33.
⭐︎33.
崖崩れに巻き込まれたほたるは、斜面を数メートル滑り落ちたところで、運よく一本の太い木に身体を引っ掛けて止まっていた。
谷底まで真っ逆さまに落ちなかった。
それだけが、唯一の救いだった。
しかし、安心できる状況ではない。
足元の土は崩れ続け、踏ん張る場所はほとんど残っていない。
身体を支える木も、ミシミシと嫌な音を立てて揺れていた。
少しでも体勢を崩せば、そのまま谷底まで滑り落ちてしまう。
ほたるは必死に木へしがみついた。
土で汚れた指先が、小さく震えている。
その時だった。
「ほたるちゃん!」
聞き慣れた声。
ほたるがゆっくり顔を上げる。
急斜面を迷いなく下りてくる人影。
木を掴み、岩を蹴り、危険な足場をものともせず一直線に向かってくる。
御影弓弦だった。
『……弓弦さん。』
思わず名前を呼ぶ。
弓弦は険しい表情のまま、慎重に距離を詰めていく。
「動かないで!」
鋭い声が飛ぶ。
「そのままでいて!」
いつもの柔らかな王子様の笑顔ではない。
真剣そのものだった。
ほたるは小さく頷き、それ以上動くのをやめる。
あと少し。
あと一歩近付けば手が届く。
弓弦は足場を確かめながら、一歩、また一歩と近付いていく。
上ではスタッフたちが固唾を呑んで見守っていた。
「あと少し!」
「御影さん、慎重に!」
「救助班、待機!」
無線から緊迫した声が飛び交う。
弓弦はゆっくり手を伸ばした。
「ほたるちゃん。」
「もう少し。」
「手を――」
その瞬間だった。
ミシッ。
嫌な音が響く。
ほたるの足元。
そして弓弦の立っていた場所の土まで、一気に崩れ落ちた。
『きゃっ……!』
「っ!」
悲鳴が重なる。
カメラが大きく揺れた。
土煙が舞い上がる。
折れる枝。
転がる岩。
二人の身体が一気に斜面へ投げ出される。
その刹那。
弓弦は反射的にほたるを抱き寄せた。
細い身体を自分の胸へ引き込み、頭を腕で包み込む。
そして、自分の背中を崖側へ向けた。
守る。
その一心だった。
次の瞬間。
鈍い衝撃が全身を襲う。
「っ……!」
背中を岩へ強く打ちつける。
肩へ太い枝が叩きつけられる。
腕を鋭い石が掠め、赤い筋が走った。
それでも。
弓弦の腕は、決して緩まなかった。
何があっても。
腕の中のほたるだけは守る。
その想いだけで身体を動かしていた。
二人は斜面を滑り落ち、大きな茂みに引っ掛かるようにして止まった。
土煙がゆっくり晴れていく。
山は静まり返っていた。
荒い呼吸だけが聞こえる。
遠くからスタッフたちの叫ぶ声が響いた。
「御影さん!」
「ほたるさん!」
「大丈夫ですか!」
「救護班、急いで!」
腕の中で、ほたるがゆっくり顔を上げる。
『……弓弦さん?』
震えた声だった。
弓弦は苦しそうに息を吐きながらも、真っ先にほたるの顔を見た。
「怪我は?」
『……私は、大丈夫。』
「本当に?」
『うん。』
「頭は打ってない?」
『打ってない。』
「足は?」
その問いに、ほたるは一瞬だけ視線を落とした。
左足首がじんじんと痛む。
けれど、弓弦の背中に広がる土と擦り傷を見てしまった。
全部、自分を守った傷だった。
『……平気。』
小さく笑って答える。
弓弦はその表情をじっと見つめると、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……よかった。」
心の底から安堵したような声だった。
その時だった。
小さく震える肩に気付く。
ほたるは、自分でも抑えられないほど身体を震わせていた。
恐怖が、遅れて押し寄せてきたのだ。
弓弦はそっと微笑む。
さっきまでの険しい表情が嘘のように柔らかくなる。
「……もう大丈夫。」
優しく言う。
「俺がいるから。」
その一言を聞いた瞬間。
ほたるの張り詰めていた糸が切れた。
震える手が、そっと弓弦の服を掴む。
その小さな力を感じながら、弓弦は何も言わず、安心させるように背中をゆっくりと撫で続けた。
◇◇◇
崩れた斜面を、一歩ずつ登っていく。
弓弦が前。
ほたるが、その足跡をなぞるように後ろを歩く。
「そこ。」
「右。」
『うん。』
「その石は滑る。」
『……うん。』
弓弦の声は落ち着いていた。
急かさない。
焦らせない。
