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あの日のスピカ。  作者: ツユクサリヒト


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73/94

73.

⭐︎73.


 収録が終わったあと。


 スタジオには、まだ熱気が残っていた。


 大きな照明が少しずつ落とされ、スタッフたちの「お疲れ様でした」という声が飛び交う。


 料理対決の笑い声。


 客席の歓声。


 そして、久しぶりに響いた「ゆずほた」という声。


 その全部が、まだ耳の奥に残っている。


 Asterismの四人は、控室へ戻っていた。


「いやー、今日すごかったな!」


 水城がソファへ倒れ込む。


「弓弦、完全に持っていったじゃん。」


「俺じゃないって。」


「いや、お前だろ。」


 黒瀬が笑いながらジャケットを脱ぐ。


「神崎にキスさせたくなくて全国放送で駄々こねたセンター、初めて見た。」


「駄々じゃない!」


 弓弦が耳まで赤くして反論する。


「正当な主張!」


「どこがだ。」


 神崎が淡々と返す。


 控室に笑いが広がる。


 その時だった。


 コンコン。


 控えめなノックの音。


 扉の向こうから、静かな声がした。


『失礼します。』


 その声だけで、空気が少し変わった。


 扉が開く。


 そこに立っていたのは、ほたるだった。


 収録の時の華やかな衣装から、落ち着いた私服に着替えている。


 白いブラウスに、淡い色のスカート。


 派手な装飾はない。


 それでも、そこにいるだけで目を引いた。


 世界中のステージを経験してきた女性。


 舞台を降りても、その存在感は変わらない。


 水城は、思わず見入ってしまった。


 久しぶりに近くで見るほたるは、やはり綺麗だった。


 けれど、ただ綺麗なだけではない。


 昔より少し大人びて。


 昔よりずっと柔らかくなっていた。


『本日はありがとうございました。』


 ほたるは丁寧に頭を下げる。


『お忙しいところすみません。少しだけ、お時間いただいてもいいですか?』


「もちろん!」


 弓弦の返事は、誰よりも早かった。


 早すぎた。


 黒瀬が即座に笑う。


「返事、速すぎ。」


「いいだろ別に!」


 ほたるはくすっと笑った。


 その笑い方は、昔と変わらない。


 けれど、どこか軽やかだった。


 世界的アイドルになった今も、決して驕らない。


 相手に敬意を払う姿勢も。


 丁寧な言葉遣いも。


 きちんと目を見て話すところも。


 何一つ変わっていない。


 だからこそ、改めて思う。


 この人は、本当にすごい人なのだと。


 ほたるは四人の前に立つと、背筋を正した。


 そして、深く深く頭を下げる。


『リンの手術の際は、たくさんの募金を届けてくださり、本当にありがとうございました。』


 静かな声だった。


 けれど、その一言には、言い尽くせないほどの感謝が込められていた。


 Asterismの四人は、自然と表情を柔らかくする。


 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。


 ライブ会場で発表した募金活動。


 売上の一部を寄付すると決めたこと。


 ファンが次々に協力してくれたこと。


 そして、リンの手術が成功したと知った日の安堵。


 手術後しばらくして、アステリア・プロダクションへ一通の手紙が届いた。


 ほたるからの手紙だった。


 丁寧な文字で綴られた、たくさんの感謝の言葉。


 リンの現在の容態。


 今後の治療。


 そして、Asterismとファンへのお礼。


 ネット配信やニュースで知っているはずなのに。


 ほたる自身の言葉で届いたそれは、何より嬉しかった。


「リンちゃん、元気になって本当によかった。」


 神崎が静かに言う。


「うんうん!」


 水城も大きく頷いた。


「またライブ来てよ。今度はめちゃくちゃいい席用意するから!」


「それ、勝手に言うな。」


 黒瀬が笑いながら突っ込む。


『ふふっ。ありがとうございます。リンも、また皆さんのライブに行きたいって言っています。』


 ほたるの表情が、姉のものになる。


 優しくて、柔らかくて。


 リンのことを話す時だけ、彼女は少しだけ素に戻る。


『本当に、ありがとうございました。』


 もう一度、ほたるは頭を下げた。


 弓弦は何も言えなかった。


 ただ、胸がいっぱいだった。


 ほたるがここにいる。


 リンが生きている。


 また笑って話せる日が来た。


 それだけで、十分すぎるほどだった。


 ほたるは顔を上げると、少しだけ照れたように笑った。


『あ、それで。』


 全員が彼女を見る。


『そのことで、少し相談があって――』


