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あの日のスピカ。  作者: ツユクサリヒト


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55/72

55.



⭐︎55.




部屋を出ると、ホテルの廊下は静かだった。


 パークの賑やかさが嘘みたいに、ゆったりとした時間が流れている。


「プールって、こっちだよね。」


『うん。』


 館内マップを見ながら歩く。


 途中、すれ違う宿泊客が何人か二人へ気付き、小さく驚いたような表情を浮かべる。


 けれど。


 今日はスポンサー貸し切り日。


 一般営業ではない。


 声を掛けられることもなく、皆が遠慮がちに微笑むだけだった。


「こんにちは。」


 弓弦が軽く会釈する。


 ほたるも優しく微笑み返す。


『こんにちは。』


 その自然な対応に、宿泊客の表情まで柔らかくなる。


 弓弦は横目でほたるを見た。


(……やっぱりすごい。)


 誰に対しても同じ笑顔。


 同じ優しさ。


 だから人は惹かれてしまう。


 エレベーターで一階まで降りる。


 自動ドアが開くと、潮風が頬を撫でた。


「わぁ……。」


 思わず声が漏れる。


 目の前には、宮殿を思わせる大きな屋内プール。


 白い壁。


 美しい彫刻。


 青く澄んだ水面。


 誰もいないプライベートな空間が広がっていた。


『きれい……。』


 ほたるが足を止める。


 風で銀色の髪がふわりと揺れた。


 スタッフは少し離れた位置から、その後ろ姿を静かに撮っている。


 ディレクターは何も言わない。


 ただ、この空気を壊さないよう見守っていた。


「こちらになります。」


 ホテルスタッフに案内され、更衣室へ向かう。


「三十分後にこちらでお願いします。」


「はい。」


 二人はそれぞれ更衣室へ入った。


     ◇ ◇ ◇


 十分ほどして。


 弓弦が先に出てくる。


「……。」


 落ち着かない。


 妙に落ち着かない。


 今日一日、何度も自分へ言い聞かせてきた。


 仕事。


 これは仕事。


 恋愛リアリティーショーの企画。


 浮かれるな。


 期待するな。


 理性。


 理性。


 ……そう思えば思うほど、落ち着かない。


「御影さん。」


「はい?」


 スタッフが笑いを堪えていた。


「緊張してます?」


「……そんなに分かります?」


「すごく。」


「……。」


 恥ずかしい。


 その時だった。


「ほたるさん、お願いします。」


 スタッフの声。


 弓弦は思わず振り向く。


「……。」


 言葉を失った。


 夏らしい爽やかな装い。


 派手ではない。


 けれど、ほたるによく似合う。


 肩まで伸びる艶やかな黒髪。


 白い肌。


 陽射しを受けて、その姿はまるで映画のワンシーンみたいだった。


『お待たせ。』


 いつもの花が咲くような笑顔。


 弓弦は数秒固まったまま動けない。


『弓弦さん?』


「……。」


『どうしたの?』


「……。」


 ようやく口が動く。


「かわいい。」


『……。』


 ほたるは一瞬きょとんとして。


 それから困ったように笑った。


『今日、それ何回目?』


「分かんない。」


『また言った。』


「だって。」


 弓弦は苦笑する。


「かわいいから。」


『……。』


 返す言葉がない。


 スタッフの一人が小さく肩を震わせた。


「御影さん。」


「はい?」


「ブレませんね。」


「え?」


「朝からずっとです。」


 弓弦は少し照れ笑いする。


「……思ったこと言ってるだけなので。」


『……。』


 ほたるは横目で弓弦を見る。


(この人。)


(本当に全部口に出す。)


