64.
⭐︎64.
怒っている。
社長室に呼ばれた瞬間、それが分かった。
部屋の景色は、いつもと何一つ変わらない。
大きな窓から差し込む午後の光。
磨き上げられた木目の机。
壁一面に並ぶ賞状やトロフィー。
静かに漂う紅茶の香り。
けれど。
空気だけが違っていた。
ぴん、と糸を張ったような緊張感。
不用意に口を開けば、それだけで何かが壊れてしまいそうなほど、部屋は静まり返っている。
レナは無意識に背筋を伸ばした。
理由なんて考えるまでもない。
ソファへ目を向ける。
ほたるは出された紅茶を、いつも通りの顔で飲んでいた。
白いカップを両手で持ち、小さく一口。
まるで雑誌の撮影でも始まりそうな落ち着きようだった。
(いやいやいや。)
(アンタどんだけ肝すわってんの?)
(少しは焦ってよ。)
心の中だけでツッコむ。
だが、その平然とした姿を見てしまうと、自分だけが取り乱すわけにもいかなかった。
深呼吸を一つ。
レナは表情を整えた。
デスクの向こうでは、篠宮誘人がいつものように穏やかに微笑んでいる。
優しい笑顔。
柔らかな物腰。
芸能界では「理想の社長」と評される男。
それでも。
レナは知っている。
この人は今、笑っていない。
笑っているのは口元だけだ。
青い瞳の奥には、冬の湖のような冷たさが沈んでいた。
怒鳴る人間より、よほど怖い。
静かに相手を追い詰める時の篠宮は、決まってこんな目をする。
やがて篠宮は何も言わず、机の上のタブレットをこちらへ滑らせた。
画面に映っていたのは、電子版のニュース記事。
朝からテレビで繰り返し報じられている、未成年飲酒問題だった。
派手な見出し。
店の写真。
事情聴取を受ける関係者。
レナは記事を見た瞬間、小さく息を呑む。
(……やっぱり。)
証拠はない。
けれど、分かってしまう。
これは。
篠宮がやりそうな手口だった。
自分では決して表へ出ない。
手を汚さず、それでいて相手だけを確実に追い詰める。
そんな芸当を、この人は笑顔のままでやってしまう。
しばらく記事を眺めていた篠宮が、小さく息をついた。
「上手く、逃したね。」
責めるような声音ではない。
むしろ感心しているような、穏やかな声。
だからこそ怖かった。
ほたるは紅茶をソーサーへ戻す。
小さな音が、静かな部屋によく響いた。
そして、にこりと笑う。
『うん。』
ほんの少しだけ。
挑発するような笑みだった。
(おいっ!)
(その笑い方はやめて!)
(今、一番やっちゃいけないやつだから!)
レナは心の中で頭を抱えた。
案の定、篠宮は一度だけ目を閉じる。
それから長いため息を吐き、前髪をかき上げた。
「……やれやれ。」
困った子だ、とでも言いたげな笑み。
「ほたる。」
「困るよ。」
静かな声だった。
「こんなことをされたら。」
一拍置く。
「また用意しなきゃいけない。」
穏やかな言葉。
怒気はない。
けれど、その一言だけで部屋の温度が数度下がった気がした。
一度止めても意味はない。
二度でも。
三度でも。
君が諦めるまで、何度でも用意する。
そんな無言の脅しが、その言葉には込められていた。
レナは拳をぎゅっと握る。
(……ほんと、この人怖い。)
笑顔でここまで圧をかけられる人間を、他に知らない。
静かな時間が流れる。
ほたるは少しだけ視線を落とし、それから穏やかに口を開いた。
『誘人さん。』
「うん?」
『私、疲れた。』
その一言に。
篠宮の眉が、ほんのわずかに動いた。
ほたるは小さく笑う。
『しばらく、お休みもらおうかな。』
『心身の問題ってことにして。』
『一か月くらい休めば、なんとかなるんじゃない?』
レナは思わず目を丸くする。
(……え?)
(休む?)
(ほたるが?)
