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毎月、決まった日に振り込まれる給料。
画面を見れば、思わず目を丸くするような金額が並ぶ。
それは、幼い頃には想像もできなかった数字だった。
生活に困ることはない。
リンリンの治療費も。
将来のための貯金も。
全部、余裕を持って積み立てられる。
仕事も順調。
ドラマも。
CMも。
ライブも。
毎日が忙しい。
けれど、その忙しささえ心地よかった。
どれも質のいい仕事ばかり。
現場の空気も温かい。
スタッフは笑っていて。
共演者も優しい。
そして。
その中でも、一番自然に笑える時間があった。
弓弦さんとの仕事。
……仕事。
そう、自分に言い聞かせていた。
朝、携帯を開けば、LINEが入っている。
おはようございます、と送れば。
『おはよう、ほたるちゃん。』
昼になれば。
『ブログ見たよ。今日のお弁当、また豪華だね。』
『ちゃんと食べた?』
夜になれば。
『今日もお疲れさま。ちゃんと寝るんだよ。』
そんな、本当にどうでもいいやり取り。
仕事の確認より。
他愛もない雑談のほうが多かった。
猫の動画。
新発売のお菓子。
撮影現場の失敗談。
くだらないスタンプの送り合い。
それが、いつの間にか日課になっていた。
仕事だから。
きっと、これも仕事だから。
そう思っていた。
そう思うようにしていた。
だから。
その日も。
何も疑わず、社長室の扉をノックした。
「失礼します。」
「おいで。」
聞き慣れた声。
変わらない、穏やかな声音。
部屋へ入る。
高層ビル最上階。
大きな窓から差し込む午後の光が、社長室を静かに照らしていた。
篠宮誘人は、いつものように微笑んでいる。
初めて会った日から変わらない笑顔。
優しくて。
柔らかくて。
安心できる笑顔。
「座って。」
「はい。」
向かいのソファへ腰掛ける。
温かい紅茶が置かれる。
ふわりと茶葉の香りが広がった。
静かな時間。
そして。
誘人は、いつもの笑顔のまま口を開いた。
「……そろそろ。」
一拍置いて。
「ゆずほた、終わりにしようと思って。」
世界から、音が消えた。
『……。』
理解できなかった。
耳がおかしくなったのかと思った。
終わり。
今、そう言ったのだろうか。
ほたるは瞬きを繰り返す。
言葉が入ってこない。
だって。
こんなに上手くいっているのに?
視聴率も。
スポンサーも。
世間の反応も。
何もかも成功している。
こんなに良い仕事なのに。
どうして。
喉まで言葉が込み上げる。
『どうしてですか。』
そう聞きたかった。
初めて。
初めて、誘人の判断に反論したいと思った。
けれど。
顔を上げた瞬間だった。
誘人は、笑っていた。
あまりにも優しく。
あまりにも穏やかに。
その笑顔を見た瞬間。
言葉は、喉の奥で止まった。
出せなかった。
昔からそうだった。
この人が笑っている時ほど。
本当は何も決まっていない時ほど。
もう全部、決まっている。
「頃合いを見てたんだけど。」
誘人は困ったように肩を竦めた。
「僕の想像を超えてたよ、君たち。」
くすり、と笑う。
「売り上げも申し分ない。」
「反響も予想以上。」
「会社としては大成功。」
そこで一度だけ言葉を切る。
「なんだけど。」
静かに。
ゆっくり。
誘人はほたるを見た。
その瞳だけが。
一瞬だけ。
温度を失う。
「……こんなの。」
冷え切った声だった。
「”ほたる”じゃない。」
ぞくり、と背筋が震えた。
ほんの一瞬。
本当に、一瞬だけだった。
次の瞬間には。
いつもの優しい笑顔が戻っている。
まるで、何事もなかったように。
「ほたる。」
穏やかな声。
「おいで。」
逆らえなかった。
体が勝手に立ち上がる。
机の横まで歩く。
その瞬間。
手首を、そっと掴まれた。
『……!』
軽く引かれる。
気付けば。
ほたるは誘人の膝の上へ向かい合うように座らされていた。
逃げられない距離。
誘人の手が、ゆっくりと長い黒髪に触れる。
耳へ掛ける仕草まで優しい。
壊れ物を扱うように。
丁寧に。
愛おしそうに。
そのまま顎へ指先が添えられる。
視線が重なる。
そして。
唇が重なった。
奪うような口づけ。
深くはない。
けれど、拒絶する隙もないほど自然だった。
唇が離れる。
誘人は少し照れたように笑う。
「……ちょっと。」
くすり。
「焼けた。」
その笑顔を見て。
ほたるは息を呑む。
知っている。
その表情を。
弓弦が。
自分を見る時の顔だ。
優しく。
慈しむように。
大切なものへ向ける眼差し。
似ている。
笑い方も。
目元も。
柔らかさも。
全部、よく似ている。
なのに。
まるで違う。
弓弦の笑顔は、温かい。
安心できる。
胸の奥が柔らかくなる。
でも。
誘人の笑顔は違う。
美しい。
穏やか。
優しい。
そのはずなのに。
見つめられるほど。
胸が締め付けられる。
呼吸が浅くなる。
怖い。
ほたるは、この人の怖さを知っている。
怒鳴らない。
殴らない。
命令もしない。
それでも。
誰より怖い。
笑顔のまま。
人の未来を決められる人だ。
その怖さを知っていたから。
信じた。
ついてきた。
この人なら。
自分が欲しかったものを。
全部、手に入れさせてくれる。
貧乏も。
絶望も。
飢えも。
終わらせてくれた。
だから。
疑わなかった。
……なのに。
今、その笑顔が。
ひどく遠く見える。
知っていたはずなのに。
今さらになって。
初めて、その優しさの奥にあるものが恐ろしく思えた。
『……どうするの?』
ようやく絞り出せた言葉は、それだけだった。
これだけ世間に愛されている。
毎日のようにニュースになっている。
そんな二人が。
“はい、別れました。”
それで終われるはずがない。
誘人は何も驚かなかった。
ただ。
ほたるの頭を優しく撫でる。
子どもをあやすように。
安心させるように。
柔らかな手つきで。
「ほたるが気にすることじゃないよ。」
微笑む。
その笑顔は、あまりにも優しかった。
「全部。」
一拍置いて。
「僕に任せて。」
その一言だけで。
部屋の空気が、ゆっくりと冷えていく気がした。




