7.
⭐︎7.
京都の夜は、東京とは少し違う。
大通りを一本外れれば、石畳が静かに月明かりを照り返し、格子戸の並ぶ町家からは柔らかな灯りが漏れていた。
昼間は多くの観光客で賑わう街も、夜になるとどこか落ち着いた表情を見せる。
そんな街並みの一角。
看板もほとんど出ていない、小さなバー。
知る人ぞ知る店。
芸能人や映画監督、舞台役者たちが、人目を避けて利用する隠れ家だった。
今夜は、その店が貸し切りになっている。
時代劇ドラマの撮影が一段落した記念の打ち上げだった。
「いやぁ、今日も疲れたなぁ。」
「京都来てから毎日濃すぎるよ。」
「殺陣だけで筋肉痛なんだけど。」
スタッフたちの笑い声が店内へ響く。
木の温もりを感じる店内。
照明は少し暗めで、オレンジ色の灯りがグラスの中の琥珀色を美しく照らしている。
カウンターの奥ではバーテンダーが静かにシェイカーを振り、心地よい氷の音が耳に届く。
撮影中の緊張感とは違う。
皆、肩の力を抜いた穏やかな空気だった。
◇◇◇
「おい、水城。」
「はいはい?」
「飲みすぎるなよ。」
神崎がグラスを片手に苦笑する。
最年長。
Asterismのリーダーとして、普段からメンバーのまとめ役を務める男だ。
「分かってるって。」
水城は軽く笑う。
「今日はまだ一杯目。」
「その台詞、毎回聞く。」
黒瀬が呆れたように肩を竦めた。
「宗真の”まだ一杯目”は信用できねぇ。」
「失礼だなぁ。」
三人の軽快なやり取りに、周囲のスタッフも笑う。
その少し離れた席では。
弓弦が、スマートフォンを何気ない顔で見ていた。
表情はいつも通り。
雑誌で見る”王子様アイドル”そのもの。
背筋は伸び、姿勢も綺麗。
脚を組む仕草まで絵になる。
だが。
(……まだかな。)
心の中だけは落ち着かない。
(来るよな。)
(監督、主演全員参加って言ってたし。)
(来るよな……。)
画面を見るふりをして、何度も入口へ視線が向く。
気付かれない程度に。
本当にさりげなく。
「弓弦。」
神崎が酒を口に運びながら声を掛けた。
「さっきから入口ばかり見てるな。」
「……見てないけど?」
「見てる。」
「見てるな。」
黒瀬も笑う。
「三分に一回。」
「数えてたの?」
「暇だから。」
水城が吹き出した。
「主演女優待ち?」
「違う。」
即答だった。
「偶然。」
「入口が気になるだけ。」
「へぇ。」
三人の返事は見事に揃う。
「嘘だ。」
弓弦は小さくため息をついた。
「……お前ら。」
「なんだよ。」
「人聞き悪い。」
「十分聞いた。」
「顔に書いてある。」
神崎が肩を竦める。
「“まだ来ないかな。“って。」
「書いてねぇよ。」
「書いてる。」
そのやり取りにスタッフまで笑い始めた。
「仲いいですねぇ。」
「いつもこんな感じですよ。」
神崎が苦笑する。
その時だった。
店の扉が静かに開いた。
──カラン。
小さなベルの音。
自然と店内の視線が入口へ集まる。
『遅れてすみません……!』
明るく、それでいてどこか申し訳なさそうな声。
ほたるだった。
一歩、店内へ足を踏み入れる。
その瞬間。
店の空気がふっと柔らかく変わったような気がした。
撮影で見慣れた豪華な着物姿ではない。
白いワンピース。
膝下まで流れる柔らかなスカートが歩くたびに揺れる。
胸元には小さなリボン。
アクセサリーは耳元の小ぶりなパールだけ。
飾り立てていない。
それなのに。
誰よりも目を引いた。
肩まで伸びた黒髪はゆるく巻かれ、艶やかに光を受けている。
透き通るような白い肌。
撮影終わりとは思えないほど疲れを感じさせない笑顔。
「かわいい……。」
