2-9
✳︎9.
「……だから。」
ユンユンは深いため息をついた。
頭をがしがしと掻きながら、もう一度はっきりと言う。
「今のバイトで満足してる。」
「だから断る。」
その声には、一切の迷いがなかった。
きっぱり。
それ以上、この話を続けるつもりはない。
そんな意思表示だった。
リビングが静まり返る。
沙織は残念そうに微笑みながら、小さく頷いた。
「そう。」
「無理を言ってごめんなさい。」
「でも、一度お話できて良かったわ。」
そこで区切りなのだろう。
ユンユンは壁の時計を見る。
「……十分。」
ぼそり。
「行く。」
ソファから腰を浮かせる。
その瞬間だった。
『……ねぇ。』
ほたるが静かに呼び止めた。
さっきまでの明るい声とは違う。
少し低くて。
真剣な声。
ユンユンの動きが止まる。
振り返らないまま、小さく返事をした。
「なに。」
『本当は、どんなバイトしてるの?』
「……。」
『聞いても教えてくれないし。』
『夜中まで帰ってこない日もある。』
『朝は眠そうな顔で大学行って。』
『ちゃんと寝れてるの?』
返事はない。
ほたるは続ける。
『大学だって。』
『本当にやりたかった勉強じゃないでしょう?』
『ねぇ。』
『無理してない?』
どこまでも優しい声だった。
責めているわけではない。
ただ、心配だった。
弟の身体が。
将来が。
だから聞いている。
長い沈黙のあと。
ユンユンが小さく口を開いた。
「……教授の研究。」
ぼそり。
「あと。」
「深夜病院の当直。」
言い終わる頃には、少しだけ耳が赤くなっていた。
リビングが静まり返る。
「……病院?」
水城が目を丸くする。
「大学生で?」
黒瀬も驚く。
ユンユンは小さく頷くだけだった。
派手な見た目。
無数のピアス。
タトゥー。
ぶっきらぼうな態度。
誰が見ても不良青年。
なのに、やっていることは驚くほど真面目だった。
『本当?』
ほたるが確認する。
「本当。」
『……寝れてる?』
「……。」
沈黙。
『勤務時間は?』
「……。」
また沈黙。
『言えないのね。』
ほたるは大きくため息をつく。
『絶対、それ寝てないじゃない。』
ユンユンは目を逸らした。
図星だったらしい。
その様子を見た沙織が、穏やかに口を開く。
「雲景くん。」
「もし良かったら、一度だけAsterismのライブを見に来ない?」
「もちろん、お仕事として。」
「アルバイト代もちゃんとお支払いするわ。」
ほたるの表情がぱっと明るくなる。
『沙織さん!』
そしてユンユンを見る。
『ほら。』
『ユンユン、音楽好きじゃない。』
「やだ。」
即答。
『一回だけ。』
「やだ。」
『お願い。』
「やだ。」
『絶対楽しいから。』
「興味ない。」
『ユンユン。』
「……。」
『ね?』
「……。」
少しだけ沈黙。
そして。
「ほたる。」
「そういうの。」
「うざい。」
その一言だった。
ほたるの表情が、ぴたりと止まる。
『……うざい。』
小さく繰り返す。
笑顔が消える。
弓弦は思わず胸が締め付けられた。
しまった。
そんな顔をしたのは、ユンユンも同じだった。
「あ……。」
言い過ぎた。
そう思った時には、もう遅い。
ほたるはゆっくりと立ち上がる。
棚の上へ歩いていき、一枚の写真立てを両手で抱き上げた。
若い夫婦。
幼いほたる。
小さなユンユン。
さらに幼いリン。
四人が笑っている家族写真だった。
ほたるは写真へ向かって、静かに話しかける。
『妈妈。』
『爸爸。』
少しだけ鼻をすすった。
『聞いて。』
『ユンユンがね。』
『お姉ちゃんに「うざい」って言うようになっちゃった。』
ぽろり。
一粒だけ涙が落ちる。
『……私。』
『育て方、間違えたのかな。』
その声は震えていた。
『ママとパパがいなくなってから。』
『私なりに、一生懸命頑張ってきたんだけど。』
『忙しくて。』
