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あの日のスピカ。  作者: ツユクサリヒト


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69.




⭐︎69.






     ◇ ◇ ◇




 その日の夕方。


 アステリア・プロダクション社長室。




 大きな窓から夕日が差し込み、部屋全体を茜色に染めていた。


 静かな空間。


 壁に掛けられた時計だけが、規則正しく時を刻んでいる。




 コンコン。


 控えめなノックの音。




「失礼します。」


 阿久津が一礼して部屋へ入る。




 ソファでは、御影沙織が書類へ目を通していた。


 顔を上げると、柔らかく微笑む。




「お疲れさま。」


「お疲れさまです。」



 阿久津はソファの前まで歩み寄ると、軽く頭を下げた。


 沙織は手元の書類を閉じる。




「それで。」


 少し身を乗り出した。




「レナさんとは?」



 阿久津は静かに頷く。



「話がつきました。」




 その一言に、沙織はほっと息をつく。




「そう。」


「よかった。」



 だが、阿久津の表情はどこか苦笑していた。


 その微妙な空気に気付き、沙織が首を傾げる。




「……どうしたの?」



 阿久津は少し言いづらそうに視線を落とした。




「実は。」


「ほたるさん本人は、最初は断ったそうです。」


「やっぱり。」


 沙織は小さく呟く。




 驚きはなかった。


 むしろ、その方が彼女らしいと思う。


 あの子はそういう人間だ。


 誰かに助けてもらうことより、自分が耐えることを選ぶ。


 迷惑を掛けるくらいなら、一人で背負い込む。


 そんな不器用な少女。




「理由は?」



 静かに尋ねる。


 阿久津は答えた。




「『そんなことしなくていいです。』」


「『皆さんのお金は、皆さんのために使ってください。』」


「『リンは私が助けます。』」


 その言葉を聞き、沙織は目を閉じた。




「……あの子らしい。」



 本当に。


 どこまでいっても、自分のことは後回し。


 だからこそ、放っておけない。




「それで?」




 阿久津は思わず苦笑した。


「レナさんが、一時間説得したそうです。」


「一時間?」


「はい。」




「『誰かに頼ることは悪いことじゃない。』」


「『助けてもらったら、その分、いつか誰かを助ければいい。』」


「『それが助け合いでしょう。』」


「『あんた一人で全てを背負う必要なんかない。』」


「……。」


「『世界には、あんたを助けたい人がこんなにいるのよ。』」


「……。」


「『少しは信じなさい。』」




 部屋が静かになる。


 夕焼けだけが、ゆっくりと色を深めていた。




 沙織は想像してしまう。


 頑固なほたると。


 それ以上に頑固なレナ。


 きっと、お互い一歩も譲らなかったのだろう。




 沈黙のあと。


 阿久津は少し笑った。




「最後には。」


「レナさんが。」



 その時の口調を思い出すように続ける。




「『いいから、よろしくお願いしますって言いなさい。』」


「そう言ったそうです。」




 沙織は吹き出しそうになる。




「それで?」


「ほたるさんは、しばらく黙っていたあと。」


「小さく。」


「『……よろしくお願いします。』」


「そう言ったそうです。」




 一瞬、社長室は静まり返った。


 そして。


 沙織は堪えきれず、小さく笑った。



「ふふっ。」


「……。」


「それ。」



 笑いを堪えながら言う。




「もう、言わせてるじゃない。」



 阿久津も口元を緩める。


「私も同じことを思いました。」


「レナさんらしいですね。」


「ええ。」


 沙織は優しく微笑む。




「きっと。」


「あの子にとって唯一、遠慮なく怒鳴ってくれる人間なんでしょうね。」