 番組の最初は違った。


 こんな人じゃなかった。


 もっと王子様らしく、余裕があって、キザで。


 なのに今は。


 「かわいい」と思えば、そのまま言う。


 欲しそうなら買う。


 疲れていそうなら休ませようとする。


 裏も駆け引きもない。


 あまりにも真っ直ぐだった。


 だから。


 少しだけ調子が狂う。


『……。』


 ほたるは小さく息を吐く。


 そして。


 にこり、と笑った。


『ありがとう。』


 短い一言。


 けれど。


 今度は営業用ではなかった。


 ほんの少しだけ、本音が混ざっていた。


 そのことに気付いたのは。


 きっと弓弦だけ。





ホテルスタッフの案内で、二人はプールサイドへ出た。


 白い彫刻。


 青く透き通る水面。


 宮殿の中のような空間。



「すご……。」


 弓弦が思わず呟く。


 想像していた以上だった。


 まるで異国の世界。


 ここが東京だということを忘れてしまいそうになる。


『きれい。』


 ほたるも水面を眺めながら、小さく微笑んだ。


 その横顔を、カメラが静かに追う。


 スタッフは相変わらず近寄ってこない。


 レンズだけが、二人の自然な空気を切り取っていた。


「せっかくだし。」


 弓弦が笑う。


「少し泳ぐ?」


『泳ぐ。』


 即答だった。


「泳げるんだ。」


『うん。』


『海の近くで育ったから。』


「へぇ。」


 その一言に、弓弦は少しだけ引っかかった。


 ほたるは自分の過去をほとんど話さない。


 珍しい。


 そう思ったけれど、深くは聞かなかった。


 聞けば、困ったような笑顔をする気がしたから。


「じゃあ。」


 プールへ足を入れる。


「冷たっ。」


 弓弦が肩をすくめる。


 その隣で、ほたるはくすりと笑った。


『気持ちいい。』


 そう言って、水の中をゆっくり歩いていく。


 足元で波紋が広がる。


 弓弦も後を追う。


 浅い場所で並んで歩くだけなのに、不思議と楽しかった。


 途中、ホテルスタッフが冷たいドリンクを運んできてくれる。


『ありがとうございます。』


 ほたるはいつものように丁寧に頭を下げる。


 スタッフは少し照れながら去っていった。


「ほたるは。」


 弓弦が笑う。


「本当に誰にでも優しいよね。」


『そう?』


「うん。」


『普通だよ。』


「普通じゃない。」


 即答だった。


「スタッフさんもみんな嬉しそうだった。」


『……。』


 ほたるは少しだけ視線を逸らす。


『お仕事だから。』


「違う。」


 弓弦は首を横に振った。


「仕事だからじゃなくて。」


「ほたるだからだよ。」


『……。』


 また。


 真っ直ぐだった。


 その言葉に裏はない。


 計算もない。


 だから困る。


 ほたるは小さくドリンクを飲んで誤魔化した。


 その時だった。


 プールサイドの反対側から、小さな歓声が聞こえる。


「おーい!」


 伯耆だった。


 隣にはMASHIRO。


 二人とも楽しそうに手を振っている。


「弓弦さん!」


「ほたるちゃん!」


「やっぱりこっちいました!」


 どうやらショーを一本見終え、そのままホテルへ戻ってきたらしい。


「真白。」


 伯耆が苦笑する。


「休憩しようって言ったら、『ホテルのプールも見たいです』って。」


「気になって。」


 MASHIROは照れ笑いする。


「やっぱり素敵ですね。」


『MASHIROちゃん。』


 ほたるが笑顔で手を振る。


『ショーどうだった?』


「最高でした!」


 さっきまでの人見知りはどこへ行ったのか。


 好きなものの話になると、本当に別人だ。


「パレードもすごくて。」


「新しい演出がですね──」


 話し始めたMASHIROを見て。


 伯耆が弓弦へ小さく肩をすくめる。


「スイッチ入っちゃいました。」


「分かります。」


 弓弦も笑う。


 二人は顔を見合わせ、同時に苦笑した。


 その様子を見ていたほたるは、ふと四人を囲むカメラへ視線を向ける。


(……いい。)


 今日の映像は強い。


 恋人同士の伯耆とMASHIRO 。


 番組で人気になった自分と弓弦。


 四人の空気が自然で、画面映えもする。


 スポンサーも喜ぶ。


 SNSも伸びる。


 番組も盛り上がる。


(収益、まだ伸びそう。)


 一瞬だけ。


 口元がわずかに上がる。


 その黒い笑みは、一秒もなかった。


 次の瞬間には。


『みんなで写真撮ろう!』


 いつもの花のような笑顔。


 その切り替えの速さに。


 弓弦はまた気付いてしまう。


(……今。)


(何か考えてたよね。)