誰かが思わず呟いた。
それは男性スタッフだったのか。
女性スタッフだったのか。
分からない。
けれど、多くの人が同じことを思っていた。
弓弦はというと。
一瞬だけ息を呑んだ。
(……私服。)
思考が止まる。
(ドラマじゃない。)
(衣装じゃない。)
(オフの服……。)
白が似合う。
こんなにも白が似合う人がいるのか、と本気で思った。
華美ではない。
ブランドロゴも見当たらない。
それでも、目を奪われる。
(かわ……。)
危ない。
危ない危ない。
顔に出すな。
御影弓弦。
お前はトップアイドルだ。
今ここで口を開けば、
『かわいい。』
その一言しか出てこない。
ぐっと表情を引き締める。
その横で。
水城が小さく肩を震わせた。
「宗真。」
神崎が低い声で制する。
「笑うな。」
「いや……。」
水城は口元を押さえたまま必死に耐えている。
「弓弦、今、絶対フリーズした。」
「したな。」
黒瀬も小さく笑う。
「一回、魂抜けてた。」
「聞こえてる。」
弓弦は前だけを向いたまま答える。
「俺は普通。」
「普通の人は三秒固まらない。」
神崎が淡々と言う。
「……数えてたの?」
「癖だ。」
そんなやり取りをしている間にも、ほたるはスタッフ一人ひとりへ丁寧に頭を下げていた。
『本当に遅れてしまって、ごめんなさい。』
『宿に温泉が付いていたので、少しだけ入ろうと思ったら……。』
困ったように笑う。
『気付いたら時間がぎりぎりで。』
『皆さんをお待たせしてしまいました。』
「全然大丈夫!」
「まだ始まったばっかりだから!」
「気にしないで!」
誰も責める人はいない。
むしろ、その律儀さに微笑む人ばかりだった。
監督が空いている席を見る。
「あ、ほたるちゃん。」
「そこ。」
「弓弦くんの隣ね。」
「主演同士だし。」
『はい。』
ほたるは素直に頷く。
そして弓弦の隣まで歩いてくる。
ふわり、と。
甘すぎないシャンプーの香りが漂った。
『失礼します。』
静かに椅子を引き、腰を下ろす。
その距離は、撮影中よりもずっと近かった。
肩が少し動けば触れそうなくらい。
弓弦は静かに息を吐く。
落ち着け。
仕事では何度も隣に立った。
何度も目を合わせた。
それなのに。
私服で。
自然な笑顔で。
「失礼します」と隣へ座られるだけで、こんなにも心臓がうるさいなんて。
知らなかった。
店員が次々と料理を運び始める。
湯気の立つ京野菜の前菜。
香ばしく焼き上げられた魚料理。
色鮮やかなローストビーフ。
木のテーブルは、あっという間に華やかな料理で埋め尽くされた。
それと同時に。
店員が一人ひとりの前へ飲み物を並べていく。
ビール。
ハイボール。
ワイン。
カクテル。
思い思いのグラスが並ぶ中。
ほたるの前へ置かれたのは、氷の浮かんだ烏龍茶だった。
透明なグラスを両手で包むように持ち、小さく笑う。
『ありがとうございます。』
その何気ない仕草まで、どこか品がある。
撮影中も思っていた。
この子は、不思議なくらい「作っている感じ」がしない。
笑顔も。
仕草も。
礼儀正しさも。
全部が自然だった。
「それじゃあ!」
監督が立ち上がる。
「ここまでの撮影、本当にお疲れ様でした!」
「まだまだ先は長いですけど、まずは前半戦、お疲れ様!」
グラスが一斉に持ち上がる。
「「「乾杯!!」」」
カチン。
心地よい音が店内へ響いた。
笑い声が広がる。
料理へ箸が伸び始める。
ようやく打ち上げらしい空気になった、その時だった。
「ほたるちゃん。」
向かいに座っていた年配のスタッフが、笑顔でビール瓶を持ち上げた。
「一杯くらい飲める?」
『えっ。』
