67.
⭐︎67
ほたるが姿を消してから、一か月。
季節はゆっくりと移り変わっていた。
Asterismは変わらず忙しい。
ライブ。
音楽番組。
雑誌の撮影。
地方ロケ。
毎日、息つく暇もないほどスケジュールは埋まっている。
それなのに。
弓弦の心には、ぽっかりと穴が空いたままだった。
仕事へ向かう前。
控え室で着替えながら。
移動中の車の中で。
寝る前のベッドの上で。
無意識にスマートフォンを開いてしまう。
ルミエ・エンターテインメント。
ほたるオフィシャルブログ。
公式SNS。
どこを見ても、更新はない。
最後に投稿されたまま、時間だけが止まっていた。
「……。」
生きている。
それは分かっている。
体調不良。
そう発表されている。
けれど。
本当に、それだけなのだろうか。
どこかで、その不安だけが日に日に大きくなっていた。
◇ ◇ ◇
「お疲れ様でしたー!」
ライブが終わる。
大歓声の余韻を背中に受けながら、四人はステージ裏へ戻ってきた。
「今日もすごかったな!」
水城がタオルを首に掛けたまま笑う。
「最後の歓声、鳥肌立った。」
「毎回言ってるな。」
神崎が苦笑する。
黒瀬はスタッフから受け取ったスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「腹減った。」
「お前はそればっかり。」
いつものAsterism。
いつもの空気。
ライブ終わり独特の高揚感。
そのまま駐車場へ向かう。
黒いワンボックス。
阿久津の運転する車だった。
弓弦がスライドドアへ手を掛ける。
開いた瞬間だった。
「……え?」
車内に、一人の女性が座っていた。
金色に近い髪。
シャープなスーツ姿。
少しきつく見える目元。
見覚えがある。
「レナさん!?」
思わず声を上げたのは、水城だった。
「え!? 何で!?」
「うわ、久しぶり!」
黒瀬も驚いている。
弓弦は言葉を失った。
ほたるのマネージャー。
いつも隣でほたるを支えていた人。
そのレナが、どうして阿久津の車に乗っているのだろう。
四人は思わず立ち尽くしてしまう。
すると。
レナが呆れたように腕を組んだ。
「早く乗んなさいよ。」
「出発できないでしょ。」
その一言で我に返る。
「あ、はい!」
慌てて乗り込む水城。
阿久津は運転席からため息をついた。
「……私の車なんですが。」
「細かいこと言わない。」
「細かくありません。」
そのやり取りに、車内へ少しだけ笑いが広がる。
重かった空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
ドアが閉まる。
車は静かに走り始めた。
首都高速へ入り、夜景が窓の外を流れていく。
誰もが気になっていた。
けれど。
なにから切り出していいか分からない。
沈黙を破ったのは、弓弦だった。
「……レナさん。」
ライブの興奮がまだ残る声。
けれど、その瞳には別の感情が宿っていた。
「ほたる……。」
一度言葉を切る。
「ほたるちゃんは、元気ですか?」
車内が静かになる。
水城も。
黒瀬も。
神崎も。
誰も口を挟まなかった。
レナは、その質問を聞いて、小さく笑った。
本当に最初に聞くことが、それなんだ。
仕事でも。
復帰時期でも。
世間の反応でもない。
ただ、彼女が元気かどうか。
その一言だけだった。
だから。
レナは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。」
「休日、満喫してる。」
弓弦の肩から、少しだけ力が抜ける。
「……本当に?」
「うん。」
レナは窓の外を見ながら続けた。
「リンちゃん……。」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
話していいのか迷うように。
「ほたるの妹ちゃんね。」
「事情があって、今入院してるの。」
弓弦は静かに息を呑む。
「でも。」
「毎日、一緒にいられるって。」
「二人とも、楽しそうにしてる。」
その言葉を聞いて。
弓弦はゆっくり目を閉じた。
やっぱり。
あの日、部屋で見つけた本は間違いじゃなかった。
心臓病。
移植。
