6.
⭐︎6.
夜更け。
静まり返った武家屋敷。
広い座敷には、行灯の柔らかな灯りだけが揺れていた。
庭からは風に揺れる竹の音が聞こえる。
男は文机に向かい、一枚の書状へ目を通していた。
端正な横顔。
隙のない姿勢。
この屋敷の主であり、藩の重臣でもある神崎は、筆を置くことなく淡々と仕事を続けていた。
その時だった。
襖の向こうから、小さく声がする。
『……失礼します。』
静かに襖が開いた。
そこへ姿を現したのは、美しい着物姿のほたるだった。
漆黒の髪をゆるく結い、両手には酒瓶と徳利。
夜の灯りに照らされた姿は、どこか幻想的で、男なら誰もが振り返るほど美しい。
神崎は書状から目を離さないまま口を開いた。
「こんな時間に何だ。」
ほたるは、にこりと微笑む。
『一緒に飲みませんか?』
「……。」
『今日ぐらいは、お仕事を忘れて。』
神崎はゆっくり顔を上げる。
その笑顔を見つめると、小さく息を吐いた。
「お前、酒は弱いだろ。」
『えへへ……少しだけです。』
「少しじゃない。」
『ばれちゃいました?』
くすり、と笑う。
その笑顔につられるように、神崎も口元を緩めた。
「……入れ。」
『ありがとうございます。』
ぺこりと頭を下げ、ほたるは座敷へ上がる。
徳利へ酒を注ぐ。
とくとく、と静かな音だけが部屋へ響いた。
二人は向かい合って盃を交わす。
『今日も、お疲れ様でした。』
「ああ。」
『昼間の案件、大変そうでしたね。』
「いつものことだ。」
『でも、神崎さん。今日はいつもより疲れた顔をしてます。』
「そう見えるか。」
『見えます。』
神崎は苦笑した。
「…人を見る目はあるらしい。」
『昔から、人の顔色を見るのは得意なんです。』
「……そうか。」
そこからは、本当に他愛もない話だった。
藩の仕事。
町の祭り。
庭の梅が咲き始めたこと。
最近できた甘味処の話。
笑ったり。
少し真面目な話をしたり。
静かな夜がゆっくり流れていく。
酒は神崎ばかり進み、ほたるは盃を少し口につける程度だった。
頬がほんのり赤い。
「やっぱり弱いな。」
『だから、少しだけって言ったじゃないですか。』
「その少しで顔が赤い。」
『……照明のせいです。』
「違う。」
『違います?』
「違う。」
思わず笑い合う。
穏やかな空気だった。
やがて神崎は盃を置く。
「……で。」
『?』
「何の用で来た。」
『え?』
「酒を飲みに来ただけじゃないだろ。」
ほたるは少しだけ黙る。
それから。
ふっと微笑んだ。
今までとは違う笑み。
どこか妖艶で、男を惑わせるような笑みだった。
神崎は僅かに目を細める。
ほたるは立ち上がる。
畳を静かに歩き、一歩、また一歩と距離を縮める。
やがて二人の距離は、吐息が触れそうなほど近くなる。
神崎は動かない。
ほたるはじっと神崎を見つめた。
『……教えてください。』
囁くような声。
神崎が口を開こうとした、その瞬間だった。
ほたるは勢いよく神崎へ身体を預ける。
馬乗りになるように覆い被さり、そのまま唇を重ねた。
――。
「はーい、カットーー!!」
監督の声が撮影所いっぱいに響いた。
一瞬で静寂が消える。
「お疲れ様でーす!」
「OKでーす!」
「休憩入りまーす!」
スタッフたちが一斉に動き始めた。
照明が切り替わり、カメラが止まる。
時代劇の世界は、あっという間に現実へ戻っていく。
「あっ……!」
ほたるは慌てて神崎の上から降りた。
『すみません、失礼しました。』
深々と頭を下げる。
役が終われば、いつもの礼儀正しいほたるだった。
『ありがとうございました。』
花が咲くような笑顔。
神崎は一瞬だけ返事が遅れた。
「……お疲れ様。」
『お疲れ様です。』
スタッフに呼ばれ、ほたるは小走りでその場を離れていく。
神崎はその後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。
演技に入った瞬間。
まるで別人だった。
普段の柔らかく穏やかな雰囲気は消え、男を翻弄する妖艶な女そのもの。
距離の詰め方。
視線。
間の取り方。
一瞬、本当に役へ引き込まれていた。
(……すごいな。)
アイドルという肩書きだけではない。
女優としても十分通用する。
素直にそう思った、その時だった。
「神崎、お疲れ。」
聞き慣れた声に振り向く。
そこには、にこやかに笑う弓弦が立っていた。
神崎は、その笑顔を見た瞬間。
(……嫌な予感しかしない。)
そう確信した。
◇◇◇
昼休憩。
Asterismの楽屋。
撮影を終えた四人は、それぞれ衣装を少し崩しながらソファへ腰を下ろしていた。