ほたるは目をぱちぱちと瞬かせる。
『あ……。』
断ろうと口を開きかけた、その瞬間。
「すみません。」
穏やかな声が間へ入った。
自然だった。
あまりにも自然すぎて、その場にいた誰も違和感を覚えないほどに。
弓弦だった。
スタッフへ柔らかく微笑みながら言う。
「ほたるちゃん、まだ未成年なんです。」
「あっ。」
スタッフが目を見開く。
「しまった!」
「ごめんごめん!」
「そうだった!」
慌ててビール瓶を下ろす。
「危ない危ない。」
「すまん!」
『いえいえ!』
ほたるは慌てて首を横へ振った。
『お気になさらないでください。』
『私も何も言えなくて……。』
『ごめんなさい。』
謝らなくていい場面なのに。
真っ先に自分も悪かったと言える。
そんな性格なのだろう。
その様子を見ていたスタッフたちも苦笑した。
「真面目だなぁ。」
「ほたるちゃんらしい。」
「ほんといい子。」
和やかな笑いが起こる。
そんな中。
ほたるは隣へそっと顔を向けた。
弓弦にだけ聞こえるくらい、小さな声で。
『……ありがとうございます。』
一瞬だった。
けれど。
その声は確かに弓弦へ届いた。
見上げるような視線。
少しだけ照れたような笑顔。
その破壊力たるや。
(…………。)
弓弦の思考が止まる。
(今。)
(お礼。)
(俺に。)
(近い。)
(声、小さ……。)
(かわい。)
危ない。
本当に危ない。
顔が緩む。
口角が上がりそうになる。
必死だった。
ここでニヤけたら終わる。
全国ツアーを何本経験しても。
何万人の前で歌っても。
主演映画の舞台挨拶に立っても。
今、この一言が一番心臓に悪い。
だから。
弓弦は静かに微笑んだ。
「気にしなくていいよ。」
余裕を感じさせる声。
「こういうのは年上の役目だから。」
『……はい。』
ほたるも安心したように微笑む。
その笑顔を見届けると、弓弦はグラスへ口をつけた。
涼しい顔。
完璧だった。
まさに。
テレビで見せる”Asterismのセンター・御影弓弦”そのもの。
だが。
向かい側では。
水城がもう限界だった。
「……。」
肩が震えている。
グラスを持ったまま俯き。
笑いを堪えている。
「宗真。」
神崎が低く呼ぶ。
「吹くな。」
「む……り……。」
水城は口元を押さえたまま小声で返した。
「見た?」
「今の。」
「見た。」
黒瀬も肩を震わせる。
「完っ全に王子様だった。」
「雑誌のインタビューかと思った。」
「『年上の役目だから』だって。」
水城が真似をする。
黒瀬が吹き出した。
「やめろ。」
「本人いる。」
「いや、でも。」
水城は耐えきれず笑う。
「三十分前まで楽屋でさ。」
「『ほたるちゃん今日もかわいかった……。』」
「『私服どんな感じだろ……。』」
「って言ってた人と同一人物と思えない。」
「宗真。」
神崎が酒を一口飲みながら静かに言う。
「声。」
「少し抑えろ。」
「はい。」
返事だけは素直だった。
だが、笑いは止まらない。
神崎はそんな二人を見て小さく息をついた。
それから。
弓弦へ視線を向ける。
涼しい顔で料理を口に運んでいる。
姿勢も綺麗。
食べ方も綺麗。
誰が見ても非の打ちどころのないトップアイドル。
その横顔を見ながら。
神崎は心の中だけで苦笑した。
(本当に器用な男だ。)
(外では百点満点。)
(中身は、多分今も大騒ぎなんだろうな。)
長い付き合いだから分かる。
あの男は。
嬉しい時ほど。
平然とした顔をする。
だから今。
あの涼しい顔の下では。
きっと誰よりも浮かれている。
それが分かるからこそ。
神崎は酒を飲みながら、小さく笑った。




