71.
⭐︎71.
ほたるが、日本の芸能界から姿を消して。
数か月が過ぎた。
最初の頃は、毎日のように名前が上がっていた。
ほたるは今どこにいるのか。
本当に引退したのか。
体調は大丈夫なのか。
戻ってくる日はあるのか。
けれど、時間は残酷だった。
新しいニュースが流れ。
新しいアイドルが生まれ。
新しい流行が街を染めていく。
それでも。
ほたるを忘れられない人たちは、確かにいた。
日本のファンも。
Asterismのファンも。
そして、弓弦も。
彼女のいない季節を、静かに過ごしていた。
そんなある夜。
上海で、一人の少女が歌った。
きらびやかな照明。
大きなステージ。
無数のカメラ。
観客席から上がるざわめき。
新人紹介枠。
誰も大きな期待などしていなかった。
けれど。
少女がスポットライトの下へ立った瞬間。
空気が変わった。
白い肌。
艶やかな黒髪。
可憐な顔立ち。
まだ十八歳とは思えないほど、静かな存在感。
名前は。
沈雨蛍。
十八歳。
日中ハーフ。
その少女が、一音目を歌った瞬間。
会場から、音が消えた。
美しい声だった。
澄んでいて。
強くて。
どこか祈るようで。
その歌声は、観客の胸を一瞬で掴んだ。
新人とは思えない。
可愛いだけではない。
歌が上手いだけでもない。
そこに立っているだけで、目を離せなくなる。
圧倒的な存在感。
たった一曲。
それだけで、上海の夜は変わった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
中国全土のSNSで、彼女の名前が広がっていた。
沈雨蛍。
ユーイン。
あの子は誰?
新人なのに完成されすぎている。
歌声が綺麗すぎる。
顔が可愛すぎる。
でも、何より。
目が忘れられない。
動画は一夜で拡散された。
上海から北京へ。
広州へ。
香港へ。
台湾へ。
そして、世界へ。
やがてその映像は、日本にも届いた。
最初に反応したのは、ほたるのファンだった。
『待って。』
『この子……。』
『まさか。』
『声が似てる。』
『いや、似てるどころじゃない。』
『ほたるちゃん?』
けれど、画面の中の少女は、中国語で流暢に話していた。
最近まで日本に住んでいたとは思えないほど自然な発音。
柔らかく、けれどはっきりした受け答え。
その姿は、日本で見せていた完璧なアイドル・ほたるとは少し違っていた。
もっと自由で。
もっと正直で。
そして、少し危ういほど真っ直ぐだった。
◇ ◇ ◇
上海の人気番組。
眩しいスタジオライトの下。
MCが笑顔で問いかける。
「你真的太棒了。我们竟然不知道,原来还有这样的明星。」
(本当に素晴らしいですね。こんなスターがいたなんて知りませんでした。)
ユーインは、ぱちりと目を瞬かせた。
そして、にこっと笑う。
「是吧?」
(そうでしょう?)
一瞬、スタジオが静まり。
すぐに笑いが起こった。
MCも思わず吹き出す。
「哈哈,你真诚实。」
(あはは。正直ですね。)
ユーインは悪びれもせず、にこにこしている。
その可憐な顔から出てくる、あまりにも隠さない本音。
それが、視聴者の心を掴んでいく。
MCは笑いながら、さらに問いかけた。
「那我可以问问,你为什么唱歌吗?」
(では、ユーインさんが歌う理由を聞いても?)
ユーインは少しだけ考えた。
そして。
あまりにもあっさりと答えた。
「为了钱。」
(お金のためです。)
スタジオの空気が止まる。
「……啊?」
(……え?)
