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あの日のスピカ。  作者: ツユクサリヒト


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72/94

72.



⭐︎72.






 午前五時三十分。

 御影弓弦の一日は、目覚まし時計では始まらない。




 ──ピコン。


 スマートフォンが震えた。


 寝ぼけたまま枕元を探る。




「……ん。」



 薄く目を開ける。  





 画面に表示された通知を見た瞬間だった。



『Yǔyíng Official 新しい動画を投稿しました』


「……!!」

  



 飛び起きた。



「更新っ!!」




 眠気なんて、一秒で吹き飛ぶ。


 ベッドから転がるように降り、髪もぼさぼさのまま動画を開く。





 タイトル。


 『上海の朝ごはん食べ歩き!』




「朝からありがとう……!」




 両手でスマートフォンを持ちながら、幸せそうに笑う。


 画面の向こうでは、ほたるが屋台を歩いていた。





『今日は小籠包を食べます。』

 


 中国語。


 もちろん弓弦は分からない。


 だが、問題ない。


「字幕、字幕。」


 日本語字幕をオン。


「便利な時代だなぁ……。」




 感動しながら頷く。


 十分後。




『美味しい。』


「分かる。」


『これ三皿いける。』


「分かる。」


『仕事じゃなかったら十皿食べたい。』


「可愛い。」


 誰もいない部屋で、一人頷いていた。




     ◇ ◇ ◇





「……。」



 朝食。


 テーブルにはトースト。


 コーヒー。





 そして。


 スマートフォン。


 食べながら、ほたるのインタビューを流している。





『最近ハマっていることは?』


『睡眠です。』


「可愛い。」


『夢は?』


『たくさん寝ることです。』


「可愛い。」


『休日は?』


『寝てます。』


「可愛い。」



 全部可愛い。


 もう何を言っても可愛い。



「……。」



 本人は真面目に答えているだけなのに。


 どうしてこんなに可愛いんだろう。


 弓弦は本気で悩んだ。





     ◇ ◇ ◇





「おはようございます。」



 仕事。


 スタジオ入り。


 扉が開いた瞬間だった。




「お。」


 水城が振り返る。


「今日も見た?」


「もちろん。」



 即答だった。


「朝五時三十二分更新。」


「五時三十三分には見た。」


「早っ。」


 黒瀬が笑う。




「コメントもした。」


「え。」


「高評価も押した。」


「え。」


「共有も保存もした。」


「怖ぇよ。」




 神崎がコーヒーを飲みながらため息をつく。


「仕事は。」


「もちろん完璧にやります。」




 きりっと答える弓弦。


「推し活も。」



 一拍置く。


「もちろん完璧です。」


「威張ることじゃねぇ。」


 水城が笑い転げる。





     ◇ ◇ ◇





 音楽番組。


 Asterismの出番を終えたあと。


 楽屋へ戻る。





「お疲れ。」


 スタッフが差し入れを置いていく。


 弓弦は真っ先にスマートフォンを開いた。




「ほたるちゃん。」


「今日、生配信だ。」


「仕事中だから見られない……。」


 しゅん。


 耳が垂れた大型犬みたいな顔になる。




「……。」


 神崎は黙って、その様子を見ていた。




「弓弦。」


「なに。」


「録画がある。」


「!!」


「アーカイブも残る。」


「神崎……!」




 両手を握る。


「ありがとう!」


「だから。」




 神崎は呆れたように笑う。


「俺に礼を言うな。」






     ◇ ◇ ◇





 夜。


 仕事を終えた弓弦は、ソファへ飛び込んだ。


「よし。」


 アーカイブ再生。




 二時間。


 誰にも邪魔されない至福の時間。


 コメント欄は世界中の言葉で埋め尽くされている。




 英語。


 中国語。


 韓国語。


 スペイン語。


 フランス語。


 日本語。




『Queen.』


『Angel.』


『Love from Brazil.』


『愛してる!』


『ユーインーー!!』




 世界中の人が。


 同じ画面を見ている。


 その中心で笑う少女を見ながら。


 弓弦は静かに微笑んだ。




「……すごいな。」



 日本で出会った頃より。


 ずっと大きくなった。


 ずっと遠い存在になった。


 それでも。



 画面の向こうで笑う姿は、何も変わっていなかった。




「今日も頑張ってる。」



 小さく呟く。



「俺も頑張ろ。」





 スマートフォンの画面へ向かって、小さく笑う。



「世界一のアイドル。」


「ちゃんと見てるから。」




 その言葉を聞く人はいない。



 けれど。


 世界一有名なアイドルを応援するその男もまた、日本を代表するトップアイドルだった。


 そして、そのことに本人だけは、まったく気にしていなかった。








◇◇◇










 ルミエ・エンターテインメント。


 最上階の社長室。


 床から天井まで広がる大きな窓の向こうには、東京の街並みが静かに広がっていた。


 夕焼けが高層ビルを赤く染め、やがて夜へと変わっていく。


 部屋の中は静かだった。


 聞こえるのは、空調の微かな音と。


 スマートフォンから流れる歓声だけ。


 画面の中では、巨大なアリーナを埋め尽くした何万人もの観客が、一人の少女の名前を叫んでいた。


「ユーインーー!!」


「愛してるーー!!」


 無数のペンライトが夜空の星のように揺れる。


 その中央に立つ少女は、誰よりも眩しかった。


 沈雨蛍(シェン・ユーイン)


