70.
⭐︎70.
アクセルを踏み込む。
レナの車は、朝の街を駆け抜けていた。
何本も鳴る着信音。
助手席へ放り投げたスマートフォンの画面には、会社の名前が何度も表示されている。
――ルミエ・エンターテインメント。
着信は止まらない。
けれど。
レナは一度も手を伸ばさなかった。
今さら何を言われても構わない。
担当変更。
事後報告。
ほたるの引退発表。
全部。
マネージャーである自分だけが知らされていなかった。
「……ふざけないでよ。」
小さく呟く。
胸の奥で、怒りが静かに燃えていた。
新人の頃から担当してきた。
売れない時代も。
地方営業も。
寝る時間もない毎日も。
一緒に走ってきた。
誰よりも近くで見てきた。
その子の人生を左右する決断を。
自分はニュースで知った。
そんなことが、あっていいはずがない。
スマートフォンが、また震える。
着信。
着信。
また着信。
ようやくレナはスピーカーへ切り替えた。
『九鬼!!』
上司の怒鳴り声が車内へ響く。
『どこにいる!』
「移動中です。」
『新しい担当先へ行けと言っただろ!』
「行きません。」
一瞬、電話の向こうが静かになる。
『……は?』
「今日だけは。」
ハンドルを握る手に力が入る。
「仕事を放棄します。」
『何言ってるんだ!』
「好きにしてください。」
『減給どころじゃ済まないぞ!』
「構いません。」
信号が青へ変わる。
車は再び走り出した。
「新しいタレントも大切でしょう。」
「でも。」
レナは真っ直ぐ前を見る。
「私にとっては。」
「ずっと一緒に戦ってきた、ほたるの方が大切です。」
『九鬼ィ!!』
叫び、だけを残して、通話を切る。
静寂が戻る。
「……もう。」
小さく笑う。
「どうにでもなれ。」
◇ ◇ ◇
車は住宅街へ入る。
高級マンションが並ぶ街ではない。
静かな昔ながらの住宅街。
その一角に建つ、築年数を感じるマンション。
ほたるは売れてからも、この場所を離れようとしなかった。
妹と過ごした思い出があるから。
レナは知っている。
駐車場へ車を停めると、急いで階段を駆け上がった。
三階。
見慣れた扉の前。
「……。」
ポケットから合鍵を取り出す。
鍵を差し込もうとした、その時だった。
カチャ。
扉が、少しだけ動いた。
「……え?」
鍵は掛かっていなかった。
レナは思わずため息をつく。
「もう。」
「開けっ放しじゃない。」
「何年言えば分かるのよ。」
そっと扉を押し開ける。
「ほたる?」
返事はない。
静かな部屋。
いつもならソファで寝転がっているのに。
今日は違った。
「……。」
一歩、部屋へ入った瞬間。
レナは立ち止まる。
そこには。
何十個もの段ボール箱が積まれていた。
壁際にも。
廊下にも。
リビングにも。
引っ越し業者の箱が並んでいる。
「……引っ越し。」
その一言だけで、全部理解してしまった。
もう。
決めたんだ。
ほたるは。
篠宮誘人の手を取ることを。
胸の奥が締め付けられる。
「なんでよ……。」
小さく漏れる。
リビングの奥。
ほたるは床へ座り、静かに荷造りをしていた。
振り向きもしない。
ただ、黙々と。
一つひとつ、丁寧に箱へ詰めている。
もともと物は少ない。
ブランド品にも興味がない。
服も最低限。
だから荷物は多くない。
それでも。
手だけは止まらなかった。
アルバム。
妹が描いた絵。
色あせた折り紙。
小さなぬいぐるみ。
どれも壊れないよう、そっと新聞紙へ包んでいく。
その姿が、余計に苦しかった。
「……なんで。」
レナの声が震える。
「なんでよ、あんた。」
ほたるは何も答えない。
「好きじゃないでしょう。」
「社長のこと。」
沈黙。
「なんで、そうやって。」
一歩近付く。
「自分を犠牲にするのよ!」
返事はない。
「なんで!」
レナの声だけが部屋へ響く。
悲しかった。
悔しかった。
目の前の少女は。
いつも。
誰かのために、自分を差し出してしまう。
妹のため。
仕事のため。
ファンのため。
そして今度は。
誰のために。
人生まで差し出そうとしているの。
レナは堪えきれず叫んだ。
「諦めるんじゃないわよ!」
「お金が必要なら!」
「もっと他に道があるでしょう!?」
「一緒に考えるから!」
「少しは周りを頼りなさいよ!!」
その言葉に。
荷造りをしていた手が、ぴたりと止まった。
“頼る”
その一言だけに。
ほたるは、小さく反応した。
ゆっくり。
本当にゆっくりと顔を上げる。
整った顔立ち。
誰もが憧れる、美しいアイドル。
その瞳だけが、どこか遠くを見ていた。
レナは涙をこらえながら続ける。
「もっと、もがきなさいよ!」
「もっと!」
「諦めないの、得意じゃない!」
「だったら最後まで足掻きなさいよ!」
声が震える。
「もっと夢を見せなさいよ!」
「……あんた。」
「アイドルでしょ!!?」
静かな部屋。
ほたるは何も言い返さない。
ただ。
じっとレナを見つめていた。
その視線は穏やかで。
どこか優しかった。
レナは涙をぬぐうこともせず、小さく笑う。
「私はね……。」
息が詰まる。
「もっと見たかった。」
「あんたが。」
「もっと、もっと上へ昇っていく姿を。」
一緒に笑って。
一緒に泣いて。
隣で。
ずっと。
見ていたかった。
『……。』
その言葉を聞いたほたるは、小さく息を呑んだ。
そして。
ふわりと。
花が咲くように微笑んだ。
『……だったら。』
静かな声。
『一緒に来る?』
あまりにも穏やかな、その一言。
けれど。
それは。
何かを諦めた人間の声ではなかった。
まるで。
新しい未来へ手を差し伸べるような。
そんな笑顔だった。