 その瞬間。


 廊下の向こうから、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてきた。



⭐︎79 後編


 バタバタバタッ――。


 廊下を走る足音が、ものすごい勢いで近づいてくる。


 全員が思わず扉の方を向いた。


 コンコン、とノックの音がしたかと思えば。


 次の瞬間には勢いよくドアが開く。


「ほたる! やっぱここにいた!」


 飛び込んできたのはレナだった。


 昔と変わらない金髪。


 昔と変わらない鋭い目つき。


 そして、昔と変わらない慌ただしさ。


「レナさん!」


 水城が思わず立ち上がる。


「お久しぶりです!」


「久しぶり!」


 レナは笑顔で片手を上げる。


 ……が。


 次の瞬間だった。


「って違う!」


 腕時計を見たレナの表情が、一気に青ざめる。


「やばっ!」


「あと十分もないじゃん!」


 勢いよく、ほたるの手首を掴む。


『え?』


「え? じゃない!」


「アンタなんでまだ着替えてないのよ!」


 ほたるは少し困ったように笑う。


『今から着替えようかなって。』


「無理無理無理!」


「今から着替えてたら完全に遅刻!」


「次、生放送だから!」


『そうだった。』


「忘れてたの!?」


 レナは頭を抱える。


 控室は一瞬静まり返り。


 そして。


「ぶっ……!」


 水城が吹き出した。


「変わってねぇ!」


 黒瀬も笑いを堪えられない。


「懐かしい!」


 神崎まで小さく口元を緩めていた。


 昔からそうだった。


 時間にルーズなほたる。


 それを全力で回収するレナ。


 現場では毎日のように見ていた光景。


 世界一のアイドルになっても。


 世界中を飛び回るようになっても。


 二人だけは、何も変わっていなかった。


「ほら!」


「行くよ!」


『はいはい。』


 ほたるはレナに引っ張られながら、四人を振り返る。


 そして、柔らかく微笑んだ。


『ごめんなさい。』


『相談は、また今度。』


『またね。』


 その「またね」は。


 昔と同じ響きだった。


 弓弦の胸が、じんわりと温かくなる。


「またね!」


 水城が大きく手を振る。


「リンちゃんにもよろしく!」


『うん。』


 ほたるは嬉しそうに頷く。


『伝えておくね。』


 レナはぺこりと頭を下げた。


「今日はありがとうございました!」


「じゃ、失礼します!」


 そのまま二人は、嵐のように控室を飛び出していった。


 静かになる部屋。


 さっきまで賑やかだった空間が、一気に落ち着きを取り戻す。


「……。」


 誰からともなく顔を見合わせる。


 そして。


「変わんねぇなぁ。」


 水城がしみじみと呟いた。


「うん。」


 黒瀬も笑う。


「レナさんも。」


「ほたるちゃんも。」


「二人とも昔のまんまだ。」


 神崎は静かに頷く。


「ああ。」


「世界一忙しくなっても。」


「変わらないものはあるらしい。」


 その言葉に、全員が少しだけ笑った。


 ふと。


 三人は同時に、一人の男へ視線を向ける。


「……。」


 弓弦だった。


 さっきから一言も喋っていない。


 頬はほんのり赤いまま。


 口元は緩みっぱなし。


 どう見ても幸せそうだった。


 水城がにやっと笑う。


「なぁ。」


「ん?」


 返事までふわふわしている。


「今日のほたるちゃん。」


「ますます可愛くなってたなぁ。」


「……うん。」


 即答だった。


 しかも、ものすごく幸せそうに。


「さっき。」


 黒瀬が悪戯っぽく笑う。


「キスされてたしなぁ。」


「……。」


 弓弦は何も言えない。


「『またね。』だって。」


「……。」


「よかったなぁ。」


「……。」


「次もあるってことじゃん。」


 水城が肩を組む。


「世界一のアイドルに『またね。』って言われる気分、どう?」


 弓弦は少しだけ照れたように笑う。


「……最高。」


 その一言で十分だった。


 水城と黒瀬は顔を見合わせる。


「完全に惚気じゃん。」


「うん。」


「隠す気ゼロ。」


 控室は、また笑いに包まれた。


 そんな中。


 黒瀬は着替えながら、ぽつりと呟く。


「でもさ。」


「ん?」


「相変わらず、不思議だよな。」


「ほたるちゃん。」


 笑い声が少しだけ落ち着く。


「今は本名で活動してるだろ?」


「うん。」


「でも、日本に戻ってきたのは今日が初めて。」


「国籍だって、今日まで公表してなかった。」


「そう考えると。」


「俺たち。」


「あの子のこと、まだ全然知らないんだな。」


 その言葉に。


 弓弦は、今日の収録を思い出していた。


 料理対決が始まる前。


