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38.




⭐︎38.




 夜だった。


 共同生活にも少しずつ慣れ始めた頃。


 リビングでは、まだ笑い声が響いている。




「だから違うって!」


「いや絶対そうだった!」


「一ノ瀬さん、それ三回目です!」




 テレビゲームを始める者。


 ソファでジュースを飲む者。


 今日の出来事を振り返りながら笑い合う者。




 恋愛リアリティーショーというより、修学旅行の夜のような穏やかな時間だった。








 そんなリビングを抜け、ほたるは一人、廊下を歩いていく。


 島の端に設けられた、小さなガラス張りの部屋。


 ――Love Archive専用電話ボックス。


 出演者が事務所やマネージャーと連絡を取るためだけに用意された場所。





 中の音声は一切、外へ漏れない。


 マイクもない。


 周囲から見えるのは、ガラス越しに話す出演者の姿だけ。





 誰と、どんな話をしているのか。


 それだけは誰にも分からない。





 ほたるは静かに扉を開けた。


 携帯電話を耳へ当てる。


 数回の呼び出し音。


 すぐに電話は繋がった。





『もしもし。』


 穏やかな男の声。


 篠宮誘人。




 芸能事務所の社長であり。


 ほたるにとって、家族でも恋人でもない。


 けれど。


 誰よりも長く、自分を見守ってきた人だった。





『お疲れ様、ほたる。』


『お疲れ様です。』


 短いやり取り。


 その声を聞くだけで、不思議と肩の力が抜ける。



 ガラス越しに視線を感じた。


 振り向く。


 リビング。


 ソファへ座る弓弦と目が合った。




 弓弦は「あ、電話中か」というように小さく微笑む。


 ほたるも軽く笑い返し、すぐに視線を電話へ戻した。




 電話先の誘人は、小さく笑う。


『……正解だよ、ほたる。』


『?』


『今の距離感でいい。』




 ほたるは意味を尋ねなかった。


 誘人も、それ以上説明しない。


 代わりに楽しそうな声で言う。




『番組、すごいことになってる。』


『そうなんですか。』


『過去最高視聴率。』


『SNSもニュースも、全部君たちの話題だよ。』



 ほたるは少し驚いたように瞬きをする。



『そんなに。』


『そんなに。』




 誘人は笑った。



『特に序盤から話題になってるのは。』


『君と御影弓弦くん。』




 モニター越しにリビングを見る。


 ちょうど弓弦は、水城や黒瀬と何か言い合っていた。




 笑っている。


 あんなにテレビでは王子様なのに。


 仲間の前では、年相応によく笑う。




 誘人の声が続く。


『ドラマの空気をそのまま現実へ持ってきたみたいだって。』


『王子と姫。』


『理想のカップリング。』


『世間は、すっかり夢中だ。』




 ほたるは小さく息を吐いた。



『……そうですか。』




 最初は。


 本当に、おせっかいな人だと思っていた。



 困っている人を放っておけなくて。



 変に真っ直ぐで。


 王子様みたいなことばかりする男。




 でも。


 弓弦は、自分のファンだった。




 それは、ほたるにとっても予想外だった。




 しかも。


 弓弦は知っている。



 ほたるは、テレビの中の”ほたる”ではない。


 仕事が終われば笑わないこと。


 怠け者なこと。



 お金のことばかり考えていること。


 夢見るアイドルとは程遠い、本当の自分を。



 ……それなのに。


 弓弦の視線は。


 日に日に熱を帯びていく。



 こないだもそうだった。


 崖から落ちた自分を見て。


 誰よりも早く走った。


 迷いなんて、一つもなかった。



 ほたるはガラス越しに弓弦を見る。


 水城に肩を組まれ、困ったように笑っている。



 楽しそうだった。


 その姿を見ながら、小さくため息を吐く。





 ――あぁ。


 これは。


 近づいちゃいけない人だ。



 ほたるにだって、良心はある。


 本気で誰かを好きになる人を。


 利用してはいけない。


 傷付けてはいけない。



 そのくらいは分かっている。


 誘人は何も言わない。


 まるで、その沈黙ごと理解しているようだった。





 やがて、優しく尋ねる。


『番組、楽しい?』



 ほたるは少し考える。


 そして、短く答えた。



『仕事です。』


 その一言だけ。




 誘人は否定しなかった。


『そっか。』


 その声は、どこまでも穏やかだった。




 父親のように。


 兄のように。


 誰よりも優しく。


 ほたるを包み込む。




『恋愛してもいいんだよ。』




 静かな声だった。


 ほたるは返事をしない。




 代わりに、個人用の携帯を開く。


 銀行アプリ。


 残高が表示される。



『……。』


 数字を眺める。


 今月も、しっかり増えていた。



 ドラマ。


 CM。


 ライブ。


 そして、恋愛リアリティーショー。



『……あ。』


 思わず口元が緩む。




『今月、結構入ってる。』


 その一言に、誘人が吹き出した。


『君らしい。』





 ほたるは悪びれもしない。



『お金にならないことはしません。』


『時間の無駄ですから。』



 あっさりと言い切る。




 誘人は、もう何年も前から知っている。


 その言葉の裏側を。



 誰よりも。


 ほたるがお金を愛している理由を。






 だから笑うだけだった。



『そっか。』



 優しく。


 本当に優しく。




『番組も、いよいよクライマックスだ。』


『楽しみにしてるよ。』


『はい。』



 短い返事。


 電話が切れる。


 静寂が戻った。




 ほたるは、しばらく携帯を見つめていた。


 そして。




 待受画面を開く。


 そこに映っていたのは。


 二人の姉妹。




 ライブ会場。


 赤とピンクのペンライト。


 肩を寄せ合って笑う、自分と妹。




 妹は満面の笑みだった。


 その笑顔を。


 ほたるは目に焼き付けるように見つめる。




『……もう少し。』



 小さく呟く。


『もう少しだけ、待ってて。』



 画面を閉じる。


 深く息を吸って。



 いつものアイドル・ほたるの笑顔を作る。





 ガラスの扉を開けると、リビングからまた楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


 その輪の中心では、弓弦が水城と黒瀬にからかわれながら、大げさに肩をすくめている。



 ほたるはその光景を一瞬だけ見つめると、小さく微笑み、静かにリビングへ戻っていった。  





 ほたるには、もう見えていた。


 この番組のクライマックス。



 周りの動き。


 そして、自分がどう動けばいいかーー。

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