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あの日のスピカ。  作者: ツユクサリヒト


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7/72

7.



⭐︎7.






京都の夜は、東京とは少し違う。


 大通りを一本外れれば、石畳が静かに月明かりを照り返し、格子戸の並ぶ町家からは柔らかな灯りが漏れていた。


 昼間は多くの観光客で賑わう街も、夜になるとどこか落ち着いた表情を見せる。


 そんな街並みの一角。


 看板もほとんど出ていない、小さなバー。


 知る人ぞ知る店。


 芸能人や映画監督、舞台役者たちが、人目を避けて利用する隠れ家だった。


 今夜は、その店が貸し切りになっている。


 時代劇ドラマの撮影が一段落した記念の打ち上げだった。


「いやぁ、今日も疲れたなぁ。」


「京都来てから毎日濃すぎるよ。」


「殺陣だけで筋肉痛なんだけど。」


 スタッフたちの笑い声が店内へ響く。


 木の温もりを感じる店内。


 照明は少し暗めで、オレンジ色の灯りがグラスの中の琥珀色を美しく照らしている。


 カウンターの奥ではバーテンダーが静かにシェイカーを振り、心地よい氷の音が耳に届く。


 撮影中の緊張感とは違う。


 皆、肩の力を抜いた穏やかな空気だった。


     ◇◇◇


「おい、水城。」


「はいはい?」


「飲みすぎるなよ。」


 神崎がグラスを片手に苦笑する。




 最年長。


 Asterismのリーダーとして、普段からメンバーのまとめ役を務める男だ。


「分かってるって。」


 水城は軽く笑う。


「今日はまだ一杯目。」


「その台詞、毎回聞く。」


 黒瀬が呆れたように肩を竦めた。


「宗真の”まだ一杯目”は信用できねぇ。」


「失礼だなぁ。」


 三人の軽快なやり取りに、周囲のスタッフも笑う。


 その少し離れた席では。


 


 弓弦が、スマートフォンを何気ない顔で見ていた。


 表情はいつも通り。


 雑誌で見る”王子様アイドル”そのもの。


 背筋は伸び、姿勢も綺麗。


 脚を組む仕草まで絵になる。


 だが。


(……まだかな。)


 心の中だけは落ち着かない。


(来るよな。)


(監督、主演全員参加って言ってたし。)


(来るよな……。)


 画面を見るふりをして、何度も入口へ視線が向く。


 気付かれない程度に。


 本当にさりげなく。


「弓弦。」


 神崎が酒を口に運びながら声を掛けた。


「さっきから入口ばかり見てるな。」


「……見てないけど?」


「見てる。」


「見てるな。」


 黒瀬も笑う。


「三分に一回。」


「数えてたの?」


「暇だから。」


 水城が吹き出した。


「主演女優待ち?」


「違う。」


 即答だった。


「偶然。」


「入口が気になるだけ。」


「へぇ。」


 三人の返事は見事に揃う。


「嘘だ。」


 弓弦は小さくため息をついた。


「……お前ら。」


「なんだよ。」


「人聞き悪い。」


「十分聞いた。」


「顔に書いてある。」


 神崎が肩を竦める。


「“まだ来ないかな。“って。」


「書いてねぇよ。」


「書いてる。」


 そのやり取りにスタッフまで笑い始めた。


「仲いいですねぇ。」


「いつもこんな感じですよ。」


 神崎が苦笑する。


 その時だった。


 店の扉が静かに開いた。


 ──カラン。


 小さなベルの音。


 自然と店内の視線が入口へ集まる。


『遅れてすみません……!』


 明るく、それでいてどこか申し訳なさそうな声。


 ほたるだった。


 一歩、店内へ足を踏み入れる。


 その瞬間。


 店の空気がふっと柔らかく変わったような気がした。


 撮影で見慣れた豪華な着物姿ではない。


 白いワンピース。


 膝下まで流れる柔らかなスカートが歩くたびに揺れる。


 胸元には小さなリボン。


 アクセサリーは耳元の小ぶりなパールだけ。


 飾り立てていない。


 それなのに。


 誰よりも目を引いた。


 肩まで伸びた黒髪はゆるく巻かれ、艶やかに光を受けている。


 透き通るような白い肌。


 撮影終わりとは思えないほど疲れを感じさせない笑顔。


「かわいい……。」


 誰かが思わず呟いた。


 それは男性スタッフだったのか。


 女性スタッフだったのか。


 分からない。


 けれど、多くの人が同じことを思っていた。


 弓弦はというと。


 一瞬だけ息を呑んだ。


(……私服。)