MCが目を丸くする。
ユーインは真っ直ぐ前を見た。
笑顔ではなかった。
けれど、悲壮感もなかった。
ただ、事実を話すように。
「我妹妹需要做手术。」
(妹の手術費用が必要なんです。)
「所以,我必须唱。」
(だから、私は歌わなきゃいけないんです。)
その瞬間。
スタジオの空気が、静かに変わった。
可憐な見た目。
抜群の歌唱力。
圧倒的な存在感。
そして。
隠しもしない、真っ直ぐな本音。
誰かを助けるために歌う少女。
それを聞いた人々が、彼女に惹かれるのに時間はかからなかった。
その夜。
沈雨蛍の名前は、中国全土でトレンド一位になった。
そして世界は。
新しいスターの誕生を知った。
翌週。
上海テレビ局は、異例の特別番組を放送した。
タイトルは。
『歌姫が歌う理由』
新人アイドル一人のために、ゴールデンタイムで一時間特集。
普通ならあり得ない。
それほどまでに、沈蛍雨という少女は、中国中の人々の心を掴んでいた。
番組は、豪華なステージではなく。
静かな病院の廊下から始まった。
白い壁。
消毒液の匂い。
窓から差し込む柔らかな朝日。
その映像だけで、多くの視聴者は息を呑んだ。
ナレーションが静かに流れる。
「十八歳の少女は、なぜ歌うのか。」
「彼女には、守りたい家族がいました。」
画面が切り替わる。
病室の扉が開く。
そこにいたのは。
テレビで見る華やかなアイドルではなかった。
ラフなパーカー姿。
髪を後ろでひとつに結び。
化粧もほとんどしていない少女。
それでも。
笑うだけで、部屋が明るくなる。
『リンリン、おはよう。』
ベッドの上の少女が、ぱっと笑顔になる。
『お姉ちゃん!』
まだ少し青白い顔。
それでも、その笑顔は太陽みたいだった。
『今日も来たの?』
『毎日来るって約束したでしょ。』
そう言って、ユーインは妹の髪を優しく撫でる。
その仕草は、とても自然だった。
アイドルではなく。
一人の姉だった。
スタッフは、ただ静かにカメラを回す。
誰も声を挟まない。
病室には、姉妹の穏やかな笑い声だけが響いていた。
◇ ◇ ◇
数日後。
番組はさらに大きく動き始める。
上海テレビ局は正式に発表した。
「リンリンさんの心臓移植手術費用について、不足分は当局も全面的に支援します。」
スタジオ中が拍手に包まれた。
さらに。
その後の経過も、本人と家族の了承を得たうえで継続的に取材すると発表した。
理由は一つ。
「彼女の夢を、一緒に応援したいから。」
その映像は、中国だけでは終わらなかった。
動画サイトへ投稿される。
一日で数千万回再生。
二日目には、世界中へ。
英語。
フランス語。
スペイン語。
韓国語。
日本語。
何十もの字幕が付き、人から人へ広がっていく。
『この子を応援したい。』
『妹のために歌うなんて泣ける。』
『本当に十八歳?』
『こんなに美しい心の人がいるんだ。』
コメントは止まらなかった。
◇ ◇ ◇
そして。
数か月後。
アメリカ。
手術当日。
病院の廊下。
ユーインは、何時間も手術室の前で座っていた。
膝の上で、両手をぎゅっと握る。
歌番組でも。
授賞式でも。
世界中の何万人の前でも緊張しなかった少女が。
この日だけは違った。
唇を噛み締め。
ただ、祈り続ける。
『求求您……。』
(お願い……。)
小さく呟く。
『请把铃铃还给我。』
(リンリンを、返してください。)
その姿を、カメラは遠くから静かに映していた。
やがて。
長かった扉が開く。
執刀医がマスクを外す。
ユーインは勢いよく立ち上がった。
『医生……!』
(先生……!)
医師はゆっくり微笑む。
「手术很成功。」
(手術は成功しました。)
その一言だった。
ユーインの目から、大粒の涙があふれた。
『铃铃……!』
(リンリン……!)
