表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日のスピカ。  作者: ツユクサリヒト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/72

64.



⭐︎64.




怒っている。



 社長室に呼ばれた瞬間、それが分かった。



 部屋の景色は、いつもと何一つ変わらない。






 大きな窓から差し込む午後の光。


 磨き上げられた木目の机。



 壁一面に並ぶ賞状やトロフィー。


 静かに漂う紅茶の香り。




 けれど。


 空気だけが違っていた。




 ぴん、と糸を張ったような緊張感。


 不用意に口を開けば、それだけで何かが壊れてしまいそうなほど、部屋は静まり返っている。







 レナは無意識に背筋を伸ばした。




 理由なんて考えるまでもない。


 ソファへ目を向ける。




 ほたるは出された紅茶を、いつも通りの顔で飲んでいた。


 白いカップを両手で持ち、小さく一口。


 まるで雑誌の撮影でも始まりそうな落ち着きようだった。





(いやいやいや。)


(アンタどんだけ肝すわってんの?)


(少しは焦ってよ。)



 心の中だけでツッコむ。


 だが、その平然とした姿を見てしまうと、自分だけが取り乱すわけにもいかなかった。





 深呼吸を一つ。


 レナは表情を整えた。



 デスクの向こうでは、篠宮誘人がいつものように穏やかに微笑んでいる。




 優しい笑顔。


 柔らかな物腰。


 芸能界では「理想の社長」と評される男。




 それでも。


 レナは知っている。



 この人は今、笑っていない。


 笑っているのは口元だけだ。


 青い瞳の奥には、冬の湖のような冷たさが沈んでいた。




 怒鳴る人間より、よほど怖い。


 静かに相手を追い詰める時の篠宮は、決まってこんな目をする。




 やがて篠宮は何も言わず、机の上のタブレットをこちらへ滑らせた。


 画面に映っていたのは、電子版のニュース記事。


 朝からテレビで繰り返し報じられている、未成年飲酒問題だった。




 派手な見出し。


 店の写真。


 事情聴取を受ける関係者。


 レナは記事を見た瞬間、小さく息を呑む。




(……やっぱり。)



 証拠はない。


 けれど、分かってしまう。




 これは。


 篠宮がやりそうな手口だった。


 自分では決して表へ出ない。




 手を汚さず、それでいて相手だけを確実に追い詰める。


 そんな芸当を、この人は笑顔のままでやってしまう。





 しばらく記事を眺めていた篠宮が、小さく息をついた。






「上手く、逃したね。」





 責めるような声音ではない。


 むしろ感心しているような、穏やかな声。




 だからこそ怖かった。


 ほたるは紅茶をソーサーへ戻す。


 小さな音が、静かな部屋によく響いた。





 そして、にこりと笑う。





『うん。』



 ほんの少しだけ。


 挑発するような笑みだった。





(おいっ!)


(その笑い方はやめて!)


(今、一番やっちゃいけないやつだから!)





 レナは心の中で頭を抱えた。


 案の定、篠宮は一度だけ目を閉じる。



 それから長いため息を吐き、前髪をかき上げた。







「……やれやれ。」




 困った子だ、とでも言いたげな笑み。





「ほたる。」


「困るよ。」




 静かな声だった。



 


「こんなことをされたら。」





 一拍置く。


「また用意しなきゃいけない。」






 穏やかな言葉。


 怒気はない。


 けれど、その一言だけで部屋の温度が数度下がった気がした。




 一度止めても意味はない。


 二度でも。


 三度でも。



 君が諦めるまで、何度でも用意する。


 そんな無言の脅しが、その言葉には込められていた。




 レナは拳をぎゅっと握る。





(……ほんと、この人怖い。)




 笑顔でここまで圧をかけられる人間を、他に知らない。


 静かな時間が流れる。






 ほたるは少しだけ視線を落とし、それから穏やかに口を開いた。





『誘人さん。』


「うん?」



『私、疲れた。』




 その一言に。


 篠宮の眉が、ほんのわずかに動いた。







 ほたるは小さく笑う。






『しばらく、お休みもらおうかな。』



『心身の問題ってことにして。』



『一か月くらい休めば、なんとかなるんじゃない?』






 レナは思わず目を丸くする。



(……え?)


(休む?)


(ほたるが?)




