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あの日のスピカ。  作者: ツユクサリヒト


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2-2



✳︎2.




次に弓弦がほたるを見たのは、思いもよらない場所だった。


 


     ◇◇◇





 その日。


 弓弦は打ち合わせのため、事務所へ来ていた。




 楽屋へ向かう途中。


 社長室の扉が開く。


 自然とそちらへ目が向いた。





「……。」


 一瞬、思考が止まる。



 最初に出てきたのは、見慣れた金色の髪ではない。






 柔らかな笑みを浮かべる一人の男。


 篠宮誘人。



 その隣には、ほたる。


 そして、その少し後ろをレナが歩いていた。





「……え。」


 どういう状況だろう。


 頭が真っ白になる。




 ほたるは弓弦へ気付き、小さく微笑んだ。



『あ。』


『弓弦さん。』


『お疲れさまです。』




 その穏やかな笑顔は、以前と何も変わらない。


 けれど、その隣に立つ人物だけが、弓弦の胸をざわつかせた。




 篠宮も弓弦へ視線を向ける。


 いつもの、人当たりのいい笑顔。


「こんにちは。」


「弓弦くん。」


「お久しぶり、だね。」



 どこまでも穏やかな声。


 初めて会う人なら、きっと優しい人だと思う。


 そんな笑顔だった。





 その空気を割るように、社長室から御影沙織が姿を現す。



「あら。」


「ちょうど良かった。」







 沙織は四人の間へ自然と入り、弓弦へ微笑んだ。




「弓弦。」


「ほたるさん、日本にいる間はルミエールに席を移すそうよ。」



「今日は、そのご挨拶だったの。」


「……え?」




 思わず聞き返す。


 ルミエール。



 その名前を聞いた瞬間、二年前の出来事が脳裏をよぎった。


 契約解除。


 突然の別れ。


 あの時の騒動。


 忘れた日は、一日もない。




(なんで……。)


(ほたるちゃん、何を考えてるんだ。)



