55.
⭐︎55.
部屋を出ると、ホテルの廊下は静かだった。
パークの賑やかさが嘘みたいに、ゆったりとした時間が流れている。
「プールって、こっちだよね。」
『うん。』
館内マップを見ながら歩く。
途中、すれ違う宿泊客が何人か二人へ気付き、小さく驚いたような表情を浮かべる。
けれど。
今日はスポンサー貸し切り日。
一般営業ではない。
声を掛けられることもなく、皆が遠慮がちに微笑むだけだった。
「こんにちは。」
弓弦が軽く会釈する。
ほたるも優しく微笑み返す。
『こんにちは。』
その自然な対応に、宿泊客の表情まで柔らかくなる。
弓弦は横目でほたるを見た。
(……やっぱりすごい。)
誰に対しても同じ笑顔。
同じ優しさ。
だから人は惹かれてしまう。
エレベーターで一階まで降りる。
自動ドアが開くと、潮風が頬を撫でた。
「わぁ……。」
思わず声が漏れる。
目の前には、宮殿を思わせる大きな屋内プール。
白い壁。
美しい彫刻。
青く澄んだ水面。
誰もいないプライベートな空間が広がっていた。
『きれい……。』
ほたるが足を止める。
風で銀色の髪がふわりと揺れた。
スタッフは少し離れた位置から、その後ろ姿を静かに撮っている。
ディレクターは何も言わない。
ただ、この空気を壊さないよう見守っていた。
「こちらになります。」
ホテルスタッフに案内され、更衣室へ向かう。
「三十分後にこちらでお願いします。」
「はい。」
二人はそれぞれ更衣室へ入った。
◇ ◇ ◇
十分ほどして。
弓弦が先に出てくる。
「……。」
落ち着かない。
妙に落ち着かない。
今日一日、何度も自分へ言い聞かせてきた。
仕事。
これは仕事。
恋愛リアリティーショーの企画。
浮かれるな。
期待するな。
理性。
理性。
……そう思えば思うほど、落ち着かない。
「御影さん。」
「はい?」
スタッフが笑いを堪えていた。
「緊張してます?」
「……そんなに分かります?」
「すごく。」
「……。」
恥ずかしい。
その時だった。
「ほたるさん、お願いします。」
スタッフの声。
弓弦は思わず振り向く。
「……。」
言葉を失った。
夏らしい爽やかな装い。
派手ではない。
けれど、ほたるによく似合う。
肩まで伸びる艶やかな黒髪。
白い肌。
陽射しを受けて、その姿はまるで映画のワンシーンみたいだった。
『お待たせ。』
いつもの花が咲くような笑顔。
弓弦は数秒固まったまま動けない。
『弓弦さん?』
「……。」
『どうしたの?』
「……。」
ようやく口が動く。
「かわいい。」
『……。』
ほたるは一瞬きょとんとして。
それから困ったように笑った。
『今日、それ何回目?』
「分かんない。」
『また言った。』
「だって。」
弓弦は苦笑する。
「かわいいから。」
『……。』
返す言葉がない。
スタッフの一人が小さく肩を震わせた。
「御影さん。」
「はい?」
「ブレませんね。」
「え?」
「朝からずっとです。」
弓弦は少し照れ笑いする。
「……思ったこと言ってるだけなので。」
『……。』
ほたるは横目で弓弦を見る。
(この人。)
(本当に全部口に出す。)
番組の最初は違った。
こんな人じゃなかった。
もっと王子様らしく、余裕があって、キザで。
なのに今は。
「かわいい」と思えば、そのまま言う。
欲しそうなら買う。
疲れていそうなら休ませようとする。
裏も駆け引きもない。
あまりにも真っ直ぐだった。
だから。
少しだけ調子が狂う。
『……。』
ほたるは小さく息を吐く。
そして。
にこり、と笑った。
『ありがとう。』
短い一言。
けれど。
今度は営業用ではなかった。
ほんの少しだけ、本音が混ざっていた。
そのことに気付いたのは。
きっと弓弦だけ。
ホテルスタッフの案内で、二人はプールサイドへ出た。
白い彫刻。
青く透き通る水面。
宮殿の中のような空間。
「すご……。」
弓弦が思わず呟く。
想像していた以上だった。
