62.
⭐︎62.
社長室を出たあと。
ほたるは一度も立ち止まらなかった。
廊下を静かに歩き、エレベーターに乗る。
映る自分の顔は、いつも通り。
完璧な笑顔。
完璧なアイドル。
誰にも違和感を抱かせない仮面。
けれど。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、その笑顔はすっと消えた。
行き先は決まっている。
屋上近くにある、関係者専用の喫煙スペース。
ほたる自身は煙草を吸わない。
けれど、そこには今いるはずだった。
『レナ。』
ガラス扉を開けると、紫煙がふわりと漂う。
窓際にもたれ、煙草をくわえていたレナが振り返る。
「あ、話終わった?」
いつもの軽い口調。
だが、その一言に返ってきたほたるの表情を見た瞬間、レナの笑みが少しだけ消えた。
『……時間、作って。』
「は?」
『一時間でいい。』
レナは思わず眉を寄せる。
「今日のあんたのスケジュール、分刻みだったでしょ。」
『うん。』
「無理よ。」
『無理でも。』
ほたるは静かに首を横へ振った。
『やらなきゃいけない。』
その一言は短かった。
けれど。
デビューしてから何年も隣で見てきたレナには、それだけで十分だった。
仕事以外では。
眠い。
面倒。
帰りたい。
それしか言わない女。
必要最低限しか自分から動かない女。
そのほたるが。
自分から何かを頼んでいる。
しかも。
こんな真剣な顔で。
レナは煙草を灰皿へ押し付けた。
「……誰に会うの?」
少しだけ間が空く。
『アステリア・プロダクションの社長。』
レナの目が見開かれる。
「は?」
思わず息を呑む。
「ちょっと待って。」
さすがのレナも混乱していた。
「何する気?」
『話したいことがあるの。』
「理由は?」
ほたるは静かに首を振る。
『言えない。』
そして、小さく付け加えた。
『……誘人さんには、絶対に気付かれちゃだめ。』
その一言で。
空気が変わる。
レナはゆっくりとほたるを見つめた。
長い付き合いだった。
デビュー前から。
何度も泣いて。
何度も笑って。
その隣にいた。
だからこそ分かる。
詳しく説明なんていらない。
最近のほたるを見ていれば。
誘人を見る目。
弓弦を見る目。
全部、変わっていた。
「…かなり無茶言うわね。」
『うん。』
「最後の条件が一番無理。」
苦笑しながら腕を組む。
「相手は篠宮誘人よ?」
『分かってる。』
「しかも、アステの社長に極秘で会う?」
『……うん。』
しばらく沈黙が流れた。
やがてレナは大きく息を吐く。
「でも。」
少し笑う。
「阿久津先輩がいるか。」
大学時代の先輩。
今はアステリア・プロダクションの敏腕マネージャー。
真面目で融通は利かない。
だが、一度信じた相手は決して裏切らない男。
「分かった。」
レナは短く言った。
「任せて。」
その瞬間だった。
ほたるが、ふっと笑った。
心から安心したような、小さな笑顔。
『ありがとう。』
『……あと。』
ほたるは少しだけ困ったように続ける。
『弓弦さんにも、ばれないで。』
「注文多いな!」
思わず声を上げるレナ。
「どっちかにしなさいよ!」
『よろしく。』
それだけ言って歩き始める。
その姿に。
レナは苦笑するしかなかった。
「はいはい。」
「任された。」
◇ ◇ ◇
その日。
御影沙織は珍しく仕事の手を止めていた。
秘書から渡された一枚のメモ。
そこに書かれた名前を見て、思わず読み返す。
「……ほたる?」
急な面会希望。
芸能界では珍しくない。
だが。
ほとんど断る。
それが今日に限っては違った。
国民的アイドル。
そして。
息子が毎日のように名前を口にする相手。
ビジネス上の恋人。
「通して。」
断る理由はなかった。
数分後。
ノックの音が響く。
『失礼します。』
部屋へ入ってきた少女を見た瞬間。
沙織は小さく目を見張った。
テレビで見るままだった。