 ゲスト席で、MCと楽しそうに話していたほたるの姿を。




⭐︎80 「おかえり」


 料理対決が始まる前。


 ゲスト席では、MCとほたるが談笑していた。


 その様子は大型モニターにも映し出され、料理の準備をしながらも弓弦たちの耳にはしっかり届いていた。


 弓弦は包丁を持ちながらも、完全にそちらへ意識が向いている。


「弓弦。」


 神崎が呆れたように声を掛ける。


「玉ねぎ。」


「……あ。」


「手元。」


「ごめん。」


 視線だけはゲスト席から離れない。


 水城が笑う。


「もう料理より、ほたるちゃん見てるじゃん。」


「いや……。」


「見ちゃうだろ。」


 その一言に、三人は苦笑した。


 確かに。


 見てしまう。


 久しぶりに日本のテレビへ帰ってきた、世界的スター。


 それが、昔一緒に仕事をしていたほたるなのだから。


     ◇ ◇ ◇


「まずは!」


 MCが満面の笑みで拍手を送る。


「おかえりなさい!」


 その言葉に合わせるように。


 客席から一斉に声が上がった。


「おかえりーー!!」


「ほたるーー!!」


「待ってたーー!!」


 スタジオいっぱいに響く歓声。


 ほたるは少し驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。


『ただいま。』


 その二文字だけで。


 会場からもう一度、大きな拍手が起こる。


「いやぁ。」


 MCがしみじみ頷く。


「本当に久しぶりですね。」


『そうですね。』


「二年……いや、もっとかな?」


『日本のお仕事は、本当に久しぶりです。』


「嬉しいなぁ。」


 MCは照れくさそうに笑った。


「えっと。」


「改めて紹介したいんだけど。」


「なんてお呼びしたらいい?」


 世界では「沈蛍雨」。


 日本では「ほたる」。


 MCも少し迷っていた。


 ほたるは柔らかく微笑む。


『ほたるで大丈夫です。』


『日本では、その方が皆さん呼びやすいでしょう?』


「あぁ!」


「確かに!」


 MCが大きく頷く。


「それでは改めまして!」


「本日のスペシャルゲスト!」


「ほたるさんです!」


『よろしくお願いします。』


 深く頭を下げる。


 その丁寧な姿勢は、昔と何も変わらない。


 客席から温かな拍手が送られた。


     ◇ ◇ ◇


「えーっと。」


 MCが少し身を乗り出す。


「聞いていい?」


『はい。』


「ハーフだったの?」


『はい。』


 一瞬の間。


 そして。


『ふふっ。』


 小さく笑う。


『ハーフです。』


「えぇぇぇぇ!」


 MCが大げさに驚く。


「知らなかった!」


「言ってよ!」


 ほたるは首を傾げる。


『聞かれなかったので。』


 一拍。


 スタジオが静まり返り。


 次の瞬間。


 どっと笑いが起きた。


「そりゃそうだけど!」


「分かるわけないじゃん!」


「アジア人、大体似てるじゃん!」


『そうですね。』


 ほたるも笑いながら頷く。


 その自然な受け答えに、客席もどんどん笑顔になっていく。


     ◇ ◇ ◇


「それから!」


 MCの表情が少し優しくなる。


「妹さん。」


「元気にしてます?」


 その瞬間だった。


 ほたるの表情がふっと柔らかくなる。


 さっきまでの世界的スターではなく。


 一人の姉の顔。


『元気です。』


 嬉しそうに笑う。


『すごく元気。』


『久しぶりの日本に大興奮してます。』


「え!」


「一緒に来てるの!?」


『はい。』


『もちろん。』


 その答えだけで。


 会場から温かい拍手が起こった。


 ほたるは、その拍手を聞きながら静かに立ち上がる。


 そして。


 深く頭を下げた。


『あの時。』


『妹の手術のために、本当にたくさん応援していただきました。』


『募金をしてくださった皆さん。』


『励ましの言葉をくださった皆さん。』


『本当に、ありがとうございました。』


 九十度近いお辞儀。


 長い時間、頭を上げない。


 スタジオは静まり返っていた。


 誰も急かさない。


 その感謝の気持ちが、本物だと伝わってきたから。


 MCも目元を押さえながら笑う。


「いやぁ。」


「めちゃくちゃ感動したよ。」


「俺、あのドキュメンタリー見て泣いたもん。」


 客席からも頷く声が聞こえる。


 ほたるは照れたように微笑んだ。


『ありがとうございます。』


 その笑顔を見ながら。


 料理を作っている弓弦は、思わず包丁を止めて見入ってしまっていた。


「……。」


「弓弦。」


「……。」


「手。」


「あ。」


「危ない。」


「ごめん。」


 神崎は小さくため息をつく。


「料理に集中しろ。」


「……無理。」


「即答するな。」