 かつて、日本で”ほたる”と呼ばれていた少女。


 その姿を眺めながら。


 篠宮誘人は、小さく息を吐いた。




「……はぁ。」



 苦笑にも似たため息。


 画面を指先で止める。


 ちょうど映ったのは、ライブの最後。


 何万人ものファンへ向かって、満面の笑みで手を振るユーインだった。





「これはさ。」




 誰へ向けた言葉でもなく。


 静かな社長室へ、ぽつりと落ちる。




「恩を仇で返してない?」




 返事はない。


 当然だ。


 部屋には自分しかいない。





 それでも、篠宮は小さく笑った。


 思い出す。


 あの日のことを。





     ◇ ◇ ◇




 荷物のなくなったマンション。


 段ボールは運び出され。


 部屋は驚くほど広く見えた。


 玄関先。


 最後の荷物を持ったほたるが、振り返る。




 その顔は、いつもと変わらなかった。


 綺麗な笑顔。


 柔らかく。


 花が咲くような笑顔。





『誘人さん。』


「何?」


『十分、稼いだでしょ?』



 思わず笑ってしまった。



「……誰のおかげで?」



 そう返せば。


 ほたるは肩をすくめる。






『私。』




 即答だった。


 あまりにも堂々としていて。


 篠宮は思わず吹き出す。




「自分で言う?」


『事実だもん。』




 くすくす笑う。






『私、そんなに安くないんだって。』




 悪戯っぽく笑うその顔は。


 デビューしたばかりの頃には見せなかった表情だった。





『だから。』




 ほたるはトランクの持ち手を握り直す。




『これからは、自分の価値は自分で決める。』




 そう言って笑った。





 まるで。


 長い旅へ出かける前のように。




 軽やかに。


 楽しそうに。


 振り返ることなく歩き出した。




 篠宮は、その背中を最後まで見送った。





 引き止めなかった。


 引き止められなかった。


 自分が育てた鳥は。


 とうとう、自分の手を離れて空へ飛んでいった。




     ◇ ◇ ◇




「……面白くない。」




 篠宮はソファへ深く腰掛ける。


 本当に面白くない。


 あれほど従順だった少女が。


 自分の言葉だけを信じていた少女が。


 今では世界中の人々を魅了し、自分の意思で未来を選んでいる。




 少し前の自分なら。


 きっと、その変化を許せなかっただろう。



 けれど。


 不思議だった。


 悔しさの奥で。


 別の感情が静かに育っている。





「……さて。」




 スマートフォンをもう一度再生する。


 画面の中では。


 何万人もの歓声を浴びながら、ユーインが歌っていた。





 誰よりも自由に。


 誰よりも楽しそうに。


 その姿を見つめながら、篠宮は口元だけで笑う。





「君は。」


「どこまで登るんだろうね。」





 世界一で終わるのか。


 それとも。





 誰も見たことのない景色まで辿り着くのか。


 もし、その続きを見られるなら。




 それはきっと。


 退屈しない。





「……面白い。」




 その笑みは穏やかだった。


 執着でも。


 怒りでもない。





 一人のプロデューサーとして。


 自分が育てた最高傑作の、その先を見届けたい。


 そんな複雑な感情だけが、静かに胸に残っていた。





     ◇ ◇ ◇





 そして――。


 それから、二年の月日が流れた。