白い肌。
整った顔立ち。
歩き方。
所作。
座る姿勢。
指先まで美しい。
まるで完成されたなにか。
存在感が違う。
圧倒されるほど完璧なアイドルだった。
けれど。
今日だけは。
何かが違う。
その瞳の奥に。
静かな覚悟が宿っていた。
『急にお時間をいただき、申し訳ありません。』
深く頭を下げる。
『お時間をくださり、本当にありがとうございます。』
礼儀正しい。
弓弦から聞いていた通りだった。
いい子。
本当に。
その一言に尽きる。
沙織は優しく微笑む。
「いいの。」
「一度、あなたとはお話ししてみたかったし。」
そう言うと。
ほたるはじっと沙織の顔を見る。
そして。
机の上の名刺へ視線を落とした。
“御影沙織”
その文字を見て。
ほんの一瞬だけ。
複雑そうな表情になる。
その意味を理解し、沙織は小さく笑った。
「息子が、いつもお世話になってるわね。」
『……え。』
本当に驚いた顔だった。
目を丸くして。
口が少しだけ開く。
その一瞬だけ。
完璧なアイドルの仮面が外れた。
年相応の、18歳そこそこの女の子。
御影弓弦は事務所社長の息子。
それを知らない人は多い。
わざわざ公表しているわけではない。
他事務所ならなおさら知らなくて当然だ。
『……いえ。』
慌てて姿勢を正し。
深く頭を下げる。
『こちらこそ、いつも弓弦さんには大変お世話になっています。』
その礼儀正しさに。
沙織は思わず笑みを深めた。
顔を上げたほたると目が合う。
すると。
にこっ。
花が咲くような笑顔。
……かわいい。
思わず心の中で呟く。
うん。
この子。
本当にかわいい。
弓弦が家で毎日のように騒いでいる理由が、少しだけ分かった気がした。
「それで。」
沙織は静かに切り出す。
「今日は、何かご用があったのでしょう?」
『……はい。』
ほたるは小さく笑う。
『良かった。』
「……良かった?」
その意味を尋ねようとした瞬間。
笑顔が消えた。
空気が変わる。
まるで別人だった。
『今日は。』
真っ直ぐ沙織を見る。
『お願いがあって来ました。』
『弓弦さんのお母様が社長なら、お話が早い。』
そして。
深く頭を下げる。
『お願いします。』
『弓弦さんを、守ってください。』
静かな部屋。
時計の音だけが響く。
『しばらくの間。』
一文字ずつ噛み締めるように。
『絶対に、一人にしないでください。』
沙織は息を呑んだ。
その瞳には。
恐怖が宿っていた。
誰かを心配する人間の目。
『……誘人さんが動きます。』
静かな声だった。
『きっと、何か仕掛けてきます。』
『もしかしたら。』
一瞬だけ視線が揺れる。
『……もう、動いているかもしれません。』
意外だった。
沙織は心の中で呟く。
ずっと。
篠宮誘人の忠実なお人形。
そう思っていた。
けれど。
目の前の少女は違う。
自分より。
誰かを守ろうとしている。
「あなたは……。」
自然と言葉が漏れる。
「大丈夫なの?」
その問いに。
ほたるは少しだけ目を見開いた。
そして。
くすり、と笑う。
花が咲くような。
本当に優しい笑顔だった。
沙織は思わず見惚れる。
『……やっぱり。』
ほたるは柔らかく微笑んだ。
『弓弦さんのお母様ですね。』
『優しいところが。』
『そっくりです。』
それだけ言うと。
紅茶を一口飲み。
静かに立ち上がる。
『今日はありがとうございました。』
深く一礼する。
『沙織さん。』
優しく笑う。
『ちゃんと、お伝えしましたよ。』
その一言だけが、不思議な余韻を残した。
『よろしくお願いしますね。』
最後まで丁寧に頭を下げる。
『失礼します。』
扉が静かに閉まる。
部屋には、紅茶の香りだけが残った。
沙織はしばらく、その扉を見つめたまま動けなかった。
あの少女は。
自分の助けを求めに来たのではない。
最後まで。
ただ一人。
自分ではなく、弓弦を守ってほしいと願っていたのだ。