『あんまり遊んであげられなかったし。』
『家で待たせることも多かった。』
『ご飯も一緒に食べられない日がいっぱいあった。』
『そのせいかな。』
『私のせいかな。』
リンが心配そうに近寄る。
『お姉ちゃん……。』
ほたるは写真を抱き締めたまま続ける。
『昔はね。』
『ほたる、ほたるって。』
『ずーっと後ろついてきてくれたのに。』
『寝る時も手を繋いでくれって言ってたのに。』
『「ほたると結婚する」って毎日言ってくれてたのに。』
『あんなに可愛かったユンユンが……。』
『今じゃ「うざい」。』
『うざい……。』
『ママぁ……。』
『パパぁ……。』
『ごめんなさいぃ……。』
しくしく。
肩まで震え始める。
リビングが静まり返る。
水城は口を半開きにしたまま固まっていた。
「え……。」
黒瀬も小声で呟く。
「やばい……。」
「泣いちゃった……。」
沙織まで少し慌て始める。
「あらあら……。」
ただ一人。
レナだけは目を閉じて額を押さえた。
(始まった……。)
見慣れた光景だった。
ユンユンの顔色がみるみる変わる。
「……。」
さっきまでの無表情はどこへやら。
「ちょ……。」
「ほたる。」
返事がない。
「おい。」
「ほたる。」
しくしく。
『うぅ……。』
「いや。」
「待って。」
「その。」
「……泣くなって。」
完全に狼狽えていた。
どうしていいか分からない。
頭を掻く。
歩き回る。
また頭を掻く。
「リン。」
「なんとかして。」
助けを求める。
するとリンは、真剣な顔で頷いた。
『ユンユン。』
『お姉ちゃん泣いてる。』
「見れば分かる。」
『謝ったほうがいいよ?』
「……。」
『ほたる、泣くと長いよ?』
「知ってる。」
『今日は三時間くらいかなぁ。』
「長い!」
思わず叫ぶ。
水城が吹き出した。
「三時間!?」
レナが苦笑する。
「最長記録、半日。」
「半日!?」
黒瀬まで笑い始める。
ユンユンは真っ赤な顔で写真立てをそっと取り上げた。
「……分かった。」
「分かったから。」
「もう。」
「やめて。」
ほたるは涙目のまま見上げる。
『……ライブ。』
『来てくれる?』
「行く。」
『見てくれる?』
「見る。」
『最後まで?』
「見る!」
『途中で帰らない?』
「帰らない!」
『感想も聞かせて?』
「……聞かせる。」
『本当?』
「本当!」
『約束?』
「約束!」
一拍。
ほたるは、ぱっと顔を上げた。
『やったぁ!』
涙はどこへやら。
満開の笑顔。
『リンリン!』
『成功!』
『やったぁー!』
姉妹でハイタッチ。
ぴしんっ。
乾いた音が響く。
リビング中が固まった。
「……。」
「……。」
「……。」
水城がゆっくりレナを見る。
「今の。」
「……。」
「八割演技。」
レナが静かに答えた。
「残り二割は本気。」
「怖っ!」
水城が頭を抱える。
黒瀬は笑いすぎて涙を拭いている。
神崎だけが小さく笑った。
「勝てんな。」
ユンユンは耳まで真っ赤にしながらソファへ座り込む。
「……。」
「またやられた。」
ぼそり。
「分かってたのに。」
「毎回これ。」
深いため息。
その姿を見て、弓弦は思わず笑みをこぼした。
姉には敵わない。
それを誰よりも分かっているのに。
泣かれると、放っておけない。
そんな不器用な弟だった。
沙織は優しく微笑む。
「ありがとう。」
「雲景くん。」
「嬉しいわ。」
ユンユンは照れ隠しのように睨み返した。
「勘違いしないで。」
「曲を書くって決めたわけじゃない。」
「バイト代もいらない。」
「ライブ見て。」
「気が乗らなかったら。」
「この話は終わり。」
そう言って立ち上がる。
「……それなら。」
「行ってやる。」
どこまでも上から目線。
それでも弓弦たちは、顔を見合わせて笑った。
「ありがとうございます!」
その声が重なった瞬間。
ユンユンはまた一つ、大きなため息を落とした。