 あれから、月日が流れた。


 Asterismの冠番組は、今も変わらず続いている。



 歌だけではない。


 バラエティも。


 旅番組も。


 料理も。


 体を張る企画も。


 何でも全力で挑戦する四人組。


 デビュー当時は「大人の色気」を売りにしていた彼らも、今では国民的人気グループと呼ばれる存在になっていた。




 そんな彼らには、冠番組がある。


 その番組の名物企画。


 『Asterism 料理対決』


 メンバー四人が料理の腕を競い、毎回スペシャルゲストが審査員として登場する。


 豪華俳優。


 世界的アスリート。


 人気芸人。


 毎回、誰が来るのか分からないことも人気の理由だった。





     ◇ ◇ ◇





「さぁ!」


 ウェイター姿のMCが、やけに上機嫌でマイクを握る。


「本日も料理対決のお時間ですー!」




 会場から拍手。


 Asterismの四人も席へ座る。




 だが。


 弓弦は違和感を覚えていた。


 ……なんだろう。


 今日のMC。


 やけに機嫌がいい。




 しかも。


 にやにやしている。


 隠そうともしていない。


 むかつくぐらい。


 にやにやしていた。






「今日もですねぇ。」




 MCは意味深に笑う。


「スペシャルゲストが来ています!」


 歓声が上がる。




「えー!」


「誰ー!」



 客席がざわめく。


 だが。


 MCは言わない。




「いやぁ。」


「今日のゲストは本当にすごいですよ?」


「聞きたいですか?」





「聞きたいーー!!」


 観客が叫ぶ。




「えぇ?」


「そんなに?」




 また、にやにや。


 水城が額を押さえた。




「……気持ち悪ぃ。」



 会場が笑う。





「早く発表しろよ。」


「そんな焦らないでくださいよ~。」





 MCは嬉しそうだ。





 黒瀬も笑う。


「今日、テンション高すぎません?」




「だって!」


「僕もさっき知ったんですもん!」





 神崎が苦笑する。


「随分引っ張るな。」






「えぇー。」


「でも皆さんも知りたいですよね?」






「知りたいーー!!」


 客席が一つになる。






 MCはそれでも焦らさない。




「誰だと思います?」


「ヒントは?」


「世界的スターです。」



 どよめきが起こる。






「世界的?」


「まさか……。」


「海外の人?」


「いや、日本人?」



 予想が飛び交う。




 弓弦も自然と背筋を伸ばいていた。





 世界的スター。


 誰だろう。


 最近共演した人だろうか。




「じゃあ。」



 MCが満面の笑みを浮かべる。





「そろそろ。」





 一拍。


「お呼びしましょう。」







 照明が落ちる。


 会場が静まり返る。








「本日のスペシャルゲストです!」


「どうぞーー!!」





 スポットライトがステージ入口を照らした。



 ゆっくり。


 一人の女性が歩いてくる。











 ヒールの音。

   




 さらりと揺れる黒髪。





 上品な白いチャイナドレス。






 その姿を見た瞬間だった。








「…………。」


 弓弦の時間が止まる。






 会場も。


 一瞬だけ息を呑んだ。










 そして。












「きゃああああああ!!」




 割れんばかりの歓声。

  




