう。
だから受け止める。
でも。
慣れていても。
照れないわけではない。
「……。」
耳だけが、ほんのり赤かった。
◇◇◇
そのまま飲み会は続く。
ほたるはユンユンにもたれたまま、幸せそうにうとうとしている。
そんな穏やかな空気の中。
少ししっとりした空気を残しつつ、コミカルさも交えた流れにしました。
弓弦の胸は、どこか落ち着かなかった。
心が狭いのかもしれない。
そう思う。
相手は弟だ。
血の繋がった家族。
それなのに。
さっきから胸の奥が、妙にざわついて仕方がなかった。
◇◇◇
『……んぅ。』
ほたるはユンユンへ身体を預けたまま、小さく欠伸をする。
眠そうに瞼をこすり、
『ねむい……。』
とろん、とした声。
ユンユンは小さく息を吐いた。
「……ほたる。」
『ん?』
「寝る。」
『やー。』
「やじゃない。」
『ここがいい。』
「……。」
返事の代わりに、また小さなため息。
慣れている。
本当に慣れている。
ユンユンはそっとほたるの腕を外すと、その細い身体を軽々と抱き上げた。
『わぁ。』
ほたるは嬉しそうに笑う。
『おひめさまだっこ。』
「酔ってる。」
『えへへ。』
ユンユンは何も言わない。
けれど。
抱き上げる腕は驚くほど優しかった。
落とさないように。
苦しくないように。
眠ったリンを抱く時と同じように、自然な手つきだった。
ほたるも安心しきっている。
胸元へ頬を寄せ、目を閉じる。
『ユンユン……。』
「……。」
『すきー。』
「はいはい。」
ぶっきらぼうな返事。
でも、その声は少しだけ柔らかい。
弓弦はその横顔から目が離せなかった。
普段、人を睨みつけるような鋭い目。
誰にも心を開かないような冷たい表情。
そんなユンユンが。
今だけは違う。
ほたるを見下ろす瞳は、驚くほど穏やかだった。
優しい。
本当に優しい顔だった。
「……姉弟だよな。」
ぽつり。
水城が呟く。
「うん。」
黒瀬も頷いた。
「でも、あまりにも絵になる。」
「映画みたい。」
誰も否定しなかった。
よく似た黒髪。
整いすぎた顔立ち。
双子のようによく似た二人。
そのままユンユンは静かに寝室へ消えていった。
◇◇◇
十分ほどして。
ユンユンが一人で戻ってきた。
「寝た?」
黒瀬が聞く。
「……寝た。」
短く答える。
席へ座ると、何事もなかったように箸を取った。
誰も飲めとは言っていないのに、お酒には一切手を付けない。
黙々と料理を口へ運んでいく。
火鍋はほとんど空。
テーブルには、ほたるが朝から仕込んでいた唐揚げや、中華風のつまみがいくつか残っていた。
ユンユンはその一つ一つを丁寧に皿へ取り分ける。
「残さず食べて。」
ぼそり。
「せっかく、ほたるが作ったんだから。」
「もちろん!」
黒瀬が笑う。
「全部食べる。」
「俺、この唐揚げ好き。」
水城も頷く。
「これうますぎ。」
阿久津も静かに箸を伸ばした。
「本当に美味しいですね。」
レナはどこか嬉しそうに微笑む。
「朝からずっと仕込んでましたから。」
「ほたるらしい。」
神崎が静かに呟いた。
◇◇◇
和やかな空気が戻る。
水城は缶ビールを片手に、思い出したようにユンユンを見る。
「そういえばさ。」
「……。」
「ユン。」
「彼女とかいないの?」
ユンユンは返事をしない。
黙々と唐揚げを一つ食べる。
ごくん。
飲み込んでから、ようやく顔を上げた。
「いない。」
「えー!」
水城が身を乗り出す。
「モテるでしょ?」
「興味ない。」
即答だった。
「早っ!」
「ちょっとくらい考えてよ!」
「考えた。」
「一秒じゃん!」
部屋に笑いが広がる。
「つまんねぇー。」
水城は肩を落とした。
「酒の肴にしようと思ったのに。」
黒瀬が笑いながら弓弦を見る。
「弓弦。」
「聞けば?」
「え?」
「気になるんだろ。」
「いや……。」
少し照れながら、それでも弓弦は素直に聞いた。
「好きなタイプ、とかは?」
ユンユンは少しだけ考える。
珍しく沈黙が流れた。
やがて。
ぽつり。
「……きれい。」
一言。
さらに続ける。
「かわいい。」
「歌うまい。」
「優しい。」
「料理うまい。」
「家族思い。」
そこまで言って、また食事へ戻る。
部屋が静まり返った。
「…………。」
数秒後。
水城が勢いよく立ち上がる。
「ほたるじゃん!!」
大爆笑。
黒瀬まで吹き出した。
「全部ほたる!」
「一個もズレてない!」
「まんまだ!」
神崎も苦笑する。
「比較対象が近すぎるな。」
水城は笑いながら肩を叩く。
「まぁさぁ。」
「あんな完璧な姉ちゃん毎日見て育ったら。」
「他の女の子に目が行く方が難しいか。」
「基準高すぎ。」
「それはある。」
黒瀬も納得したように頷く。
「世界的アイドルだもんな。」
「しかも料理まで上手いし。」
「優しいし。」
「家族思いだし。」
弓弦も苦笑しながらグラスを手に取る。
「確かに。」
「ハードルは高くなるよね。」
そう言って、お酒を一口飲む。
笑う。
笑っている。
それなのに。
胸の奥だけは、不思議と静まらなかった。
仲のいい姉弟。
そう。
それだけのはずなのに。
ユンユンがほたるを見る目。
ほたるがユンユンへ向ける無防備な笑顔。
その光景を見るたびに。
弓弦の胸は、小さくざわつくのだった。




