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あの日のスピカ。  作者: ツユクサリヒト


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63.





⭐︎63.




 ほたるが帰ったあと。


 社長室には静かな空気だけが残っていた。




 テーブルの上には、ほとんど手の付けられていない紅茶。


 湯気はもう消えかけている。


 御影沙織は、そのカップを見つめたまま動かなかった。




 頭から離れない。


 最後まで丁寧に頭を下げて去っていった少女の姿が。




 ――『お願いします。』



 ――『弓弦さんを守ってください。』



 ――『当面の間、絶対に一人にしないでください。』





 あの瞳。


 あれは、演技ではない。



 自分のことではなく。


 誰かを守りたい人間の目だった。




「……。」



 沙織はゆっくり息を吐く。


 机の上のスマートフォンを手に取り、一つの番号を押した。



 数回のコール音。




『はい。阿久津です。』





  



     ◇ ◇ ◇






「お疲れ様でした!」


 撮影を終えた弓弦は、大きく伸びをした。




「腹減ったぁ……。」


「今日はこの後、会食です。」


 隣を歩く阿久津が手帳を確認する。



「あー、そうだった。」


 今日の予定は、芸能関係者との会食。



 若手俳優やクリエイターも参加する交流の場。


 仕事の一環だった。



「めんどくさいなぁ。」


「仕事です。」


「分かってるって。」



 笑いながら車へ乗り込む。


 いつものように後部座席。



 助手席には阿久津。


 車は夜の街を静かに走り始めた。




「神崎たちは?」


「今日はそれぞれ、別な現場です。」


「そっか。」



「何人くらい来るんですか?」


「二十名ほどと聞いております。」


「多いなぁ。」



「人脈作りも仕事です。」


「はいはい。」



 弓弦は窓の外を眺める。


 信号をいくつか越え。



 目的地まで、あと数分という頃だった。


 阿久津のスマートフォンが震える。


 画面が見えた瞬間、その表情がわずかに変わった。





「少々失礼します。」



 そう言って。


 車は路肩へゆっくり停車した。




「え?」


 弓弦が首を傾げる。



「どうしたんです?」


「少々、お待ちください。」


 