 ほたるにとって。


 マネージャーではなく。


 姉のような存在。



 だからこそ。


 あそこまで本気で叱り、本気で支えられる。



 沙織は窓の外へ目を向けた。


 夕日が静かに沈んでいく。




「よかった。」


 ぽつりと呟く。




「あの子には、一人じゃないって教えてくれる人がいて。」


 その言葉に。


 阿久津も静かに頷いた。





 沙織は思い出したように呟く。


「条件は提示されなかった?」


「はい。」


「一つだけ条件があります。」


「条件?」


「リンさん本人や病状について、必要以上に公表しないこと。」


「募金の目的だけを伝える。」


「そして、ほたるさん本人が望まないことはしない。」




 沙織はゆっくり頷いた。



「当然ね。」




 少し微笑む。


「あの子らしい。」




「それで。」


「弓弦は?」


「まだ知りません。」


「正式に許可が下りたら伝える予定です。」





 沙織は窓の外を眺めた。


「優しい子ね。」


「え?」


「弓弦も。」


「ほたるちゃんも。」


「どちらも、自分のことは後回し。」


「似た者同士なのかもしれないわ。」




 阿久津も、小さく笑った。


「そうですね。」





     ◇ ◇ ◇





 そして迎えた。


 Asterism全国ライブツアー。


 開演前。


 いつもなら暗転と同時に始まるライブ。


 だが、その日だけは違った。




 スポットライトが一本だけ、センターステージを照らす。


 静まり返る会場。





「……?」


「何だろう。」



 ざわめく数万人のファン。


 その中央へ。




 ゆっくりと歩いてきたのは弓弦だった。


 歓声が上がる。




 けれど今日は、その歓声に応えず。






 ライブは、大成功だった。


 いつも以上に熱く。


 いつも以上に温かかった。



 募金の発表があったにもかかわらず、会場の空気が重くなることはなかった。


 むしろ。


 ファンの歓声は、いつもより力強かった。




「弓弦ーー!!」


「アステーー!!」


「頑張れーー!!」



 赤。


 青。


 黄色。


 ピンク。


 四人のメンバーカラーが、客席いっぱいに揺れている。


 その光景を見ながら。




 弓弦は、ライブ中に何度も思っていた。


 ――すごいな。




 こんなにもたくさんの人が、自分たちを応援してくれている。




 歌を聴きたいと。


 笑顔になりたいと。


 会いに来てくれている。


 だから。


 今日は、自分も誰かの力になりたかった。





     ◇ ◇ ◇




 終演後。


 出口付近に設置された募金箱の前には、長い列ができていた。


「少しだけだけど。」


「応援してます。」


「絶対、元気になってね。」



 親子連れ。


 学生。


 仕事帰りの会社員。


 年配の夫婦。


 誰もが立ち止まり、募金箱へ気持ちを入れていく。


 スタッフの目には、涙が浮かんでいた。




「……こんなこと、初めてですね。」


 小さく呟くスタッフへ。


 阿久津は静かに頷いた。




「ええ。」


「Asterismらしい。」



 その光景を少し離れた場所から見ていたレナは、思わず口元を押さえる。


 予想を遥かに超えていた。


 こんなにも多くの人が。


 名前も知らない六歳の女の子のために。


 財布を開いてくれる。


 優しさを分けてくれる。




「……よかった。」



 誰に向けた言葉なのか。


 自分でも分からなかった。





     ◇ ◇ ◇






 その日だけでは終わらなかった。


 二日目。


 三日目。


 一週間。




 全国を巡るたびに。


 募金箱の中身は、少しずつ増えていく。


 ライブへ来られなかったファンからも、




「何か力になりたい。」



 そんな声が事務所へ届いた。


 公式サイトには支援窓口が設けられ。


 SNSでは、

  