仕事が生きる意味。
お金は友達。
働くことしか考えていない。
休みより仕事。
そんな守銭奴が、自分から休みを願い出るなんて。
初めて聞いた。
篠宮も同じだったらしい。
露骨に口を尖らせる。
その不満そうな表情に、レナは少しだけ呆れる。
(この人、本当に分かりやすいな。)
外では完璧な策士。
けれど、ほたるのことになると驚くほど感情が顔に出る。
まるで、大切なおもちゃを誰かに取られた子どもみたいだった。
やっていることは、まったく可愛くないけれど。
レナは胸の奥がじんわり熱くなる。
ほたるは、自分を守るためじゃない。
弓弦を守るために休もうとしている。
誰よりも優しい少女だから。
その優しさを、レナは知っていた。
篠宮は頬杖をつきながら、小さく尋ねる。
「そんなに大切?」
レナは心の中で即座に返す。
(お前と違って、ほたるは本来優しい。)
(今日ほどコイツを殴りたいと思ったの初めてかも。)
(……前からちょっと苦手だったけど。)
(ほんと、ムカつく。)
(なんで私、この人の下で働いてるんだろ。)
そこで現実に戻る。
(……給料いいからだ。)
(あ、ほたるのこと言えないや。)
自分で自分に苦笑した。
篠宮は視線をほたるへ戻す。
「御影弓弦。」
「本気で好きになった?」
ほたるは紅茶を一口飲み、いつも通りの無表情で答えた。
『まさか。』
『お金にならないことはしない。』
「じゃあ?」
ほたるは少しだけ考えてから、小さく笑う。
『でも。』
『弓弦さんには、たくさん稼がせてもらった。』
『恩を仇で返すのは嫌だから。』
それだけ。
恋だとは言わない。
好きだとも言わない。
それでも、その言葉は十分だった。
しばらく沈黙が続く。
やがて、ほたるは少しだけ首を傾げ、柔らかく笑った。
『お休み、ちょうだい。』
その一言に。
篠宮は長く息を吐いた。
困ったように笑って、肩をすくめる。
「……仕方ないな。」
「今回だけだよ。」
「一か月。」
「その代わり。」
「『ゆずほた』は終わり。」
「連絡もしない。」
「必要以上に近づかない。」
「休みが終わったら、あとはこっちで上手くやる。」
ほたるは嬉しそうに目を細める。
『ありがとう。』
その笑顔を見た篠宮は、観念したように苦笑した。
「……ほんと。」
「君には甘くなっちゃうな。」
その声には、怒りも苛立ちも、もうほとんど残っていなかった。
そう言って。
『ほたる、おいで。』
自然な仕草で膝を叩く。
ほたるも抵抗せず。
当たり前のようにその膝へ腰を下ろした。
篠宮は長い黒髪を優しく梳く。
「こんな我儘。」
「今回だけだからね。」
『うん。』
ほたるは柔らかく笑う。
『ちょうどリンリンの側にいたかったし。』
『ちょうど良かった。』
その名前に。
篠宮の表情が少しだけ和らいだ。
「りんちゃん。」
「体調は?」
ほたるの笑顔が曇る。
『……あんまり、よくないかな。』
「そっか。」
慰めるように頭を撫でる。
リンリン。
ほたるが生きる理由。
心臓移植を待つ、小さな妹。
海外で手術を受けるには、莫大な費用が必要だった。
時間も。
命も。
待ってはくれない。
だから。
ほたるは今日まで、誰よりも必死に働いてきた。
静かな空気の中。
篠宮はとびきり優しい声で囁く。
「ねぇ。」
「僕が、その費用を全部出すって言ったら、どうする?」
ほたるが顔を上げる。
篠宮は微笑んだ。
美しいほど穏やかに。
「一度はしようと思ってたんだ。」
『ほたるが相手なら、いいかなって。』
「……結婚する?」
レナの心臓が跳ねた。
思わず。
今すぐ殴ってしまいそうになる。
けれど。
手は動かなかった。
怖かったからだ。
ほたるは。
妹を助けるためなら。
自分の人生なんて、迷わず差し出す。
そんな少女だと。
誰よりも知っていたから。
長い沈黙が落ちる。
やがて。
ほたるはゆっくりと俯き──。
静かに、口を開いた。
とびきりの笑顔で。




