66.
⭐︎66.
何度かけても、繋がらなかった。
呼び出し音だけが、静かに続く。
一回。
二回。
三回。
その音を数えているあいだ、弓弦はスマートフォンを握る手に、知らず知らず力を込めていた。
出ない。
やっぱり、出ない。
最後にほたるの声を聞いたのは、いつだっただろう。
あの時はまだ、こんなふうに突然途切れるなんて思っていなかった。
忙しくても。
疲れていても。
眠そうでも。
ほたるは、短く返してくれていた。
面倒くさそうに。
でも、ちゃんと。
その返事がなくなっただけで、こんなにも世界が静かになるなんて、知らなかった。
「……ほたる。」
名前を呼んでも、返事はない。
やがて、機械的な音声が流れる。
留守番電話へ切り替わった。
弓弦は一度、息を止めた。
何を言えばいいのか分からなかった。
責めたいわけじゃない。
追い詰めたいわけでもない。
ただ、声が聞きたかった。
無事だと知りたかった。
そして。
何も知らなかった自分を、謝りたかった。
「……ほたる。」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
「俺、何も知らなくて、ごめん。」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛くなる。
「ほたる、大丈夫?」
返事がないと分かっているのに。
それでも、問いかけてしまう。
「お願いだから、ひとりで背負い込まないで。」
楽屋の隅。
誰もいない廊下。
弓弦は壁にもたれ、目を伏せる。
「頼って。」
「ほたるは、もっと誰かに頼っていい。」
あの子は、いつも一人で立っていた。
笑顔で。
完璧で。
誰にも隙を見せず。
でも、本当は。
きっと、ずっと。
誰かに助けてほしかったはずなのに。
「君が願ったら、誰だって手を貸すはずだ。」
少なくとも、俺は。
何を捨てても。
何を失っても。
君が呼ぶなら、絶対に行く。
そう言いたかった。
でも。
その言葉を口にするのは、少し怖かった。
仕事だった。
契約だった。
終わったものだった。
それでも。
まだ、自分の中では終わっていない。
「だから――」
そこで。
音声は切れた。
残された画面には、録音終了の文字だけが表示されている。
弓弦はしばらく、スマートフォンを見つめていた。
伝えたいことは、何一つ伝えきれていない気がした。
けれど。
これ以上何を言えばいいのかも、分からなかった。
◇ ◇ ◇
その留守番電話を。
ほたるは、白い病室の廊下で聞いていた。
夜の病院は静かだった。
消毒液の匂い。
遠くで鳴る機械音。
看護師の小さな足音。
窓の外には、都会の光が遠く滲んでいる。
リンリンは、少し前に眠った。
眠るまでずっと、ほたるの手を握っていた。
だから今も。
手のひらには、妹の体温が残っている。
ほたるは廊下のベンチに座り、スマートフォンを耳に当てていた。
久しぶりに聞く声だった。
弓弦の声。
少し掠れていて。
苦しそうで。
それでも、どこまでも優しかった。
『俺、何も知らなくて、ごめん。』
違う。
謝るのは、弓弦さんじゃない。
何も知らせなかったのは、私だ。
何も言わずに切ったのも。
返事をしなかったのも。
全部、私。
『ほたる、大丈夫?』
大丈夫。
そう返したかった。
いつもみたいに、短く。
スタンプひとつでもいいから。
でも、指は動かなかった。
『お願いだから、ひとりで背負い込まないで。』
その言葉に。
胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。
どうして。
どうして、この人は。
こんなにまっすぐ、自分を心配してくれるのだろう。
利用価値とか。
利益とか。
契約とか。
そういうものではなく。
ただ、ほたるという人間を。
心配してくれている。
それが。
本当に、嬉しかった。
嬉しくて。
苦しかった。
『頼って。』
頼る?