『どうしたの?』


「いや。」


 弓弦は笑って首を振る。


「楽しそうだなって。」


『うん。』


 ほたるは眩しいくらいの笑顔で頷いた。


『すごく、楽しい。』


 その言葉が演技なのか、本音なのか。


 弓弦には、もう少しだけ分からなかった。


 けれど。


 その笑顔を守りたいと思う気持ちだけは、本物だった。





プールでの撮影を終えたあと。


 伯耆とMASHIROは、再びパークへ戻っていった。


「真白、本当に休まなくて大丈夫?」


 伯耆が苦笑しながら聞く。


「大丈夫です。」


 MASHIROはスマホを見ながら真剣な表情で頷いた。


「あと二つショーがあります。」


「パレードもあります。」


「夜景も見たいです。」


「限定フードも食べたいです。」


「……。」


 伯耆は一度空を見上げた。


「……今日も忙しいなぁ。」


「はい!」


 満面の笑み。


 恋人になっても、MASHIROのテーマパーク愛は変わらなかった。


 そんな二人の後ろ姿を見送りながら、弓弦は思わず笑う。


「すごいね。」


『うん。』


 ほたるも小さく笑った。


『楽しそう。』


「伯耆さん、大変そうだけどね。」


『でも、嬉しそうだった。』


「確かに。」


 好きな人が楽しそうなら、それだけで嬉しい。


 そんな空気が二人から伝わってきた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方。


 ホテルへ戻った二人は、少し早めのディナーを楽しむことになった。


 ホテル二階のメインレストラン。


 大きな窓の向こうには、夕焼けに染まる海。


 オレンジ色の光が店内を優しく包んでいる。


「すごい景色……。」


 弓弦が思わず呟く。


『きれい。』


 ほたるも窓の外へ見入っていた。


 運ばれてくる料理はどれも彩り豊かで、美しく盛り付けられている。


『いただきます。』


「いただきます。」


 二人はゆっくり食事を楽しんだ。


 仕事の話。


 最近見た映画。


 好きな食べ物。


 他愛もない会話ばかり。


 けれど、その時間が心地よかった。


 気付けば外はすっかり夜になっていた。


     ◇ ◇ ◇


 部屋へ戻る。


 スタッフから、


「まもなくショーが始まります。」


 と連絡が入る。


 二人はバルコニーへ出た。


 夜風が気持ちいい。


 眼下にはライトアップされたパーク。


 昼間とはまったく違う幻想的な世界が広がっていた。


「寒くない?」


『大丈夫。』


 ほたるは手すりへ軽く手を添えながら、遠くを見つめている。


 しばらくすると。


 音楽が流れ始めた。


 湖面へ光が映る。


 色鮮やかな照明。


 噴水。


 炎。


 レーザー。


 夜空を彩る演出。


『わぁ……。』


 ほたるが小さく息を呑む。


 その横顔は昼間よりずっと幼く見えた。


 目を輝かせて。


 子どものように夢中になっている。


 弓弦はショーを見るつもりだった。


 ……はずだった。


 なのに。


 気付けば。


 視線はずっと隣にいた。


 光を映す瞳。


 夜風になびく銀色の髪。


 ショーが始まるたび表情を変える横顔。


(……きれい。)


 いや。


(違う。)


(かわいい。)


 それも違う。


(好きだなぁ。)


 胸の奥へ、すとんと落ちてきた。


 何度も思ってきたこと。


 それでも今日、改めて思ってしまう。


 本当に。


 好きなんだ。


 その時だった。


『あ。』


 ほたるが小さく声を上げる。


「ん?」


『あっち。』


 指差した先。


 一部屋挟んだ隣のバルコニー。


 伯耆とMASHIROが並んでショーを見ていた。


 二人もこちらへ気付いたらしく、小さく手を振る。


 弓弦とほたるも振り返す。


 そのままショーへ視線を戻した瞬間だった。


 伯耆がそっとMASHIROの肩へ手を回す。


 MASHIROが少し照れたように笑う。


 そして。


 ほんの一瞬だけ。


 二人の距離が近づいた。


 小さく。


 自然に。


 唇が触れ合う。


『……。』


「……。」


 弓弦は思わず目を丸くした。


 すぐに二人は照れ笑いを浮かべながら、またショーへ視線を戻す。


 ごく自然な仕草だった。


 見せつけるでもなく。


 隠すでもなく。


 恋人だからこその、当たり前の距離感。


「……本当に。」


 弓弦がぽつりと呟く。


「恋人なんだね。」


『ね。』


 ほたるも静かに頷いた。


『幸せそう。』


「うん。」


 夜空に光が咲く。


 音楽が響く。


 幻想的なショーは続いている。


 けれど弓弦の目は、また隣へ向いてしまう。


 光を見つめる横顔。


 嬉しそうに微笑む表情。


 今日一日、何度見ても飽きなかった。


(……好きだな。)


 その想いだけは。


 夜空へ打ち上がる光よりも、ずっと鮮やかだった。



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