まるで異国の世界。
ここが東京だということを忘れてしまいそうになる。
『きれい。』
ほたるも水面を眺めながら、小さく微笑んだ。
その横顔を、カメラが静かに追う。
スタッフは相変わらず近寄ってこない。
レンズだけが、二人の自然な空気を切り取っていた。
「せっかくだし。」
弓弦が笑う。
「少し泳ぐ?」
『泳ぐ。』
即答だった。
「泳げるんだ。」
『うん。』
『海の近くで育ったから。』
「へぇ。」
その一言に、弓弦は少しだけ引っかかった。
ほたるは自分の過去をほとんど話さない。
珍しい。
そう思ったけれど、深くは聞かなかった。
聞けば、困ったような笑顔をする気がしたから。
「じゃあ。」
プールへ足を入れる。
「冷たっ。」
弓弦が肩をすくめる。
その隣で、ほたるはくすりと笑った。
『気持ちいい。』
そう言って、水の中をゆっくり歩いていく。
足元で波紋が広がる。
弓弦も後を追う。
浅い場所で並んで歩くだけなのに、不思議と楽しかった。
途中、ホテルスタッフが冷たいドリンクを運んできてくれる。
『ありがとうございます。』
ほたるはいつものように丁寧に頭を下げる。
スタッフは少し照れながら去っていった。
「ほたるは。」
弓弦が笑う。
「本当に誰にでも優しいよね。」
『そう?』
「うん。」
『普通だよ。』
「普通じゃない。」
即答だった。
「スタッフさんもみんな嬉しそうだった。」
『……。』
ほたるは少しだけ視線を逸らす。
『お仕事だから。』
「違う。」
弓弦は首を横に振った。
「仕事だからじゃなくて。」
「ほたるだからだよ。」
『……。』
また。
真っ直ぐだった。
その言葉に裏はない。
計算もない。
だから困る。
ほたるは小さくドリンクを飲んで誤魔化した。
その時だった。
プールサイドの反対側から、小さな歓声が聞こえる。
「おーい!」
伯耆だった。
隣にはMASHIRO。
二人とも楽しそうに手を振っている。
「弓弦さん!」
「ほたるちゃん!」
「やっぱりこっちいました!」
どうやらショーを一本見終え、そのままホテルへ戻ってきたらしい。
「真白。」
伯耆が苦笑する。
「休憩しようって言ったら、『ホテルのプールも見たいです』って。」
「気になって。」
MASHIROは照れ笑いする。
「やっぱり素敵ですね。」
『MASHIROちゃん。』
ほたるが笑顔で手を振る。
『ショーどうだった?』
「最高でした!」
さっきまでの人見知りはどこへ行ったのか。
好きなものの話になると、本当に別人だ。
「パレードもすごくて。」
「新しい演出がですね──」
話し始めたMASHIROを見て。
伯耆が弓弦へ小さく肩をすくめる。
「スイッチ入っちゃいました。」
「分かります。」
弓弦も笑う。
二人は顔を見合わせ、同時に苦笑した。
その様子を見ていたほたるは、ふと四人を囲むカメラへ視線を向ける。
(……いい。)
今日の映像は強い。
恋人同士の伯耆とMASHIRO 。
番組で人気になった自分と弓弦。
四人の空気が自然で、画面映えもする。
スポンサーも喜ぶ。
SNSも伸びる。
番組も盛り上がる。
(収益、まだ伸びそう。)
一瞬だけ。
口元がわずかに上がる。
その黒い笑みは、一秒もなかった。
次の瞬間には。
『みんなで写真撮ろう!』
いつもの花のような笑顔。
その切り替えの速さに。
弓弦はまた気付いてしまう。
(……今。)
(何か考えてたよね。)
『どうしたの?』
「いや。」
弓弦は笑って首を振る。
「楽しそうだなって。」
『うん。』
ほたるは眩しいくらいの笑顔で頷いた。
『すごく、楽しい。』
その言葉が演技なのか、本音なのか。
弓弦には、もう少しだけ分からなかった。
けれど。
その笑顔を守りたいと思う気持ちだけは、本物だった。
プールでの撮影を終えたあと。
伯耆とMASHIROは、再びパークへ戻っていった。
「真白、本当に休まなくて大丈夫?」
伯耆が苦笑しながら聞く。