 スタジオの笑い声と。


 ゲスト席の穏やかな空気。


 そのどちらもが、とても心地よかった。







⭐︎80 後編


「でもさ。」


 MCが椅子へ座り直しながら、不思議そうに首を傾げる。


「一つだけ、ずっと気になってたことがあるんだよね。」


『はい。』


「なんで、中国だったの?」


 スタジオが静かになる。


「もちろん、中国で成功したことは本当にすごい。」


「でも。」


「日本にも、ほたるちゃんを応援してる人はいっぱいいたじゃん。」


「言ってくれたらさ。」


 MCは少し熱くなったように続ける。


「俺らだって助けたよ。」


「テレビ局だって動いた。」


「特番だって組んだ。」


「日本のみんなも、絶対応援したと思う。」


 客席からも「そうだよー!」という声が飛ぶ。


 その気持ちは、本物だった。


 誰も責めているわけではない。


 ただ。


 知りたかった。


 なぜ、何も言わずに日本を離れたのか。


 ほたるは少しだけ考えるように視線を落とした。


 そして。


 真顔で答える。


『円安だったし。』


「…………。」


 一瞬。


 スタジオが完全に止まった。


 MCも固まる。


 客席も固まる。


 料理中だった水城まで手を止めた。


「……え?」


 数秒の静寂。


 そして。


「ぶはっ!」


 MCが吹き出した。


「そこ!?」


 スタジオ中が大爆笑に包まれる。


「本音!」


「めちゃくちゃ本音!」


「世界の歌姫が言う理由じゃない!」


 笑いが止まらない。


 ほたるは真面目な顔のまま続ける。


『向こうの方が、稼げると思ったので。』


 また笑いが起こる。


『リンの手術費用もありましたし。』


『あとは、生活費とか。』


『将来のこととか。』


『色々考えた結果です。』


「いや!」


 MCは笑いながらツッコむ。


「ちゃんと考えてるんだけど!」


「最初の一言が強すぎる!」


 客席から拍手と笑い。


 ほたるもつられて笑った。


『ふふっ。』


     ◇ ◇ ◇


「でもさ。」


 MCが腕を組む。


「日本にいた頃って。」


「こんなキャラじゃなかったよね?」


『そうですね。』


「もっと。」


「こう。」


「天使!」


「透明感!」


「神秘的!」


『はい。』


「今は?」


 ほたるは首を傾げる。


『普通です。』


「普通!?」


 また笑い。


『日本では。』


『あっちの方が受けると思ってました。』


 MCが目を見開く。


「計算だったの!?」


『はい。』


『アイドルなので。』


「えぇぇぇ!」


 スタジオ中がどよめく。


 ほたるは悪びれもせず微笑む。


『売れる努力はします。』


『大事なので。』


 その潔さに。


 客席は笑いながらも拍手を送る。


 昔のほたるは。


 何を考えているのか分からないほど完璧だった。


 今の蛍雨は違う。


 本音を隠さない。


 お金のため。


 売れるため。


 努力するため。


 全部、口にする。


 その人間らしさが。


 世界中の人を惹きつけていた。


     ◇ ◇ ◇


「なるほどねぇ。」


 MCがしみじみ頷く。


「じゃあ。」


「最後に。」


 にやっと笑う。


「みんな聞きたいことがあると思うんだけど。」


 客席がざわつく。


「え?」


「何?」


「なんだろ?」


 MCは料理をしている弓弦をちらっと見る。


 弓弦が嫌な予感しかしない顔をした。


「まさか。」


 水城が吹き出す。


「聞くの?」


「もちろん!」


 MCは満面の笑み。


「全国のみんなを代表して聞きます!」


「ほたるちゃん。」


「『ゆずほた』は!?」


 スタジオが揺れた。


「きゃーーー!!」


「聞いたーー!!」


「それそれ!!」


 客席は大歓声。


 弓弦は包丁を持ったまま固まる。


「……。」


 神崎が小さくため息をついた。


「止まった。」


「また止まった。」


 黒瀬が笑う。


 ほたるは。


 一瞬だけ弓弦へ視線を向けた。


 真っ赤な顔。


 慌てた様子。


 その姿がおかしくて。


 小さく肩を震わせる。


『どうでしょう?』


 とびきりの笑顔。


 その一言だけ。


 何も肯定しない。


 何も否定しない。


 それなのに。


「意味深ーーー!!」


 MCが頭を抱える。


 客席は大歓声。


「ゆずほたーーー!!」


「きゃあああ!」


 笑い声と歓声が、スタジオいっぱいに響き渡る。


 ほたるは、その景色を見ながら楽しそうに笑っていた。


 昔の”完璧なアイドル・ほたる”なら、きっと見せなかった笑顔で。

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