 そう思って視線を向ける。


 ほたるは変わらず穏やかに立っている。





 その隣で、レナだけが弓弦の視線に気付き、小さく苦笑した。



 まるで。



「気持ちは分かる。」


 そう言っているような表情だった。





 その時だった。





「さあ。」



 篠宮が柔らかく笑う。



「ほたる。」


「専務にも挨拶へ行こうか。」


『うん。』




 ごく自然な流れで。


 篠宮は、ほたるの手を取った。



 恋人同士のような握り方ではない。


 迷子にならないように導くような、自然な仕草。



 ほたるも抵抗することなく歩き出す。


 二人の後ろ姿が、廊下の奥へ消えていく。


 弓弦は、その姿を黙って見送ることしかできなかった。





     ◇◇◇





 静かになった廊下で。


 レナが小さく息を吐いた。




「……私は止めたんですよ。」



 その声には、諦めが混じっていた。




「また篠宮の事務所なんて、やめなさいって。」


「日本へ戻った途端、あの人も性懲りもなく誘ってくるし。」




 苦笑する。



「さすがのほたるも、最初は少し考えてたんです。」


「でも……。」




 レナは困ったように肩をすくめた。





「この前、変な記事も出ちゃったでしょう?」




 熱愛報道。


 あの騒ぎを思い出す。




「ほたるも、ああいう記事が出るたびに対応するのが面倒だったみたいで。」


「だったら、芸能界のことを一番分かってる事務所の方が動きやすいって。」


「……あっさり契約しちゃいました。」



 ルミエール。


 日本でも指折りの大手芸能事務所。



 所属するメリットは大きい。


 その時、沙織が穏やかに笑った。





「うちにも来ないかって誘ったんだけどね。」


「振られちゃった。」



 冗談めかして笑う。


 レナは、少し離れた場所を歩く二人の背中を見つめた。




「ほたるは。」


「篠宮の怖さ、ちゃんと分かってます。」


「全部分かったうえで、あそこを選んだ。」





 静かな声だった。





「芸能界では、あの人が親みたいな存在だったから。」


「デビューしてから、ずっと。」


「だから……。」





 一度言葉を切る。




「なんだかんだ、仲はいいんですよね。」




 その一言には、納得と、少しだけ複雑な感情が滲んでいた。





「ほたるが決めたことなら。」


「私は、それを支えるだけ。」




 そう言ってレナは二人へ向かって軽く頭を下げる。





「それじゃ、失礼します。」




 小走りで、ほたるたちの後を追っていった。




 廊下には、弓弦と沙織だけが残る。



 弓弦は、二人が消えていった先を静かに見つめたまま、しばらく動くことができなかった。







◇◇◇







その日の挨拶回りも、ほとんど終わっていた。


 ルミエール所属のタレントとして、関係各所へ顔を出す。


 スポンサー。


 テレビ局。


 制作会社。





 どこへ行っても歓迎された。


 世界的アイドル・ユーイン。




 その名は、すでに日本でも大きなブランドになっていた。


 最後の一件を終え、ビルのエントランスへ降りる。


 レナは車を回すため、先に地下駐車場へ向かっていた。





「五分くらいで戻るから。」



 そう言い残し、エレベーターへ乗っていく。


 静かになったロビー。



 大きなガラス窓から午後の日差しが差し込む。


 ほたるはその光をぼんやり眺めていた。




 その隣で、篠宮誘人は相変わらず穏やかに微笑んでいる。


 柔らかな笑み。



 人当たりのいい空気。


 誰が見ても、優しい大人。


 そんな印象しか抱かない男だった。







 しばらく沈黙が流れたあと。


 ほたるが静かに口を開く。



『誘人さん。』


「ん?」



『ユンユンを。』


『……私の家族を、今度利用したら。』




 そこで一度だけ息を吸う。





 篠宮を真っ直ぐ見つめた。





『怒りますからね。』




 声は穏やかだった。


 怒鳴るわけでもない。


 責めるわけでもない。



 それでも、その一言だけは、いつもより少し低かった。






 篠宮は一瞬だけ目を細める。



 そして。


 ふっと笑った。




「ああ。」


「やっぱり、ばれてたか。」



 苦笑だった。


 先日の熱愛報道。


 あのタイミング。


 あの写真。



 偶然ではない。





 ほたるが日本へ帰って来て。


 自分の事務所へ所属させるための一手。


 結果だけ見れば、思惑通りになった。




 それでも。


 篠宮は内心、少しだけ感心していた。







(来ない可能性もあった。)


(いや。)


(来ない方が高かったか。)



 ほたるは、自分が仕掛けたことに気付いていた。


 気付いたうえで。


 来た。




 感情では動かない。


 損得を見て。


 家族を守るために。


 一番利益が大きい選択肢を選んだ。






(正解だよ。)



 篠宮は心の中だけで呟いた。





 だからこそ面白い。


 だからこそ、自分が育てたこの少女は特別なのだと思う。




『もう、分かってます?』



 ほたるが、少しだけ頬を膨らませる。


 子どもを叱るようでもあり。


 年上へ注意するようでもある、不思議な表情。




 篠宮は肩をすくめた。





「はぁい。」



 返事だけは素直だった。


 その軽さに、ほたるは小さくため息をつく。




『返事だけ。』


「信用ないなぁ。」


『あります。』



 即答だった。




『だから怒ってるんです。』



 篠宮は少しだけ驚いたように笑う。




「……そういう言い方もできるようになったんだ。」



『成長しました。』


「誰のおかげ?」




 ほたるは少し考えて。


 にこっと笑う。




『半分は誘人さん。』


『半分は、みんな。』




 その「みんな」の中に、自分だけではない誰かがいることを、篠宮は理解していた。



 日本で出会った人たち。


 Asterism。


 レナ。


 御影沙織。


 そして――弓弦。


 篠宮は窓の外へ視線を向ける。




「……ずいぶん世界が広がったね。」


『はい。』


「昔なら。」


「“誘人さんがそう言うなら”で終わってた。」




 ほたるは否定しない。


 静かに頷いた。




『そうですね。』


『でも。』


『それでも、私は誘人さんに助けられました。』


『だから、そのことは一生忘れません。』



 その言葉に、篠宮は少しだけ目を伏せる。


 恩義を忘れない。



 だからこそ、この子は強い。


 そして厄介だ。



 遠くから車が滑り込んできた。


 レナだった。


 助手席の窓が開く。




「ほたるー!」


「乗るよー!」


『はーい。』



 ほたるは篠宮へ軽く頭を下げる。




『お疲れさまでした。』


「ああ。」


「また明日。」


『はい。』



 ほたるは駆け足で車へ向かう。


 その後ろ姿を見送りながら、篠宮は静かに笑った。






「……怒る、か。」



 昔なら言えなかった言葉。


 それを自分に向けて口にするほど、この少女は成長した。




 それが少し寂しくて。


 少し誇らしくて。








 そして何より――



 まだまだ目が離せない。




 篠宮誘人は、妖しくも穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに踵を返した。

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