「ほたるーー!!」


「ユーインーーー!!」


「おかえりーーー!!」






 日本中を、世界中を魅了したトップスター。


 本名、沈雨蛍(シェン・ユーイン)




 そして。


 日本での芸名は――ほたる。


 久しぶりに見るその姿は、少しだけ大人になっていた。





 柔らかな雰囲気はそのまま。


 けれど。


 世界を知った人だけが持つ、自信と余裕がその笑顔に滲んでいる。






 ゆっくりと手を振る。









『皆さん、こんにちは。』





 その声を聞いた瞬間。


 弓弦の胸が、大きく高鳴った。





 いつも見ていた。


 毎日のように。


 画面越しに。


 ライブ配信で。


 世界ツアーで。


 インタビューで。




 それなのに。


 目の前にいる、本物のほたるは。

  

 テレビなんかより、ずっと綺麗だった。

  


 ずっと眩しかった。






 弓弦は、言葉を失う。


 ただ見つめることしかできない。






 そんな弓弦を見て、水城が肘で小さくつつく。



「弓弦。」


「……。」


「魂、戻ってこい。」





 黒瀬が吹き出した。


「完全にフリーズしてる。」






 神崎は呆れたように笑う。


「相変わらずだな。」





 ようやく我に返った弓弦は、慌てて立ち上がる。


「ひ、久しぶり」


 深々と頭を下げる。





 その姿に。


 ほたるは目を丸くした。


 そして。   





 ふわりと笑う。


『お久しぶりです。』



 その一言だけで。

   



 何年という時間が、まるで昨日のことのように溶けていった。





 客席からは、再び大きな拍手が湧き起こる。


 誰もが思っていた。


 ――おかえり。







 その言葉は。


 日本中のファンが、ずっと伝えたかった一言だった。





    


◇◇◇








「それでは、ルールを発表します!」




 MCが勢いよくカードを掲げる。




「いつもと同じ、チーム対決!」


 モニターに大きく映し出された組み合わせに、会場が歓声を上げる。





弓弦・神崎チーム


VS


水城・黒瀬チーム






「よっしゃー!」


 水城がガッツポーズを決める。


「今日は絶対勝つ!」


 


「お前が一番不安なんだけど。」


 黒瀬が冷静に突っ込む。



「失礼だな!」


「前回、包丁持ちながら『これどっちが刃?』って聞いてきたやつが言うな。」


「昔の話!」


 

 スタジオは早くも笑いに包まれた。






 一方。



 弓弦は真剣な顔で腕を組んでいた。


「……。」




 神崎が横を見る。


「どうした。」


「決めた。」


「何を。」


 弓弦は真っ直ぐ答えた。





「今日はタイ料理でいく。」


「……タイ料理?」


「うん。」


「なんで。」





 弓弦は当然だという顔で言う。


「最近、ほたるちゃんタイ料理にハマってるから。」


 神崎が一瞬止まる。


「……。」


「この前の上海の食べ歩き企画。」


「そのあとも雑誌のインタビュー。」


「好きな料理ランキング一位タイ料理。」


「最近はパクチー控えめ。」


「レモン多め。」


「辛さは中辛。」


「海老より鶏肉。」


「デザートはマンゴースティッキーライス。」


「……。」






 神崎は静かに弓弦を見つめた。


「お前。」


「はい。」


「怖い。」


 スタジオ中が爆笑した。





「情報量!」


「全部覚えてる!」


「もう公式スタッフじゃん!」


  

 弓弦は首を傾げる。


「え?」


「ファンなら普通じゃない?」


「普通じゃねぇ!」


 水城が即座にツッコむ。




「世界一詳しいだろ!」





 弓弦は少し照れたように笑う。


「毎日見てるから。」


「毎日?」


「配信も。」


「インタビューも。」


「雑誌も。」


「ライブMCも。」


「SNSも。」


「全部。」


「……。」


 神崎がため息をついた。





「お前の情報網、公安より優秀だな。」


 また大爆笑が起こる。





     ◇ ◇ ◇





「よーし!」



 一方の水城チーム。


 水城が胸を張る。



「俺たちも作戦ある!」




「聞くだけ聞こう。」


 黒瀬が苦笑する。




「ほたるちゃんって昔。」


「激辛好きだったじゃん!」


「だから!」




 水城は勢いよく食材を持ち上げた。


「激辛四川麻婆豆腐!」


「絶対好き!」


  