 阿久津は車を降りる。



 夜風がスーツの裾を揺らした。


 少し離れた場所で電話に出る。















「はい。阿久津です。」






 電話の相手は、沙織だった。




「ごめんなさい、急だけど。」



「はい。」



「今日の会食、行かせないで。」



 一瞬だけ沈黙が流れる。





 落ち着いた声が聞こえる。





「阿久津さん、今少し話せるかしら?」


「…はい。ちょうど御影さんを送迎中でした。」






 沙織は一瞬だけ言葉を選んだ。



「さっき、ほたるさんが私を訪ねてきたの。」


「……ほたるさんが、ですか。」



 驚きはあった。


 だが、それ以上は何も聞いてこない。



 沙織は静かに続けた。



「極秘で、私に会いに来たわ。」


『……。』


「そして、一つだけお願いをされたの。」




 阿久津は黙って耳を傾ける。


「『弓弦さんを守ってください。』『当面の間、絶対に一人にしないでください。』って。」





 短い沈黙。


 電話越しに車の走る音だけが聞こえる。



「理由は、お聞きになりましたか。」


「聞いたわ。」



「でも、詳しくは話せないみたいだった。」


「そうですか。」


 それだけだった。



 余計な詮索はしない。


 阿久津らしい返事だった。




「正直、私にも分からないの。」



 沙織は正直に話した。




「本当に何か起きるのか。」


「それとも、考えすぎなのか。」


「……。」


「でも。」



 静かな声になる。


「私は、あの子の目が忘れられない。」


「本気で怯えていた。」



 電話の向こうで、小さく息を吸う音がした。


 そして。





「承知しました。」



 短く。


 迷いなく。



「御影さんを、当面の間、絶対に一人にはしません。」





 沙織は少しだけ肩の力を抜いた。



「ありがとう。」


「お任せください。」


 電話が切れる。






 静かな社長室。


 沙織はスマートフォンを置くと、小さく窓の外を見つめた。





「……お願いね。」








「あの子のこと、お願いね。」








 阿久津は静かにスマートフォンをしまう。


 その横顔は、普段よりも少しだけ険しかった。








 通話を終えて。


 車へ戻る。




「お待たせしました。」


「何だったんです?」



 弓弦が不思議そうに尋ねる。


 阿久津はシートベルトを締めると、運転手へ告げた。




「予定を変更します。」


「会食はキャンセルです。」



「……え?」


 弓弦が固まる。




「いや、もうすぐ着くよ?」


「承知しております。」



「じゃあ何で?」


「社長判断です。」



「え?」


「本日の会食は欠席します。」


「ちょ、ちょっと待って!」



 弓弦は思わず身を乗り出した。


「急にドタキャンなんて失礼じゃない?」


「先方への対応は私が行います。」



「でも!」


「責任はすべてこちらで負います。」



 きっぱりと言い切る。


 その声には、有無を言わせない強さがあった。




「……。」


 弓弦は阿久津の横顔を見る。


 普段と同じ表情。



 けれど。


 長い付き合いだから分かる。



 何かがおかしい。




「……何かあった?」



 小さく尋ねる。


 阿久津は前だけを見たまま答えた。




「いいえ。」


「今日は、お帰りいただきます。」



 それ以上は何も話さなかった。


 車は静かに方向を変え、来た道を引き返していく。


 窓の向こうには、もうすぐ入るはずだった店の灯りが、小さく遠ざかっていった。









◇◇◇








 翌朝。




「おはようございまーす!」


 まだ眠気の残る声とともに、弓弦はAsterismの楽屋へ入った。



 いつも通り。


 コーヒーの香り。



 スタッフの慌ただしい足音。


 メンバーの何気ない会話。


 何一つ変わらない朝だった。




「おはよー。」


 水城がソファから手を上げる。




 神崎は台本を読み、黒瀬はスマートフォンをいじっている。




「昨日の会食、結局どうなった?」


 黒瀬が何気なく尋ねた。




「それがさ。」



 弓弦は苦笑いする。


「店の手前で急にドタキャン。」


「は?」




 水城が吹き出す。


「何それ。」

 


「俺が聞きたい。」



 弓弦は肩をすくめた。




「阿久津さん、『社長判断です』しか言わないし。」


「怒られなかったの?」


「それも分かんない。」






 その時だった。




 バンッ。


 楽屋の扉が勢いよく開く。





「御影さん。」



 阿久津だった。


 いつも以上に険しい表情。




「テレビを。」


「え?」



 スタッフが慌ててモニターをつける。


 朝の情報番組。


 赤い速報テロップが流れていた。







『芸能関係者らによる未成年飲酒か』



『人気インフルエンサーらを書類送検へ』



『昨夜、都内飲食店で——』





 店の外観が映る。


 次々と店へ入っていく人々。




 人気俳優。


 モデル。


 インフルエンサー。


 SNSで名前を見るような若者ばかりだった。




「……あ。」


 弓弦の顔から笑みが消える。




「ここ。」




 昨日。


 自分が向かっていた店だった。







 スタジオ中が静まり返る。




 映像はさらに続く。


 店内から運び出される酒。




 警察車両。


 事情聴取を受ける関係者。




 そして。





『参加者の中には未成年タレントも含まれていたとみられ——』




 スタッフの誰かが息を呑む。





「……マジか。」


 水城が呟く。




 黒瀬も言葉を失っていた。






 神崎だけが、静かに阿久津を見る。



「阿久津さん。」


「はい。」


「昨日。」


「ええ。」



 二人だけで通じる会話。


 神崎はそれ以上聞かなかった。





 弓弦だけが状況についていけない。


「……え?」


 テレビと阿久津を交互に見る。




「俺。」


「昨日。」


「ここ行く予定だったよね?」


「はい。」


 阿久津は短く答える。





「あと十分ほど遅ければ、御影さんも店へ入っていました。」


「……。」




 楽屋が静まり返る。



 弓弦はゆっくりソファへ腰を下ろした。


「え……。」



 本当に、それしか出てこない。


「じゃあ俺……。」



 昨日、予定通り店へ入っていたら。




 テレビには。


 今映っている人たちの中に。


 自分もいた。




 たとえ酒を飲んでいなくても。


 未成年に酒を勧めていなくても。




 写真は切り取られる。


 映像は残る。


 見出しは作られる。





『人気アイドル、未成年飲酒の場に同席』




 その一文だけで十分だった。





 スポンサーは離れる。


 CMは止まる。


 番組は降板。


 世間は説明より先に結論を出す。




 弓弦はようやく、その恐ろしさを理解した。





「……何これ。」


 小さく呟く。




「偶然……?」






 その言葉に。


 阿久津は答えなかった。




 昨日の電話。


 沙織の真剣な声。


 ――『今日の会食、行かせないで。』


 


 




 もし、あの一本の電話がなければ。


 もし、十分だけ到着が早ければ。





 御影弓弦の名前も。


 今、このニュースで読み上げられていたかもしれない。




 阿久津の背中を、冷たい汗がゆっくりと伝う。










 同じ頃。



 アステリア・プロダクション社長室。


 ニュース映像を見つめながら、御影沙織は静かに目を閉じた。






「……ほたるさん。」





 昨日の少女の声が蘇る。




 ――『誘人さんが、動きます。』


 ――『もしかしたら、もう動いているかも。』





 あれは。


 ただの心配ではなかった。





 あの子は。


 この未来を、本気で恐れていたのだ。


 沙織は静かに窓の外を見つめる。





「ありがとう。」




 その言葉は。


 もうここにはいない、一人の少女へ向けられていた。

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