小児循環器。
あれは偶然じゃなかった。
静かに問い掛ける。
「……心臓。」
「そんなに悪いんですか。」
レナは驚いたように振り返る。
「え?」
「ほたるから聞いたの?」
弓弦は少しだけ視線を泳がせる。
「……家に。」
「本があったから。」
「ああ……。」
レナは納得したように苦笑した。
「だよね。」
「ほたるが、自分から話すはずないか。」
小さく息を吐く。
「あの子。」
「他人に頼るの、絶望的に苦手だから。」
その声には、長年一緒にいた人間だからこその諦めが滲んでいた。
「何でも一人で抱え込む。」
「利用するか、利用されるか。」
「そんな極端な考え方ばっかり。」
一瞬だけ。
レナの表情に影が差した。
その考え方を植え付けた人物の顔が脳裏をよぎる。
けれど。
その名前は口にしなかった。
弓弦は何も言わず、ただ静かにレナの言葉を待っていた。
その真っ直ぐな眼差しを見て。
レナは、もう誤魔化せないと思った。
この男は。
自分と同じくらい。
いや。
もしかしたら、それ以上に。
ほたるの幸せを願っている。
だからこそ。
何も教えないという選択は、できなかった。
レナは一度だけ窓の外へ目を向けた。
首都高速の灯りが、車窓を流れていく。
街の光が、まるで川のように遠ざかっていた。
静かな車内。
エンジン音だけが一定のリズムを刻んでいる。
「……うん。」
小さく頷く。
「あまり、よくないみたい。」
その一言で、車内の空気が変わった。
弓弦の表情が、ゆっくりと強張っていく。
「だから。」
レナは続ける。
「一刻も早く、心臓移植が必要なの。」
弓弦は何も言えなかった。
ただ、拳をぎゅっと握り締める。
あの日。
ほたるの部屋で見つけた専門書。
小児循環器。
心臓移植。
何冊も並んでいた医学書。
あれはただの本なんかじゃなかった。
妹を助けるためのものだったんだ。
「……そう、だったんですね。」
やっと、それだけ口にする。
その横顔を見て、レナは少しだけ微笑んだ。
「でも、安心して。」
できるだけ明るい声を作る。
「あとちょっとって、ほたる言ってたから。」
「そこまで悲観しなくても大丈夫。」
「お金の準備も、ほぼ終わってるみたいだし。」
その言葉に、水城が思わず身を乗り出した。
「いやいや。」
「ちょっと待って。」
「心臓移植って、とんでもなく金かかるんでしょ?」
「……うん。」
「ほたるちゃん、どんだけ稼いだんだよ。」
思わず漏れた一言。
場の空気を和らげようとしたのか。
それとも、本気で驚いたのか。
そのどちらとも取れる口調だった。
黒瀬も苦笑する。
「俺らでも想像つかないな。」
レナは肩をすくめて笑う。
「ほたるだから。」
それだけだった。
それだけで、全員が納得してしまう。
デビューしてから休むことなく走り続けた少女。
歌って。
踊って。
演じて。
CMにも出て。
雑誌にも出て。
どれだけ眠れない日が続いても、弱音を吐かなかった。
全部。
妹のため。
その事実を知った今なら、その一言だけで十分だった。
けれど。
レナの胸の中には、別の不安が残っていた。
お金じゃない。
移植でもない。
本当に心配なのは――。
「……レナさん。」
弓弦が静かに口を開く。
「うん?」
「ほたるは。」
一度、言葉を切る。
「篠宮社長に……怒られてたりは、してませんか。」
その名前が出た瞬間だった。
レナの笑顔が、ほんのわずかに曇る。
「……。」
問題は。
まさに、その男だった。
ほたるが今、一番向き合わなければならない相手。
けれど。
どこまで話していいのか分からない。
レナは小さく息を吐いた。
「大丈夫。」
そう言って笑う。
「ほたるは、社長のお気に入りだから。」
「……。」
「今回も。」
「ほたるがお願いしたら。」
「渋々だけど。」
「弓弦くんをどうこうするのは、諦めたみたい。」
弓弦は少しだけ安心したように息を吐く。
「……そうですか。」
その顔を見て。
レナの胸が少し痛んだ。
違う。
それだけじゃない。
本当は。
もっと複雑だ。
「ただ……。」
その先の言葉が、喉で止まる。
車内が静かになる。
レナは視線を落とした。
知らない方が幸せかもしれない。
でも。
いつか、最悪な形で知ったら?