 黒瀬も手を叩く。


「確かに!」


「恋リアの時も辛いの食ってた!」


「だろ!」


 二人は満足そうにうなずき合った。






 その様子を見ていた弓弦が、小さく手を挙げる。


「はい。」


「ん?」


「それ、多分負ける。」


「……は?」


 水城が振り返る。



「なんで。」


「昔は好きだった。」


「でも。」


「今は違う。」


「……。」


「最近、胃がもたれるから激辛控えてる。」


「配信で言ってた。」


「……。」


「あと。」


「仕事前は刺激物あんまり食べない。」


「……。」


「辛いの食べるなら休日。」


「……。」


「あと麻婆豆腐なら山椒少なめ派。」






 水城と黒瀬がゆっくり顔を見合わせる。


「……。」


「……。」


「怖っ。」


 声がぴったり重なった。


 スタジオ中が笑いに包まれる。









     ◇ ◇ ◇








 一時間後。



 料理が完成する。


 水城チームは真っ赤な麻婆豆腐。


 見るだけで汗が出そうな迫力だった。





 一方。


 弓弦と神崎が作ったのは、彩り豊かなタイ料理。


 ガパオライス。


 トムカーガイ。


 ヤムウンセン。


 そして、小さなマンゴーデザートまで添えられている。





「え、レストランじゃん。」


 MCが思わず声を漏らした。




「いや。」


 黒瀬も苦笑する。


「情報戦すぎる。」






     ◇ ◇ ◇





「それでは試食です!」


 ほたるが席に座る。





 まずは水城チーム。


『いただきます。』



 一口。


 もぐもぐ。


 少し笑う。




『美味しい。』



「よっしゃ!」


 水城が飛び跳ねる。


 

『でも。』


 一拍置く。


『最近、辛いものあんまり食べなくなっちゃった。』




 水城が崩れ落ちた。


「うそだろぉぉ!」


 

 黒瀬が肩を叩く。


「だから言ったじゃん。」


「言ってねぇ!」


   




     ◇ ◇ ◇






 続いて。


 弓弦・神崎チーム。


 一口。




 ほたるの目が少し丸くなる。


『……。』




 もう一口。


 さらに一口。


 フォークが止まらない。





『これ。』



 嬉しそうに笑う。





『最近、一番好きな味。』

 


 会場がどよめく。



『パクチーも、このくらいが好き。』


『レモンも多めで嬉しい。』


『マンゴーまである。』




 ほたるは弓弦を見る。


『弓弦さん。』


「?」


『なんで分かったの?』





 弓弦は照れくさそうに笑った。




「……推しだから。」



 一瞬、静まり返る。





 次の瞬間。


 スタジオ中が爆笑した。





「言い切った!」


「推しって言った!」


「隠さなくなった!」

    