 思考が止まる。


(ドラマじゃない。)


(衣装じゃない。)


(オフの服……。)


 白が似合う。


 こんなにも白が似合う人がいるのか、と本気で思った。


 華美ではない。


 ブランドロゴも見当たらない。


 それでも、目を奪われる。


(かわ……。)


 危ない。


 危ない危ない。


 顔に出すな。


 御影弓弦。


 お前はトップアイドルだ。


 今ここで口を開けば、


『かわいい。』


 その一言しか出てこない。


 ぐっと表情を引き締める。


 その横で。


 水城が小さく肩を震わせた。


「宗真。」


 神崎が低い声で制する。


「笑うな。」


「いや……。」


 水城は口元を押さえたまま必死に耐えている。


「弓弦、今、絶対フリーズした。」


「したな。」


 黒瀬も小さく笑う。


「一回、魂抜けてた。」


「聞こえてる。」


 弓弦は前だけを向いたまま答える。


「俺は普通。」


「普通の人は三秒固まらない。」


 神崎が淡々と言う。


「……数えてたの?」


「癖だ。」


 そんなやり取りをしている間にも、ほたるはスタッフ一人ひとりへ丁寧に頭を下げていた。


『本当に遅れてしまって、ごめんなさい。』


『宿に温泉が付いていたので、少しだけ入ろうと思ったら……。』


 困ったように笑う。


『気付いたら時間がぎりぎりで。』


『皆さんをお待たせしてしまいました。』


「全然大丈夫!」


「まだ始まったばっかりだから!」


「気にしないで!」


 誰も責める人はいない。


 むしろ、その律儀さに微笑む人ばかりだった。


 監督が空いている席を見る。


「あ、ほたるちゃん。」


「そこ。」


「弓弦くんの隣ね。」


「主演同士だし。」


『はい。』


 ほたるは素直に頷く。


 そして弓弦の隣まで歩いてくる。


 ふわり、と。


 甘すぎないシャンプーの香りが漂った。


『失礼します。』


 静かに椅子を引き、腰を下ろす。


 その距離は、撮影中よりもずっと近かった。


 肩が少し動けば触れそうなくらい。


 弓弦は静かに息を吐く。


 落ち着け。


 仕事では何度も隣に立った。


 何度も目を合わせた。


 それなのに。


 私服で。


 自然な笑顔で。


 「失礼します」と隣へ座られるだけで、こんなにも心臓がうるさいなんて。


 知らなかった。






店員が次々と料理を運び始める。


 湯気の立つ京野菜の前菜。


 香ばしく焼き上げられた魚料理。


 色鮮やかなローストビーフ。


 木のテーブルは、あっという間に華やかな料理で埋め尽くされた。


 それと同時に。


 店員が一人ひとりの前へ飲み物を並べていく。


 ビール。


 ハイボール。


 ワイン。


 カクテル。


 思い思いのグラスが並ぶ中。


 ほたるの前へ置かれたのは、氷の浮かんだ烏龍茶だった。


 透明なグラスを両手で包むように持ち、小さく笑う。


『ありがとうございます。』


 その何気ない仕草まで、どこか品がある。


 撮影中も思っていた。


 この子は、不思議なくらい「作っている感じ」がしない。


 笑顔も。


 仕草も。


 礼儀正しさも。


 全部が自然だった。


「それじゃあ!」


 監督が立ち上がる。


「ここまでの撮影、本当にお疲れ様でした!」


「まだまだ先は長いですけど、まずは前半戦、お疲れ様!」


 グラスが一斉に持ち上がる。


「「「乾杯!!」」」


 カチン。


 心地よい音が店内へ響いた。


 笑い声が広がる。


 料理へ箸が伸び始める。


 ようやく打ち上げらしい空気になった、その時だった。


「ほたるちゃん。」


 向かいに座っていた年配のスタッフが、笑顔でビール瓶を持ち上げた。


「一杯くらい飲める?」


『えっ。』


 ほたるは目をぱちぱちと瞬かせる。


『あ……。』


 断ろうと口を開きかけた、その瞬間。


「すみません。」


 穏やかな声が間へ入った。


 自然だった。