そう思うと、簡単には口にできなかった。
その変化に気付いたのは、阿久津だった。
バックミラー越しに、レナを見る。
「……レナ?」
穏やかな声。
レナは顔を上げる。
水城も。
黒瀬も。
神崎も。
そして弓弦も。
全員が、不思議そうにこちらを見ていた。
しまった。
顔に出てしまった。
この話をするつもりなんて、なかったのに。
レナは苦笑してごまかそうとする。
「いや。」
「何でも――」
そう言いかけて。
言葉が止まる。
弓弦の表情が、あまりにも真っ直ぐだった。
心配そうに。
ただ、ほたるのことだけを案じる目。
その眼差しを前にして。
何も言わずに終わらせることが、本当に正しいのか。
レナは、自分でも分からなくなっていた。
車内は静まり返っていた。
首都高速を走るタイヤの音だけが、一定のリズムで耳に届く。
レナは窓の外へ目を向ける。
夜景が流れていく。
何度も。
何度も。
この話はしないと決めていた。
だから。
ここで終わらせるつもりだった。
「……何でもない。」
そう笑って誤魔化そうとした、その時
だった。
「レナさん。」
弓弦が静かに口を開いた。
「無理に話さなくて大丈夫です。」
「……。」
「でも。」
少し困ったように笑う。
「もし。」
「もし俺にできることがあるなら。」
「教えてほしいです。」
レナは思わず目を閉じた。
ああ。
この人は、本当に変わらない。
自分のことより。
ほたるのこと。
そればかりだ。
「……できること、ね。」
小さく笑う。
「あるわよ。」
ぽつりと漏れたその言葉に、全員がレナを見た。
「え?」
水城が声を上げる。
「あるの?」
「うん。」
レナは頷いた。
「でも。」
「ほたるは知られたくないでしょうね。」
その言葉に、弓弦の表情が曇る。
「どういうことですか。」
レナは少しだけ考えたあと、静かに話し始めた。
「ほたるね。」
「あの子、自分が傷つくことには慣れてるの。」
「……。」
「怒られても。」
「理不尽なこと言われても。」
「仕事が増えても。」
「全部。」
「『私が我慢すればいい』で終わらせちゃう。」
阿久津は何も言わない。
ただ黙って聞いていた。
「でも。」
レナの声が少しだけ低くなる。
「弓弦くんのことになると。」
「全然違う。」
弓弦が顔を上げる。
「……俺?」
「うん。」
「今回だって。」
「一番最初に考えたのは、自分じゃない。」
「リンちゃんでもない。」
「弓弦くんだった。」
弓弦は息を呑む。
「社長が動くって分かった時。」
「あの子。」
「最初に私へ言ったの。」
レナはその時のことを思い出す。
真っ青な顔で。
震える手を握り締めながら。
ほたるは自分へ言った。
――『守らなきゃ。』
その一言だけだった。
「自分がどうなるかなんて。」
「一回も聞かなかった。」
「最初から最後まで。」
「弓弦くんが巻き込まれない方法だけ考えてた。」
車内が静まり返る。
水城も。
黒瀬も。
神崎も。
言葉を失っていた。
弓弦はゆっくり俯く。
胸の奥が苦しかった。
知らなかった。
何一つ。
自分は。
本当に何も知らなかった。
「……俺。」
震える声が漏れる。
「何にも返せてない。」
レナは首を横に振った。
「違う。」
「返してるよ。」
「気付いてないだけ。」
「……え?」
「ほたる。」
「今まで誰かを信じたことなんて、ほとんどなかった。」
レナは苦笑する。
「あの子。」
「誰かに頼るくらいなら、一人で全部抱えるタイプだから。」
「でも。」
「弓弦くんだけは違った。」
「……。」
「留守番電話。」
その言葉に、弓弦が顔を上げる。
「あれ。」
「何回も聞いてたよ。」
「……。」
「夜中。」
「リンちゃんが寝たあと。」
「一人で。」
「何回も。」
弓弦の目が大きく見開かれる。
レナは静かに微笑んだ。
「最後ね。」
「あの子。」
「笑ってた。」
「本当に嬉しそうだった。」
そして。
ぽつりと付け加える。
「『弓弦さん、やっぱり優しいなぁ。』って。」
その一言だけで。
弓弦の胸に、どうしようもない想いが込み上げた。