 神崎は呆れながら小さく笑う。


「こいつ。」


「世界一有名なアイドルの。」


「世界一熱心なファンなんです。」





 その紹介に。


 ほたるは肩を震わせながら笑った。




『ふふっ。』


『それ、すごく嬉しい。』




 その一言だけで。


 弓弦は耳まで真っ赤になり、その場で固まってしまった。







◇◇◇







「それでは!」


 MCが高らかにマイクを掲げる。





「勝者、発表です!」





 ドラムロールが流れる。



 観客も一緒になって手拍子を始めた。





 弓弦は落ち着かない。


 隣では神崎が腕を組み、いつも通り無表情だ。





 一方、水城は両手を合わせて祈っている。



「神様ぁぁ……!」



「料理の神様はいねぇよ。」


 黒瀬が呆れる。



「います!」


「どこに。」


「俺の心の中!」


「信用ならねぇ。」




 また笑いが起こる。


 MCは大袈裟に咳払いをした。







「本日の勝者は――!」



 照明が点滅する。






「弓弦・神崎チームです!!」




 スタジオ中が拍手と歓声に包まれた。




「よっしゃーー!」


 弓弦が思わず両手を突き上げる。




 神崎も珍しく小さくガッツポーズ。


「勝ったな。」


「勝ちました!」




 弓弦は子どものように嬉しそうだ。





 水城は机に突っ伏した。


「情報戦に負けたぁぁ……!」


「お前。」



 黒瀬が肩を叩く。


「三年前で止まってた。」


「だって好きだったもん!」



「過去形な。」


「うわぁぁぁ!」


 客席は大爆笑だった。





     ◇ ◇ ◇





「さて。」


 MCがニヤニヤ笑い始める。





 その顔を見た瞬間。


 水城が呟く。




「また始まった。」


「絶対ろくでもねぇ。」




 神崎も嫌な予感しかしない。



「勝者には。」




 MCは一枚のカードを取り出す。


「豪華ご褒美があります!」




「おぉ!」


「今回はですね。」



 わざと間を空ける。





「ほたるさんから。」


「勝利チームへ。」


「頬にキスです!!」


「えええぇぇぇぇぇ!!」





 悲鳴のような歓声。


 弓弦は完全に停止した。




「…………。」



 真っ白。


 思考が追いつかない。





 ほたるも少し驚いている。



『え?』


「はい!」




 MCは満面の笑み。



「お二人ともどうぞ!」


 神崎が静かに立ち上がった。




「では。」



 一歩前へ出ようとした瞬間だった。




 ガシッ。


 肩を掴まれる。




「……。」


 神崎が横を見る。




 弓弦だった。


 ものすごく真剣な顔。




「神崎。」


「なんだ。」


「……行くな。」


「は?」


「お願いだから。」


「行くな。」





 スタジオ中が吹き出した。




「始まった!」


「王子!」


「独占欲!」




 神崎は呆れたようにため息を吐く。


「ルールだ。」


「勝利チーム。」


「二人とも。」


「いや。」




 弓弦は首を横へ振る。



「俺だけでいい。」


「却下。」


「神崎!」


「なんだ。」


「お前。」


「なんだ。」


「今日は辞退して。」


「なぜ。」


「……。」




 弓弦は真顔で答える。





「俺の心がもたない。」




 一瞬静寂。



 次の瞬間。






 スタジオ中が爆笑した。


「正直!」


「本音出た!」


「世界一分かりやすい!」




 黒瀬は笑いすぎて涙が出ている。


「弓弦!」


「落ち着け!」


「相手は仕事だ!」




 水城も腹を抱える。



「いやもう!」


「可愛すぎるだろ!」





 神崎は静かに弓弦を見る。


「一つ聞く。」


「……うん。」


「俺が代わりにもらったら。」


「駄目。」


「即答か。」


「絶対駄目。」


「黒瀬なら。」


「もっと駄目。」


「水城。」


「論外。」


「……。」




 神崎は額を押さえた。


「独占欲が強すぎる。」





 客席からも拍手と笑い。



 そのやり取りを見ていたほたるは。


 口元を押さえながら肩を震わせていた。


『ふふっ……。』




 久しぶりだった。


 こんなに声を出して笑ったのは。


 涙が滲むほど笑っている。




『弓弦さん。』


「?」



 


『そんなに慌てなくても。』

  



