57.
⭐︎57.
翌朝。
柔らかな朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。
「……ん。」
ゆっくりと目を覚ました弓弦は、ぼんやりと天井を見上げる。
数秒。
思考が追いつかない。
(……あれ。)
(なんか、あったかい。)
恐る恐る視線を落とした。
「…………。」
止まる。
腕の中。
昨夜眠ってしまったほたるが、小さく丸くなって眠っていた。
寝息は規則正しく、安心しきったような表情。
長いまつ毛。
さらりと頬にかかる髪。
子どものように無防備な寝顔だった。
(…………。)
(天使。)
(いや、本物だ。)
(待って。)
(俺、天使抱きしめて寝てた!?)
(え?)
(昨日の俺、生きてたの?)
(心臓止まらなかった?)
(俺、すごくない?)
(いや違う。)
(死ぬ。)
(今死ぬ。)
限界だった。
朝一番から脳内は大混乱。
本人はまったく気付かず、小さく寝返りを打つ。
ぎゅっ。
無意識に弓弦の服を掴む。
(だめだって!!)
(そんなことされたら!!)
(朝から幸せが致死量なんだけど!!)
心臓が忙しい。
それでも起こさないよう、そっと距離を取ろうとする。
そこで、時計を見た。
「……ほたるちゃん。」
『……。』
「朝だよ。」
『……やだ。』
珍しく即答だった。
布団へ潜ろうとする。
(かわいい。)
(いや、かわいすぎる。)
「撮影あるから。」
『……あと五分。』
「それ、絶対五分じゃ終わらないでしょ。」
『……。』
返事がない。
もう寝ている。
「ほたるちゃーん。」
『……んー。』
肩を揺する。
ゆらゆら。
『……ねむい。』
完全に寝ぼけていた。
結局。
二十分近くかけて、なんとか起床。
眠そうに目を擦りながら洗面所へ向かう姿すら可愛くて、弓弦は終始顔が緩みっぱなしだった。
◇◇◇
ルームウェア姿のまま。
ホテルで朝食の撮影。
パンを頬張りながらも、ほたるはまだ半分夢の中だった。
『……おいしい。』
「起きてる?」
『……起きてる。』
「絶対起きてないよね?」
『……起きてる。』
言いながら欠伸。
スタッフまで笑ってしまう。
眠たそうにスープを飲み。
ぼんやり窓の外を眺め。
時々、こくん、と船を漕ぐ。
普段の完璧なトップアイドルからは想像もできない姿。
そのギャップに、現場は終始和やかな空気だった。
(かわいい……。)
(今日だけで世界中のファン増える。)
弓弦は朝から幸せだった。
◇◇◇
そして。
二日目。
舞台は海のパーク。
大きな地球儀を背景に撮影が始まる。
その瞬間だった。
『おはようございます。』
ほたるが笑う。
さっきまで眠そうだった少女はどこにもいない。
背筋は伸び。
笑顔は完璧。
歩き方まで美しい。
スイッチが入った。
トップアイドル・ほたる。
そのものだった。
(やっぱりすごい。)
弓弦は改めて見惚れる。
だが。
昨日までとは一つだけ違うことがあった。
『弓弦さん。』
自然に袖を軽く掴む。
「!」
歩けば。
肩が触れるくらい近い。
写真を撮る時も。
『こっち。』
距離はぴったり。
何か見つければ。
『見て。』
顔を覗き込んでくる。
昨日まで確かにあった、一歩分の距離。
その境界線が、きれいになくなっていた。
(近い。)
(近い近い近い。)
(昨日より五センチ近い。)
(いや十センチ?)
(え、彼女!?)
(これ彼女じゃない!?)
(スタッフさん見てる!?)
(俺だけじゃないよね!?)
頭の中は大騒ぎだった。
対するほたるは、ごく自然。
隣を歩くのも。
腕を引くのも。
目を合わせて笑うのも。
全部当たり前のように振る舞う。
その姿は。
本当に恋人同士だった。
ほたるの中で。
確かに何かが変わっていた。
昨日。
弓弦から向けられた言葉。
「もっと自分を大事にして。」
その一言は、不思議なくらい心に残っていた。
だからだろうか。
隣にいることが、少しだけ心地よく感じる。
演技だけではない。
ほんの少しだけ。
自然な距離になっていた。
そんな変化にも気付かず。
(かわいすぎる……。)
弓弦は今日も、一人で幸せを噛み締めていた。
青い海を眺めながら。
二人は次のアトラクションへ向かう。
まるで、本物の恋人のように並んで歩きながら。
最初に向かったのは、海のパークのシンボルでもある大きな港だった。
異国の街並み。
石畳。
ゆっくりと進む船。
朝の柔らかな陽射しが海面をきらきらと照らしている。
『きれい。』
ほたるが小さく呟く。
その一言だけで、弓弦の胸はいっぱいになった。
「写真撮ろうか。」
『うん。』
スタッフにカメラを預ける。
「もっと近づいてくださーい。」
ディレクターの声が飛ぶ。
「……。」
弓弦は内心ガッツポーズだった。
(公式から許可出た!!)
(ありがとうございます!!)
(今日も生きてて良かった!!)