会いたい。
その一言だけが。
心の中で、何度も何度も繰り返されていた。
誰も、すぐには言葉を発することができなかった。
首都高速を走る車の中。
窓の外では無数の街灯が流れていく。
その光だけが、静かな車内を淡く照らしていた。
レナは小さく息を吐く。
「……だから。」
弓弦を見る。
真っ直ぐに。
「アステリズムのセンター、頑張って。」
突然の言葉だった。
弓弦は目を瞬かせる。
「……え?」
「頑張って。」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「ほたるはね。」
少し笑う。
「ちゃんと見てるから。」
「ライブも。」
「テレビも。」
「雑誌も。」
「全部とは言わないけど、時間ができると必ず見てる。」
弓弦は驚いたように顔を上げる。
「見て……くれてるんですか?」
「うん。」
レナは優しく頷く。
「あの子、表には出さないけど。」
「本当に楽しみにしてる。」
そう言うと、バッグの中へ手を入れた。
「いいもの、見せてあげる。」
取り出したのは、レナの携帯だった。
「これ。」
弓弦へ差し出す。
受け取った瞬間。
時間が止まった。
「……。」
そこに写っていたのは。
まだ少し幼さの残る、小さな女の子。
病院着ではない。
元気そうに笑っている。
その手には、赤いサイリウム。
満面の笑みで、高く掲げていた。
「リンちゃん……。」
自然と名前が漏れる。
その隣には。
帽子を深く被ったほたるがいた。
変装しているつもりなのだろう。
マスクまで着けている。
けれど。
笑っている横顔だけで、すぐに分かった。
二人とも、本当に楽しそうだった。
背景には、大きなステージ。
そして。
巨大なツアーポスター。
そこには、大きく書かれていた。
Asterism ARENA TOUR
一年前の日付。
「……これ。」
弓弦は目を見開く。
「去年のツアー……。」
「そう。」
レナが頷く。
「リンちゃん、まだ今より元気だった頃。」
「どうしても行きたいって聞かなくてね。」
その写真を、弓弦は食い入るように見つめる。
リンちゃんは赤。
神崎カラー。
……いや。
違う。
視線が、ゆっくり隣へ移る。
ほたるの右手。
そこに握られていたサイリウムは。
一本だけ。
淡いピンク色に光っていた。
「……。」
弓弦の呼吸が止まる。
ピンク。
自分のメンバーカラー。
「……え。」
声にならなかった。
レナは静かに微笑む。
「この頃。」
「あんたたち、まだ出会ってない。」
「ドラマも。」
「恋リアも。」
「もちろん、一緒に仕事もしてない。」
「……。」
「それでも。」
レナは写真を見つめる。
「あの子。」
「弓弦くん推しだった。」
弓弦の指先が震えた。
「……うそ。」
「本当。」
「ライブのあとなんてね。」
「リンちゃんより、ほたるの方が楽しそうだった。」
思い出したように笑う。
「『今日も王子様だった。』」
「『やっぱり歌うまいなぁ。』」
「『スタイル良すぎる。』」
「そんなことばっかり言ってた。」
水城が吹き出す。
「え、ちょっと待って!」
「ほたるちゃん、弓弦推しだったの!?」
「そうみたい。」
黒瀬も思わず笑う。
「すげぇ運命じゃん。」
神崎だけは静かに写真を見つめていた。
弓弦は何も言えない。
ただ。
写真だけを見つめる。
あの日。
あの会場の、どこかに。
自分はいた。
センターとして。
何万人もの前で歌っていた。
もちろん。
客席なんて、一人ひとり見えていなかった。
だから知らなかった。
あの中に。
ほたるがいたことも。
リンちゃんと一緒に笑っていたことも。
そして。
自分の色のサイリウムを握り締めてくれていたことも。
全部。
今日、初めて知った。
視界が滲む。
泣くつもりなんてなかった。
でも。
涙がこぼれそうになる。
「……。」
レナは、そんな弓弦を見て少しだけ笑った。
「だから。」
優しい声だった。
「センター、頑張って。」
「ファンが見てるから。」
「その中には。」
一拍置いて。
「ほたるもいる。」