ただ、ほたるが安全に登れることだけを考えている。
あと少し。
そう思った、その時だった。
『……っ。』
ほたるの足が、ほんの少しだけ止まる。
一歩踏み出す。
けれど、わずかに右足をかばうような動き。
それは本当に小さな違和感だった。
普通なら気付かない。
でも、弓弦は見逃さなかった。
「……足。」
『え?』
「痛い?」
『大丈夫。』
反射的に答える。
アイドルだから。
これくらい平気。
そう言おうとした瞬間だった。
「失礼。」
『えっ——』
ふわり。
身体が宙に浮く。
『!?』
ほたるは思わず目を丸くした。
「ゆ、弓弦さん!?」
弓弦は何でもないことのように、ほたるを横抱きに抱え上げていた。
「少し我慢。」
『いや、でも——』
「さっき、足かばってた。」
『……。』
「無理すると悪化する。」
『でも、自分で歩けるよ。』
「知ってる。」
「でも歩かせたくない。」
その返事があまりにも真っ直ぐで、ほたるは言葉を失う。
『……おろして。』
小さく抗議する。
すると。
弓弦は少しだけ口元を緩めた。
そして、ほたるにしか聞こえないくらい小さな声で囁く。
「――黙って、抱かれてろ。」
『……!?』
「拒否権はない。」
その低い声に、ほたるの耳まで真っ赤になる。
「……。」
一拍置いて。
弓弦は吹き出した。
「あはは。」
「……なーんて。」
『……。』
「ドラマの台詞。」
「つい出ちゃった。」
いたずらが成功した子どものように笑う。
『びっくりした……。』
ほたるは胸を押さえ、小さく息を吐いた。
あの時代劇ファンタジードラマ。
弓弦がほたるへ向けた台詞。
撮影で何度も聞いたはずなのに。
耳元で囁かれると、破壊力が違った。
「ごめん。」
「でも。」
弓弦は穏やかに笑う。
「今日は本当に拒否権なし。」
「安全第一。」
『……。』
ほたるは少しだけ困ったように笑った。
『……はい。』
それ以上は抵抗しなかった。
◇ ◇ ◇
数分後。
ようやく全員と合流する。
「ほたるちゃん!」
「大丈夫!?」
美月が真っ先に駆け寄ろうとして。
「……。」
「……。」
その場で固まった。
横抱きにされたほたる。
それを軽々と抱える弓弦。
夕日が二人を照らしている。
まるでドラマのワンシーンだった。
「……。」
「……。」
誰も最初の一言が出ない。
最初に口を開いたのは水城だった。
「……王子様じゃん。」
ぽつり。
その一言で全員が我に返る。
「ほんとだ。」
黒瀬が苦笑する。
「画になりすぎ。」
「ドラマ見てるみたい。」
伯耆も静かに笑った。
「御影さんらしい。」
神崎は弓弦の頬の傷を見る。
「お前。」
「顔、切れてるぞ。」
「あ。」
弓弦はようやく気付いた。
「ほんとだ。」
「ほんとだ、じゃねぇ。」
ぶっきらぼうに言う神崎。
「後で消毒しろ。」
「はい。」
その間も。
ほたるは弓弦の腕の中だった。
『……。』
こんなの公開処刑すぎる。
恥ずかしい。
視線が集まる。
耳まで赤くなっていく。
『もう……大丈夫だから。』
小さな声で言う。
「うん。」
弓弦も微笑む。
「じゃあ降ろすね。」
ゆっくり地面へ降ろす。
最後まで、怪我した足へ負担が掛からないように。
その気遣いが、自然すぎた。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所。
モニターテント。
スタッフたちは、送られてきた映像を何度も巻き戻していた。
「……。」
「これ。」
「強い。」
ディレクターが呟く。
誰も否定しない。
「崖崩れ。」
「助けに行く。」
「お姫様抱っこ。」
「最後にあの台詞。」
「全部そろってる。」
「しかも。」
プロデューサーがモニターを指差す。
「ほたるちゃん。」
「完全に素。」
「演技じゃない。」
「照れてる。」
「うん。」
スタッフ全員が頷く。
「この二人だ。」
ディレクターが静かに言った。
「番組の軸。」
「決まりましたね。」
プロデューサーも小さく笑う。
「編集も。」
「この二人を中心に組み直そう。」
モニターには。
照れたように笑うほたると。
優しく微笑む弓弦。
二人が並ぶだけで、圧倒的な華があった。
スタッフ全員が、同じことを思っていた。
――このカップリングは、強い。