 仕事が生きる意味。


 お金は友達。


 働くことしか考えていない。



 休みより仕事。


 そんな守銭奴が、自分から休みを願い出るなんて。




 初めて聞いた。


 篠宮も同じだったらしい。



 露骨に口を尖らせる。


 その不満そうな表情に、レナは少しだけ呆れる。





(この人、本当に分かりやすいな。)




 外では完璧な策士。


 けれど、ほたるのことになると驚くほど感情が顔に出る。



 まるで、大切なおもちゃを誰かに取られた子どもみたいだった。


 やっていることは、まったく可愛くないけれど。




 レナは胸の奥がじんわり熱くなる。



 ほたるは、自分を守るためじゃない。


 弓弦を守るために休もうとしている。



 誰よりも優しい少女だから。


 その優しさを、レナは知っていた。








 篠宮は頬杖をつきながら、小さく尋ねる。



「そんなに大切?」




 レナは心の中で即座に返す。




(お前と違って、ほたるは本来優しい。)


(今日ほどコイツを殴りたいと思ったの初めてかも。)



(……前からちょっと苦手だったけど。)


(ほんと、ムカつく。)


(なんで私、この人の下で働いてるんだろ。)



 そこで現実に戻る。



(……給料いいからだ。)


(あ、ほたるのこと言えないや。)


 自分で自分に苦笑した。






 篠宮は視線をほたるへ戻す。




「御影弓弦。」


「本気で好きになった?」





 ほたるは紅茶を一口飲み、いつも通りの無表情で答えた。



『まさか。』


『お金にならないことはしない。』



「じゃあ?」




 ほたるは少しだけ考えてから、小さく笑う。



『でも。』


『弓弦さんには、たくさん稼がせてもらった。』


『恩を仇で返すのは嫌だから。』




 それだけ。


 恋だとは言わない。


 好きだとも言わない。



 それでも、その言葉は十分だった。


 しばらく沈黙が続く。






 やがて、ほたるは少しだけ首を傾げ、柔らかく笑った。





『お休み、ちょうだい。』




 その一言に。







 篠宮は長く息を吐いた。







 困ったように笑って、肩をすくめる。




「……仕方ないな。」


「今回だけだよ。」



「一か月。」


「その代わり。」


「『ゆずほた』は終わり。」



「連絡もしない。」


「必要以上に近づかない。」


「休みが終わったら、あとはこっちで上手くやる。」










 ほたるは嬉しそうに目を細める。







『ありがとう。』





 その笑顔を見た篠宮は、観念したように苦笑した。




「……ほんと。」


「君には甘くなっちゃうな。」






 その声には、怒りも苛立ちも、もうほとんど残っていなかった。



 そう言って。




『ほたる、おいで。』




 自然な仕草で膝を叩く。


 ほたるも抵抗せず。



 当たり前のようにその膝へ腰を下ろした。



 篠宮は長い黒髪を優しく梳く。




「こんな我儘。」


「今回だけだからね。」



『うん。』




 ほたるは柔らかく笑う。

 


『ちょうどリンリンの側にいたかったし。』


『ちょうど良かった。』





 その名前に。


 篠宮の表情が少しだけ和らいだ。



「りんちゃん。」


「体調は?」




 ほたるの笑顔が曇る。





『……あんまり、よくないかな。』


「そっか。」



 慰めるように頭を撫でる。





 リンリン。



 ほたるが生きる理由。




 心臓移植を待つ、小さな妹。



 海外で手術を受けるには、莫大な費用が必要だった。




 時間も。


 命も。


 待ってはくれない。





 だから。


 ほたるは今日まで、誰よりも必死に働いてきた。


 静かな空気の中。







 篠宮はとびきり優しい声で囁く。



「ねぇ。」


「僕が、その費用を全部出すって言ったら、どうする?」








 ほたるが顔を上げる。

   




 篠宮は微笑んだ。


 美しいほど穏やかに。





「一度はしようと思ってたんだ。」







『ほたるが相手なら、いいかなって。』








「……結婚する?」

















 レナの心臓が跳ねた。



 思わず。


 今すぐ殴ってしまいそうになる。







 けれど。


 手は動かなかった。









 怖かったからだ。


 ほたるは。



 妹を助けるためなら。


 自分の人生なんて、迷わず差し出す。








 そんな少女だと。


 誰よりも知っていたから。


 長い沈黙が落ちる。





 やがて。


 ほたるはゆっくりと俯き──。









 静かに、口を開いた。


 とびきりの笑顔で。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