 あまりにも自然すぎて、その場にいた誰も違和感を覚えないほどに。


 弓弦だった。


 スタッフへ柔らかく微笑みながら言う。


「ほたるちゃん、まだ未成年なんです。」


「あっ。」


 スタッフが目を見開く。


「しまった!」


「ごめんごめん!」


「そうだった!」


 慌ててビール瓶を下ろす。


「危ない危ない。」


「すまん!」


『いえいえ!』


 ほたるは慌てて首を横へ振った。


『お気になさらないでください。』


『私も何も言えなくて……。』


『ごめんなさい。』


 謝らなくていい場面なのに。


 真っ先に自分も悪かったと言える。


 そんな性格なのだろう。


 その様子を見ていたスタッフたちも苦笑した。


「真面目だなぁ。」


「ほたるちゃんらしい。」


「ほんといい子。」


 和やかな笑いが起こる。


 そんな中。


 ほたるは隣へそっと顔を向けた。


 弓弦にだけ聞こえるくらい、小さな声で。


『……ありがとうございます。』


 一瞬だった。


 けれど。


 その声は確かに弓弦へ届いた。


 見上げるような視線。


 少しだけ照れたような笑顔。


 その破壊力たるや。


(…………。)


 弓弦の思考が止まる。


(今。)


(お礼。)


(俺に。)


(近い。)


(声、小さ……。)


(かわい。)


 危ない。


 本当に危ない。


 顔が緩む。


 口角が上がりそうになる。


 必死だった。


 ここでニヤけたら終わる。


 全国ツアーを何本経験しても。


 何万人の前で歌っても。


 主演映画の舞台挨拶に立っても。


 今、この一言が一番心臓に悪い。


 だから。


 弓弦は静かに微笑んだ。


「気にしなくていいよ。」


 余裕を感じさせる声。


「こういうのは年上の役目だから。」


『……はい。』


 ほたるも安心したように微笑む。


 その笑顔を見届けると、弓弦はグラスへ口をつけた。


 涼しい顔。


 完璧だった。


 まさに。


 テレビで見せる”Asterismのセンター・御影弓弦”そのもの。


 だが。


 向かい側では。


 水城がもう限界だった。


「……。」


 肩が震えている。


 グラスを持ったまま俯き。


 笑いを堪えている。


「宗真。」


 神崎が低く呼ぶ。


「吹くな。」


「む……り……。」


 水城は口元を押さえたまま小声で返した。


「見た?」


「今の。」


「見た。」


 黒瀬も肩を震わせる。


「完っ全に王子様だった。」


「雑誌のインタビューかと思った。」


「『年上の役目だから』だって。」


 水城が真似をする。


 黒瀬が吹き出した。


「やめろ。」


「本人いる。」


「いや、でも。」


 水城は耐えきれず笑う。


「三十分前まで楽屋でさ。」


「『ほたるちゃん今日もかわいかった……。』」


「『私服どんな感じだろ……。』」


「って言ってた人と同一人物と思えない。」


「宗真。」


 神崎が酒を一口飲みながら静かに言う。


「声。」


「少し抑えろ。」


「はい。」


 返事だけは素直だった。


 だが、笑いは止まらない。


 神崎はそんな二人を見て小さく息をついた。


 それから。


 弓弦へ視線を向ける。


 涼しい顔で料理を口に運んでいる。


 姿勢も綺麗。


 食べ方も綺麗。


 誰が見ても非の打ちどころのないトップアイドル。


 その横顔を見ながら。


 神崎は心の中だけで苦笑した。


(本当に器用な男だ。)


(外では百点満点。)


(中身は、多分今も大騒ぎなんだろうな。)


 長い付き合いだから分かる。


 あの男は。


 嬉しい時ほど。


 平然とした顔をする。


 だから今。


 あの涼しい顔の下では。


 きっと誰よりも浮かれている。


 それが分かるからこそ。


 神崎は酒を飲みながら、小さく笑った。


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