そんなことを考えていると。
ほたるの方から一歩近付いた。
肩が軽く触れる。
「……!」
弓弦の身体がぴくっと跳ねた。
『?』
「な、なんでもない!」
『そう?』
首をかしげるほたる。
昨日までなら、写真を撮り終えた瞬間に一歩離れていた。
でも今日は違う。
撮影が終わっても、そのまま隣を歩き始める。
弓弦は必死に平静を装う。
(近い近い近い。)
(心臓の音、絶対聞こえてる。)
(お願いだから落ち着いてくれ、俺。)
◇◇◇
次はゴンドラ。
二人並んで腰を下ろす。
ゆっくりと水面を滑るように船が進んでいく。
穏やかな時間。
心地よい風。
『気持ちいいね。』
「うん。」
ほたるは景色を眺めながら、小さく目を細めた。
『昨日より涼しい。』
「そうだね。」
会話は少ない。
けれど、不思議と沈黙が気まずくない。
それだけで十分だった。
その様子をカメラは静かに映し続けている。
スタッフ同士も顔を見合わせ、小さく頷いた。
「いいですね。」
「いい。」
「何も起きてないのに、見ちゃう。」
「空気が優しいんだよな。」
ディレクターもモニターから目を離せない。
「台本以上だな。」
誰かがぽつりと呟いた。
◇◇◇
昼前。
人気のフードエリアへ。
『あ。』
ほたるの足が止まる。
ショーケースの中には、夏限定の可愛らしいスイーツが並んでいた。
『かわいい。』
目が少しだけ輝く。
弓弦は見逃さなかった。
(かわいいって言った。)
(かわいいがかわいいって言った。)
(もう意味分かんない。)
「食べる?」
『食べたい。』
「じゃあ買おう。」
『ありがとう。』
受け取ったスイーツを、ほたるは嬉しそうに眺める。
一口。
『……おいしい。』
その瞬間だった。
ふっと笑った。
営業用でもない。
テレビ用でもない。
本当に嬉しそうな笑顔。
弓弦は完全に固まった。
(……だめ。)
(かわいすぎる。)
(この笑顔、反則。)
気付けば、自分の分にはまだ一口も手を付けていない。
『弓弦さん。』
「え?」
『溶けるよ。』
「あっ!」
慌てて食べ始める弓弦。
その様子を見て。
ほたるはくすっと笑った。
『ふふ。』
ほんの小さな笑い声。
それだけで十分だった。
弓弦は今日何度目か分からないくらい、胸を押さえる。
(今、笑った……。)
(俺に向かって笑った……。)
(もう帰ってもいい。)
(いや、帰りたくない。)
(今日が終わらないでくれ……。)
その隣で。
ほたるは何も知らず、もう一口スイーツを口へ運ぶ。
海風が二人の髪を優しく揺らした。
◇◇◇
昼時。
海を眺められるテラス席でランチをとることになった。
青い空。
潮風。
遠くをゆっくり進む船。
まるで海外へ来たような景色だった。
「いただきます。」
『いただきます。』
二人並んで席に座る。
今日のメニューは、彩り豊かなプレートランチ。
撮影スタッフも少し離れた場所からカメラを回している。
食事中も、自然な二人を撮るのが目的だった。
弓弦はサラダを口へ運びながら、ちらりと隣を見る。
ほたるは相変わらず上品に食べていた。
一口一口が小さい。
絵になる。
(今日もかわいい……。)
そんなことを考えていると。
『弓弦さん。』
「ん?」
ほたるがフォークを持ったままこちらを見る。
『これ、おいしい。』
「ほんと?」
『うん。』
そう言って。
ごく自然に。
フォークを弓弦の口元へ差し出した。
『あーん。』
「…………。」
止まる。
思考停止。
(あ。)
(あーんだ。)
(今、あーんって言った。)
(俺に?)
(俺!?)
スタッフまで一瞬静まり返る。
ディレクターが小さく拳を握った。
「……そのまま。」
誰にも聞こえないくらい小さな声だった。
弓弦は耳まで真っ赤にしながら口を開く。
「あ、あー……。」
ぱく。
一口食べる。
「……。」
『どう?』
「お、おいしい……。」
『でしょ。』
満足そうに頷くほたる。
それだけだった。
特別な意味もない。
本当に「おいしかったから食べてもらいたい」。
それだけの行動。
だからこそ破壊力があった。
(無理。)
(かわいすぎる。)
(彼女じゃん……。)
(いや、彼女じゃない。)
(でも彼女みたい……。)
混乱する弓弦をよそに。
ほたるは何事もなかったように食事へ戻る。
そして立ち上がる頃。
歩き出した弓弦の隣へ並び。
自然な動作で。
そっと腕へ自分の腕を絡めた。
「……!」
弓弦が固まる。
『次、どこ行くの?』
ほたるは何でもないことのように尋ねる。
昨日までなら、一歩分空いていた距離。
今日は、その距離がない。
寄り添うのも。
腕を組むのも。
ほたるの中では、ごく自然な恋人の振る舞いだった。
その無意識さが、弓弦には一番危険だった。
(近い……。)
(近い近い近い。)
(腕組んでる。)
(俺、今ほたるちゃんと腕組んで歩いてる!?)
(全国放送……。)
(無理、心臓がもたない。)
隣では。
ほたるが楽しそうに海を眺めている。
『風、気持ちいいね。』
「あ……う、うん。」
返事は王子らしくない。
そんな弓弦を見て。
スタッフは笑いを堪えながらカメラを回し続ける。
「いいね。」
「今日の二人、昨日よりずっと自然だ。」
「あれは、なんかあったなー。」
苦笑するスタッフ。
モニター越しに映る二人は。
誰が見ても。
本物の恋人そのものだった。