机の上には京都らしい仕出し弁当。
湯気の立つ味噌汁。
差し入れのお茶。
午前中だけでもかなり撮影が進み、スタッフたちも廊下を忙しなく行き来している。
そんな中。
妙に静かだった。
神崎は箸を割りながら、嫌な予感しかしなかった。
正面。
弓弦が、にこにこ笑って座っている。
その笑顔が逆に怖い。
水城はその空気を察して、そっと黒瀬へ耳打ちした。
「三。」
「ん?」
「二。」
「一。」
パンッ。
弓弦が机を叩いた。
「ねぇ。」
始まった。
神崎は味噌汁を飲みながら聞き流す。
「なんで。」
弓弦が真顔になる。
「夜に家へ入れるかな。」
「役だ。」
「役だけど!」
「台本だ。」
「そういう問題じゃない!」
弓弦は立ち上がった。
「部下だよね!?」
「そうだ。」
「コンプライアンス!!」
「江戸時代にそんな言葉はない。」
「あるよ! 心の中にはあるよ!」
「ない。」
「ある!」
「ない。」
「ある!」
小学生みたいな言い合いだった。
黒瀬が弁当を食べながら苦笑する。
「また始まった。」
水城も肩を震わせて笑う。
「今日も平和だな。」
「平和じゃない!」
弓弦は二人へ振り返る。
「ほたるちゃんだよ!?」
「あんなかわいい子が!」
「夜!」
「一人!」
「男の家!」
「危ないでしょ!」
力説する。
神崎はため息をついた。
「だから。」
「役だ。」
「分かってるよ!」
「分かってない。」
「分かってる!」
「じゃあ騒ぐな。」
「それとこれは別!」
「何が別だ。」
弓弦は腕を組んで唸る。
「……いや。」
「普通さ。」
「夜に来ても。」
「帰しなよ。」
「帰したら話進まないだろ。」
「脚本家さん何考えてるの!?」
「俺に言うな。」
「制作側!」
「攻めすぎ!」
頭を抱える弓弦。
神崎は煙草を一本取り出した。
カチッ。
火を点ける。
紫煙をゆっくり吐きながら、小さく笑う。
「……ガキだろ。」
「はぁぁぁぁ!?」
弓弦が机をばんばん叩く。
「今の聞いた!?」
「神崎!」
「ほたるちゃんアンチ!」
「誰が。」
「アンチ!」
「違う。」
「今、ガキって言った!」
「言った。」
「許さない!」
「勝手に怒ってろ。」
神崎は鼻で笑った。
弓弦は悔しそうに唸る。
「もう!」
「神崎とは価値観が合わない!」
「初めて知ったのか。」
「知ってた!」
「ならいい。」
「よくない!」
水城が腹を抱えて笑い始める。
「ダメだ。」
「今日、一番面白い。」
黒瀬も箸を置いて笑った。
「弓弦、お前ドラマ見るたびに情緒壊れるな。」
「壊れてない!」
「いや壊れてる。」
「正常!」
そこへ。
神崎がぽつりと呟いた。
「……でも。」
一同が見る。
「あの演技はすごかったな。」
「……。」
楽屋が一瞬静まる。
「役に入った瞬間。」
「空気が全部変わった。」
「正直、引き込まれた。」
その一言だった。
「分かる!!?」
弓弦が満面の笑みになる。
「そうなの!」
「そこ!」
「目!」
「表情!」
「距離感!」
「全部!」
「やばかった!」
「さすがほたるちゃん!」
「天才!」
「絶対女優もできる!」
さっきまで怒っていた人とは思えない。
黒瀬が思わず突っ込む。
「……情緒。」
「忙しすぎるだろ。」
「褒めるところは褒める!」
「でも神崎は許さない!」
「何なんだよ。」
神崎は苦笑した。
弓弦はまだぶつぶつ言っている。
「俺も。」
「ほたるちゃんとお酒飲みたい。」
水城が即答する。
「水だぞ。」
「いい。」
「仕事の話したい。」
「すれば?」
「したい。」
「じゃあしろ。」
「馬乗りは?」
「無理。」
「だよねぇぇぇ……。」
がっくり肩を落とす。
黒瀬が吹き出した。
「そこ目的だったのかよ。」
「違う!」
「違うけど!」
「……ちょっと羨ましい。」
「本音出た。」
水城が笑う。
「でも今日。」
「打ち上げあるじゃん。」
「……!」
弓弦の目が輝いた。
「あ。」
「そうだった。」
京都ロケが始まって初めての、大きな打ち上げ。
出演者もスタッフも勢揃いする予定だ。
弓弦は急に元気になる。
「よし。」
拳を握る。
「午後も頑張る!」
「いっぱい話せるかもしれない!」
「写真撮れるかもしれない!」
「連絡先……は無理か。」
「でも話せる!」
「頑張ろ!」
さっきまで神崎へ文句を言っていた人間とは思えない切り替えだった。
神崎は煙草を灰皿へ押し付ける。
「……現金なやつ。」
「ポジティブって言って。」
弓弦は胸を張る。
その姿に、水城と黒瀬はまた声を上げて笑った。
今日もAsterismの楽屋は、撮影の疲れを忘れるほど賑やかな笑い声で満ちていた。