「大丈夫です。」
MASHIROはスマホを見ながら真剣な表情で頷いた。
「あと二つショーがあります。」
「パレードもあります。」
「夜景も見たいです。」
「限定フードも食べたいです。」
「……。」
伯耆は一度空を見上げた。
「……今日も忙しいなぁ。」
「はい!」
満面の笑み。
恋人になっても、MASHIROのテーマパーク愛は変わらなかった。
そんな二人の後ろ姿を見送りながら、弓弦は思わず笑う。
「すごいね。」
『うん。』
ほたるも小さく笑った。
『楽しそう。』
「伯耆さん、大変そうだけどね。」
『でも、嬉しそうだった。』
「確かに。」
好きな人が楽しそうなら、それだけで嬉しい。
そんな空気が二人から伝わってきた。
◇ ◇ ◇
夕方。
ホテルへ戻った二人は、少し早めのディナーを楽しむことになった。
ホテル二階のメインレストラン。
大きな窓の向こうには、夕焼けに染まる海。
オレンジ色の光が店内を優しく包んでいる。
「すごい景色……。」
弓弦が思わず呟く。
『きれい。』
ほたるも窓の外へ見入っていた。
運ばれてくる料理はどれも彩り豊かで、美しく盛り付けられている。
『いただきます。』
「いただきます。」
二人はゆっくり食事を楽しんだ。
仕事の話。
最近見た映画。
好きな食べ物。
他愛もない会話ばかり。
けれど、その時間が心地よかった。
気付けば外はすっかり夜になっていた。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻る。
スタッフから、
「まもなくショーが始まります。」
と連絡が入る。
二人はバルコニーへ出た。
夜風が気持ちいい。
眼下にはライトアップされたパーク。
昼間とはまったく違う幻想的な世界が広がっていた。
「寒くない?」
『大丈夫。』
ほたるは手すりへ軽く手を添えながら、遠くを見つめている。
しばらくすると。
音楽が流れ始めた。
湖面へ光が映る。
色鮮やかな照明。
噴水。
炎。
レーザー。
夜空を彩る演出。
『わぁ……。』
ほたるが小さく息を呑む。
その横顔は昼間よりずっと幼く見えた。
目を輝かせて。
子どものように夢中になっている。
弓弦はショーを見るつもりだった。
……はずだった。
なのに。
気付けば。
視線はずっと隣にいた。
光を映す瞳。
夜風になびく銀色の髪。
ショーが始まるたび表情を変える横顔。
(……きれい。)
いや。
(違う。)
(かわいい。)
それも違う。
(好きだなぁ。)
胸の奥へ、すとんと落ちてきた。
何度も思ってきたこと。
それでも今日、改めて思ってしまう。
本当に。
好きなんだ。
その時だった。
『あ。』
ほたるが小さく声を上げる。
「ん?」
『あっち。』
指差した先。
一部屋挟んだ隣のバルコニー。
伯耆とMASHIROが並んでショーを見ていた。
二人もこちらへ気付いたらしく、小さく手を振る。
弓弦とほたるも振り返す。
そのままショーへ視線を戻した瞬間だった。
伯耆がそっとMASHIROの肩へ手を回す。
MASHIROが少し照れたように笑う。
そして。
ほんの一瞬だけ。
二人の距離が近づいた。
小さく。
自然に。
唇が触れ合う。
『……。』
「……。」
弓弦は思わず目を丸くした。
すぐに二人は照れ笑いを浮かべながら、またショーへ視線を戻す。
ごく自然な仕草だった。
見せつけるでもなく。
隠すでもなく。
恋人だからこその、当たり前の距離感。
「……本当に。」
弓弦がぽつりと呟く。
「恋人なんだね。」
『ね。』
ほたるも静かに頷いた。
『幸せそう。』
「うん。」
夜空に光が咲く。
音楽が響く。
幻想的なショーは続いている。
けれど弓弦の目は、また隣へ向いてしまう。
光を見つめる横顔。
嬉しそうに微笑む表情。
今日一日、何度見ても飽きなかった。
(……好きだな。)
その想いだけは。
夜空へ打ち上がる光よりも、ずっと鮮やかだった。