その名前を呼んだ瞬間。
堪えていたものが一気に溢れ出す。
泣きながら笑う。
何度も何度も頷く。
『太好了……。』
(よかった……。)
『真的……。』
(本当に……。)
『太好了……!』
(よかったぁ……。)
その映像は、世界中へ生中継された。
美しい十八歳の少女が。
一人の姉として泣く姿。
それを見て、多くの人が涙した。
SNSには。
『手術成功おめでとう。』
『リンちゃん、本当によかった。』
『ユーイン、お疲れさま。』
祝福の言葉が溢れ続けた。
それからインユーは、以前にも増して歌い続けた。
まるで恩返しをするように。
上海の街で。
中国中のステージで。
やがて。
ドラマへ。
映画へ。
活動の場を広げながら。
少女は、世界のトップスターへの階段を、一歩ずつ静かに駆け上がっていった。
ユーイン。
その名前は、もう中国だけのものではなくなっていた。
上海。
北京。
広州。
香港。
アジアツアーは、どの会場も即日完売。
歌番組へ出演すれば、翌日には再生回数が何千万回を超える。
ドラマは最高視聴率を更新し。
映画は興行収入一位。
雑誌の表紙を飾れば、その号はすべて完売した。
誰もが口を揃えて言う。
「この子は、本物だ。」
歌が上手い。
演技もできる。
美しい。
可愛い。
それだけではない。
スタッフ一人ひとりへ頭を下げる姿。
共演者を立てる気遣い。
ファンへ向ける笑顔。
そのすべてが自然だった。
だから、人は惹かれる。
アイドルとしてではなく。
一人の人間として。
◇ ◇ ◇
そんなある日。
一本の記事が世界を駆け巡った。
『ユーインの正体は、日本の元トップアイドル・ほたるだった。』
最初は噂だった。
だが。
日本で活動していた映像。
歌声。
癖。
仕草。
次々と検証されていく。
そして。
ルミエ・エンターテインメントも、中国側の事務所も正式に発表した。
ユーインと、ほたるは同一人物であること。
芸名を本名に変え、中国で新たなスタートを切ったこと。
その瞬間だった。
世界中のSNSが揺れた。
『だから歌が上手かったんだ!』
『日本にこんなスターがいたの!?』
『鳥肌が止まらない。』
『ますます好きになった。』
一方、日本でも。
朝から特番が組まれるほどの騒ぎになった。
「やっぱ、ほたるちゃんだったの!?」
「世界で活躍してたなんて!」
「応援しててよかった!」
驚きよりも。
喜びの声の方が圧倒的に多かった。
◇ ◇ ◇
数日後。
中国最大級の音楽番組。
生放送。
司会者が笑顔でマイクを向ける。
「最后,请对一直支持你的日本粉丝说一句话吧。」
(最後に、日本でずっと応援してくれているファンの皆さんへ、一言お願いします。)
スタジオが静まり返る。
ユーインは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
そして。
ゆっくり微笑む。
まず、中国語で話し始める。
『能够站在今天这个舞台上,是因为日本的粉丝一直支持着我。』
(今の私がこの舞台に立てているのは、日本のファンの皆さんがずっと支えてくれたからです。)
『真的,非常感谢。』
(本当に、ありがとうございます。)
そこで一度。
ユーインはカメラを真っ直ぐ見つめた。
そして。
今度は流暢な日本語で話し始める。
『今の私があるのは、日本のファンの皆さんのおかげです。』
その瞬間。
日本中が息を呑んだ。
久しぶりに聞く。
ほたるの日本語だった。
少しだけ照れたように笑う。
「ありがとう。」
「ずっと、愛してくれて。」
その瞳が少しだけ潤む。
けれど。
涙は見せない。
アイドルらしく。
世界中を包み込むように微笑んだ。
『私も。』
一拍置く。
『みんなのこと。』
『愛してるーーー!』
満面の笑顔。
スタジオは大歓声に包まれる。
拍手。
歓声。
口笛。
誰もが立ち上がり、その言葉へ応えた。
◇ ◇ ◇
放送終了から数分。
SNSは爆発した。
『ほたる、おかえり!』
『泣いた。』
『ずっと待ってた。』
『世界一になっても、日本のこと忘れてなかった。』
『やっぱり私たちのアイドルだ。』
世界トレンド、一位。
日本トレンド、一位。
中国トレンド、一位。
動画は一時間で一億回再生を突破する。
もう。
誰も疑わなかった。
ほたるは。
ユーインは。
世界のトップアイドルへの階段を、誰にも止められない速さで駆け上がっていた。