『#リンちゃん頑張れ』


 という言葉が自然と広がっていった。




 その中心には。


 いつも弓弦がいた。


 ライブの最後。


 必ずマイクを持つ。




「今日も、本当にありがとうございました。」



 深く頭を下げる。




「皆さんの優しさは、必ず届きます。」


「ありがとうございます。」




 何度も。


 何度も。


 頭を下げ続けた。




 その姿に。


 ファンはさらに心を動かされた。




「王子、変わったよね。」


「うん。」


「最近、すごく人間らしい。」


「恋をしたからかな。」


「もっと好きになった。」




 そんな声が、客席から聞こえてくる。


 恋をして。


 恋を失って。



 それでも。


 誰かを恨むことなく。


 誰かの幸せを願っている。



 そんなセンターを。


 ファンは、以前よりもっと好きになっていた。




     ◇ ◇ ◇




 ツアーファイナル。


 全国ツアー最後の日。


 終演後。




 スタッフルームには、大きな拍手が響いた。




「集計、終わりました!」



 一人のスタッフが、興奮した声で封筒を持ってくる。


 阿久津が金額を見る。


 一瞬。


 目を見開いた。





「……。」


「阿久津さん?」



 神崎が覗き込む。


 水城も。


 黒瀬も。


 弓弦も集まる。


 阿久津は静かに笑った。




「……予想を、大きく超えました。」



 ライブ売上の一〇%。


 そして。


 全国のファンから寄せられた募金。




 その総額は。


 誰も予想していなかったほど、大きな金額になっていた。




「すげぇ……。」


 水城が思わず声を漏らす。




「ファンのみんな、本当にすごいな。」


 黒瀬も感心したように頷く。




 弓弦は、その数字を見つめながら、小さく笑った。


「これなら……。」


「リンちゃんの力に、少しはなれるかな。」




 阿久津は封筒を閉じる。


「レナさんへ、お渡しします。」


「お願いします。」



 弓弦は深く頭を下げた。


 そして。




 ライブ終演後の囲み取材。


 記者から質問が飛ぶ。




「御影さん。」


「募金活動は、今回のツアー限定ですか?」



 弓弦は少しだけ考えた。


 そして。


 穏やかに微笑む。


「いいえ。」


 静かな声だった。


「この募金は、終わりません。」


 記者たちが顔を上げる。


「あの子が。」


 一度だけ空を見上げる。




「『もう大丈夫です。』って言う、その日まで。」



 優しく笑う。





「僕たちは続けます。」



 その笑顔は、眩しかった。


 誰かを守りたいと願う人の笑顔だった。





「レナさんに伝えてください。」



 一呼吸置く。


「『もういらないって言うまで続けます。』って。」


 真っ直ぐ前を見る。




 その姿は。


 まさにAsterismを引っ張るセンターだった。




 会場の外では。


 ファンが、もう一度大きな拍手を送っていた。







 それから、しばらくして。


 募金活動は、Asterismのライブだけでは終わらなかった。


 公式サイトには専用ページが設けられ、ライブに来られなかったファンからも支援が届き続けた。


 手紙。


 折り鶴。


 小さなイラスト。




 「頑張ってね」と書かれた幼い文字。


 募金箱を開けるたび、その中にはお金だけではなく、人の優しさまで詰まっているようだった。





 レナは、その箱を受け取るたびに思う。


 ――ほたる。


 あなた、こんなにもたくさんの人に愛されてるのよ。




 そして。


 その中心には、いつも弓弦がいた。




 インタビューを受けても。


 ライブでコメントを求められても。


 決して自分のことは話さない。




「僕たちにできることは多くありません。」


「だから、一人でも多くの人へ、この活動を知ってもらえたら嬉しいです。」




 ただ、それだけを繰り返した。


 その真っ直ぐな姿勢に、人はまた心を動かされていく。




 Asterismというグループは。


 いつの間にか、歌やダンスだけではなく、人柄まで愛されるグループになっていた。




     ◇ ◇ ◇




 そんな、ある日の朝だった。


 まだ空気の冷たい早朝。




 弓弦は、いつものようにコーヒーを片手にテレビをつけた。


 ニュース番組。


 芸能コーナーが始まる。




『続いてのニュースです。』




 何気なく見ていた視線が止まる。


 画面いっぱいに映し出されたのは。




 ほたるだった。



「……。」


 嫌な予感がした。




『国民的人気アイドル・ほたるさんが、本日付で芸能界を引退することを所属事務所が発表しました。』




「……え?」




 コーヒーカップが、机の上で小さく音を立てる。




『突然の発表に、ファンからは驚きの声が広がっています。』


『引退理由については「本人の強い希望」とのみ発表されており、詳細は明らかになっていません。』



『今後の取材には応じないとしています。』






 意味が分からなかった。


 引退?



 誰が?


 ほたるが?



「……うそ。」




 立ち上がる。


 何度もニュースを見返す。




 画面の文字は変わらない。


 芸能界引退。



 その四文字だけが、何度見ても現実だった。





     ◇ ◇ ◇





 アステリア・プロダクション。


 楽屋へ飛び込んだ弓弦は、真っ先に阿久津を探した。




「阿久津さん!」


「御影さん。」


「ニュース!」



「見ました。」


「どういうことですか!」




 阿久津は静かに首を横へ振る。


「私にも詳細は届いていません。」


「そんな……。」




 弓弦は息を切らしたまま言う。


「レナさん。」


「連絡先、教えてください。」





 阿久津は一瞬だけ迷った。


 だが。


 黙って一枚の名刺を差し出す。




「ありがとうございます。」


 弓弦はすぐに電話を掛けた。





 一回。


 二回。


 三回。


 長い呼び出し音。


 ようやく電話が繋がる。





『……もしもし。』



 レナだった。


 けれど。




 その声には、いつもの余裕がなかった。


 息が上がっている。


 どこか焦っている。




「レナさん!」


『弓弦くん?』


「ニュース、本当ですか?」


 数秒の沈黙。




『……それが。』



 レナの声が震える。


『私も、さっき出社して初めて知ったの。』


「え……?」


『朝、会社へ行ったら。』


『急に担当変更を言い渡されて。』




『今日から、ほたるの担当を外れるって。』



 弓弦は言葉を失った。


「そんな急に……?」


『理由も教えてもらえない。』


『引退の話も、何も聞いてなかった。』

  





 その声からは混乱が伝わってくる。


『今から。』



 一度だけ息を整える。


『ほたるに直接会いに行く。』




「……。」


『本人に聞くしかない。』


 その決意だけは揺るがなかった。




『何か分かったら、連絡する。』


「お願いします。」


『じゃあ。』




 短く通話は切れた。


 スマートフォンを握ったまま、弓弦は動けなかった。





 胸の奥で。


 どうしようもない不安だけが、ゆっくりと大きくなっていく。




 窓の外では。


 朝の青空が、どこまでも静かに広がっていた。

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