 くすくす笑う。


『ちゃんと、チーム全員にしますから。』


「…………。」





 弓弦の顔から血の気が引いた。



「え。」


「え?」



 神崎が笑う。


 珍しく。


 本当に楽しそうに。




「諦めろ。」


「いやだ。」


「仕事だ。」


「いやだ。」


「弓弦。」


「……。」


「大人になれ。」


「無理。」


「即答か。」




 MCは涙を拭きながら笑った。


「こんなにキス一つで番組が盛り上がるとは思いませんでした!」




 その横で。


 ほたるは優しく微笑みながら思っていた。




 世界中を回って。


 たくさんの景色を見てきた。




 けれど。


 この場所だけは。


 何年経っても変わらない。




 笑って。


 ふざけ合って。


 温かくて。


 ――やっぱり、帰ってきてよかった。


 そう心から思えた。












 スタジオ中が笑いに包まれていた。





「弓弦。」


 神崎が静かに肩を叩く。




「……。」


「そろそろ諦めろ。」


「やだ。」


「仕事だ。」


「やだ。」


「全国放送だぞ。」


「それでもやだ。」


「子どもか。」




 水城は椅子から転げ落ちそうになりながら笑っている。


「王子が駄々こねてる!」


「かわいすぎる!」




 黒瀬も涙を拭きながら腹を抱えた。


「もうこれ料理対決じゃねぇ!」




 MCは笑いをこらえながら進行表を見る。


「えー……。」


 肩を震わせる。



「このままだと。」




 一度咳払いをした。


「番組、終われません!」





 スタジオはまた大爆笑。




「確かに!」


「終われない!」


「王子が止めてる!」




 弓弦は真っ赤な顔で両手を振る。


「いや、だって!」


「神崎にキスは!」




「別に俺がしたいわけじゃない。」


 神崎が冷静に返す。




「仕事だ。」


「でも!」


「仕事だ。」


「でも!」


「仕事だ。」


「うぅ……。」


 完全に言い負かされる。





 その様子を見ていたほたるが、小さく笑った。


『ふふっ。』




 優しい笑い声。


 その声だけで、弓弦は反射的に振り向く。





『じゃあ。』


 ほたるがゆっくり立ち上がった。




『このままだと、本当に番組終われないので。』



 そう言って。


 弓弦の前まで歩いてくる。


「……え?」


 距離が近い。




 あと一歩。


 あと半歩。


 弓弦の思考が止まる。


『弓弦さん。』


「は、はい!」


『目、閉じて。』


「…………。」


「え?」


『いいから。』


「…………。」


 言われるまま、ぎこちなく目を閉じる。


 スタジオ中が息を呑んだ。


 ほたるは少しだけ背伸びをする。




 そして。


 そっと。





 弓弦の頬へ唇を寄せた。




 ちゅっ。


 小さな音。




 ほんの一瞬。


 それだけだった。




「…………。」


 弓弦の思考が、完全に停止する。





 ゆっくり目を開ける。


 目の前には、少し照れたように笑うほたる。






『これで、いい?』



 にこっと笑う。


 次の瞬間だった。




「ゆずほたーーー!!」


「きゃあああああ!!」


「おかえりーーー!!」





 スタジオが揺れるほどの歓声。


 観客全員が立ち上がる。




 拍手。


 歓声。


 涙。


 笑顔。




 すべてが入り混じっていた。





 水城はマイクも忘れて叫ぶ。


「帰ってきたーー!!」





 黒瀬も大きく拍手を送る。


「やっぱこの二人最高!」




 神崎は腕を組みながら、小さく笑った。


「……よかったな。」





 その言葉が聞こえたのか。


 弓弦は真っ赤な顔のまま、小さく頷いた。


「……うん。」


 声にならないほど小さな返事。




 頬には、まだキスの温もりが残っている。









 ほたるはそんな弓弦を見て、くすっと笑う。



『相変わらず、可愛い。』



 その一言に。





 弓弦は耳まで真っ赤になって固まった。


「フリーズした!」


「また止まった!」


「王子、再起動してー!」




 スタジオ中が笑いに包まれる。


 エンディングテーマが流れ始める。





 MCが笑顔で前へ出た。





「それでは皆さん!」


「また次回、お会いしましょう!」


「さようならー!」





 鳴り止まない拍手の中。



 ほたると弓弦は顔を見合わせる。



 言葉はない。



 それでも。


 お互いに微笑み合うだけで十分だった。





 あの日、途中で止まってしまった二人の時間は――


 ようやく、また静かに動き始めた。






-END-?

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