弓弦は写真を胸に抱くように握り締めた。
小さく頷く。
「……はい。」
震える声だった。
「頑張ります。」
その返事を聞いて。
レナは、ようやく安心したように微笑んだ。
車内に、静かな時間が流れていた。
誰も口を開かない。
弓弦は、レナの携帯画面を大切そうに見つめたまま動かなかった。
その姿を見ていたレナは、小さく息を吐く。
「……ま。」
言うか迷う。
ここで終われば、それでいい。
それが一番平和だ。
知らない方が幸せなこともある。
そう、自分に言い聞かせる。
けれど。
目の前にいる男は。
何も知らないまま、それでもほたるの幸せだけを願っている。
そんな姿を見ていたら。
胸が痛くなった。
「……まぁ。」
レナは苦笑した。
「ほたる、結婚するかもだけど。」
その一言で。
車内の空気が止まった。
「……え?」
弓弦の声が、小さく震える。
携帯を持つ手が下がる。
水城も黒瀬も、思わずレナを見た。
神崎だけは静かに表情を引き締める。
「レナ。」
バックミラー越しに阿久津が低く呼ぶ。
その声には、「それ以上は」という制止の色が混じっていた。
レナは目を閉じる。
「……ごめん。」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
「今の、忘れて。」
「忘れられるわけないじゃないですか。」
弓弦は苦笑する。
その笑顔は、ひどく弱々しかった。
「どういう……意味ですか。」
レナはしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「社長ね。」
それだけで十分だった。
ほたるの事務所。
ルミエ・エンターテインメント。
その社長。
「……篠宮社長。」
「うん。」
レナは頷く。
「昔から。」
「ほたるを特別に見てた。」
その言葉を選びながら続ける。
「仕事では、本当に誰より大切に育ててきた。」
「才能も認めてる。」
「努力も知ってる。」
「だからこそ。」
一度だけ視線を落とす。
「手放したくないんだと思う。」
弓弦は黙って聞いていた。
「仕事としてなのか。」
「それとも、それ以上なのか。」
レナは首を横に振る。
「正直、私にも全部は分からない。」
「でも。」
「ほたるを、自分の人生から失いたくない。」
「そう思ってるのは、見ていて分かる。」
車内は静まり返っていた。
「だから。」
「プロポーズなのかな、あれ。……。」
「口説いてたね。」
そこまで言って、レナは言葉を切る。
「ほたるは『考えさせて』って言ってたから」
「決まった話じゃない。」
「ただ。」
「そうなっても、おかしくないくらいには……社長は、ほたるを大切に思っていて。」
「ほたるには、後ろ盾が….必要。」
「あの子、親も帰る場所もないから。」
その「大切」という言葉の重さを、誰もが感じ取っていた。
弓弫はゆっくりと目を閉じる。
胸の奥が痛い。
苦しい。
悔しい。
怖い。
けれど。
それ以上に思った。
――ほたるが、自分で選んだ道なら。
その先にある幸せを願いたい。
しばらくして。
弓弙はゆっくりと顔を上げた。
その表情は、どこか吹っ切れたように穏やかだった。
「……俺。」
静かに笑う。
「頑張ります。」
「え?」
水城が聞き返す。
「センター。」
弓弫は写真をもう一度見つめる。
そこには、一年前のほたるが笑っていた。
まだ出会う前。
ただの一人のファンとして。
自分の色のサイリウムを握り締めて。
「ファンが待ってくれてる。」
「ライブを楽しみにしてくれる人がいる。」
「その中に。」
少しだけ照れたように笑う。
「ほたるもいるんですよね。」
レナは黙って頷く。
「だったら。」
弓弙は前を向いた。
「俺は、センターとして頑張ります。」
「ファンのために。」
一呼吸置く。
「そして。」
写真を大切そうに見つめる。
「ほたるのためにも。」
その声には、迷いはなかった。
レナは小さく笑った。
「……うん。」
「それでいい。」
その返事だけで十分だった。
車は夜の首都高速を静かに走り続けていた。