そんなこと、考えたこともなかった。
誰かに頼れば、弱みになる。
誰かに縋れば、利用される。
助けてくれる人間には、必ず対価がいる。
そうやって生きてきた。
そう教えられてきた。
それで間違っていないと思っていた。
けれど。
『ほたるは、もっと誰かに頼っていい。』
弓弦の声は、違った。
見返りなんて求めていない声だった。
ただ。
こちらへ手を伸ばしてくれる声だった。
『君が願ったら、誰だって手を貸すはずだ。』
ほたるは、スマートフォンを握りしめる。
涙は出なかった。
泣き方なんて、とっくに忘れていた。
でも。
胸の奥が熱かった。
どうしようもなく。
苦しいくらいに。
ああ。
私。
この人のこと――。
その先の言葉は、声にならなかった。
認めた瞬間。
何かが壊れてしまいそうだった。
でも、もう遅い。
とっくに気付いていたのかもしれない。
毎日のLINEが楽しみだったこと。
撮影現場で姿を探していたこと。
くだらない話に笑ってしまったこと。
名前を呼ばれるだけで、少し安心したこと。
弓弦が笑うと、胸の奥が柔らかくなったこと。
全部。
仕事だと思っていた。
そう思わなければいけなかった。
けれど。
違った。
ほたるはスマートフォンを胸に抱く。
病室の扉の向こうでは、妹が眠っている。
廊下には、誰もいない。
世界でひとりだけになったような静けさの中で。
ほたるは初めて。
自分の心の名前を知った。
好き。
それは。
あまりにも遅くて。
あまりにも苦しい感情。
◇◇◇
数日後。
ルミエ・エンターテインメントとアステリア・プロダクション、両社から同時に一通の発表が行われた。
文章は短かった。
必要以上の説明は、一切ない。
ただ、事実だけが静かに並べられていた。
――ほたるは体調不良のため、当面の間、芸能活動を休止いたします。
――双方話し合いの結果、ほたるの体調を最優先に考えた判断です。
――温かく見守っていただけますよう、お願い申し上げます。
それだけだった。
破局という言葉は使われない。
喧嘩も。
裏切りも。
熱愛も。
何一つ書かれていない。
ただ。
「体調を気遣ってのお別れ」。
世間は、その一文を静かに受け止めた。
◇ ◇ ◇
SNSには、瞬く間に投稿が溢れる。
『うそでしょ……。』
『ほたるちゃん、大丈夫なの?』
『お願いだから無理しないで。』
『ゆずほた、本当に大好きだった。』
『回復したら、また二人で笑ってほしい。』
誰かを責める声は、不思議なほど少なかった。
それ以上に大きかったのは。
心配だった。
そして。
喪失感だった。
「ゆずほたロス」
そんな言葉が、自然と広がっていく。
切り抜き動画が何度も再生される。
テーマパークで笑い合う二人。
ランチで「あーん」をする場面。
夜のショーを見上げる横顔。
番組で照れながら笑う弓弦。
柔らかく微笑むほたる。
どの映像を見ても。
あまりにも幸せそうだった。
だからこそ。
余計に胸が締め付けられた。
◇ ◇ ◇
それから数日後。
弓弦は音楽番組の生放送に出演していた。
いつものように歓声が響く。
ステージを終え。
トークコーナーへ移る。
MCが一瞬だけ表情を和らげた。
「御影さん。」
「はい。」
「少しだけ、お聞きしてもいいですか?」
スタジオが静かになる。
誰もが、その話題だと分かっていた。
「ほたるさんの件……心配されていますよね。」
弓弦は一瞬だけ目を伏せた。
何を話せばいいのだろう。
本当のことは言えない。
約束した。
近付かない。
連絡もしない。
何も話さない。
だから。
言えることは、一つだけだった。
ゆっくり顔を上げる。
柔らかく微笑んだ。
「……すみません。」
短く頭を下げる。
「詳しいことは、僕の口からお話しすることはできません。」
その言葉に、会場は静まり返る。
弓弦は少しだけ間を置き、続けた。
「でも。」
優しく笑う。
「ほたるさんの回復を。」
一呼吸。
「一ファンとして。」
「誰よりも、一番に心待ちにしています。」
その笑顔は。
どこか寂しそうだった。
無理に作った笑顔ではない。
泣くのを堪えるような笑顔でもない。
ただ。
大切な人の幸せだけを願っている。
そんな穏やかな表情だった。
MCはそれ以上何も聞かなかった。
「きっと、視聴者のみなさんも同じ気持ちですね。」
その一言で話題は終わる。
だが。
放送終了後。
その短いコメントは、何度もネットニュースになった。
『御影弓弦「一ファンとして、一番に回復を心待ちにしています」』
『最後まで相手を気遣うコメントに感動』
『恋人ではなく、“ファン”という言葉を選んだ理由』
SNSでは再び多くの声が上がる。
『切ない……。』
『本当に好きだったんだね。』
『あんな顔、初めて見た。』
『王子じゃなくて、一人の男だった。』
画面の向こうの弓弦は、いつも通り笑っていた。
けれど。
その笑顔には。
以前のような眩しさはなかった。
どこか静かな哀愁が漂っていて。
それが、かえって人々の胸を打った。
◇ ◇ ◇
一週間。
二週間。
そして、一か月。
季節だけが静かに進んでいく。
けれど。
ルミエ・エンターテインメントの公式サイトは更新されない。
ほたるのオフィシャルブログも。
動画配信も。
SNSも。
何一つ動かなかった。
まるで。
芸能界から、その存在だけが静かに消えてしまったようだった。
弓弦は毎朝、無意識に公式ページを開いてしまう。
今日こそは。
何か報告があるかもしれない。
その期待は、今日も静かに裏切られた。
「……ほたる。」
小さく名前を呼ぶ。
返事は、まだなかった。




