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あの日のスピカ。  作者: ツユクサリヒト


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33/94

33.






⭐︎33.




 崖崩れに巻き込まれたほたるは、斜面を数メートル滑り落ちたところで、運よく一本の太い木に身体を引っ掛けて止まっていた。




 谷底まで真っ逆さまに落ちなかった。


 それだけが、唯一の救いだった。



 しかし、安心できる状況ではない。


 足元の土は崩れ続け、踏ん張る場所はほとんど残っていない。



 身体を支える木も、ミシミシと嫌な音を立てて揺れていた。


 少しでも体勢を崩せば、そのまま谷底まで滑り落ちてしまう。




 ほたるは必死に木へしがみついた。


 土で汚れた指先が、小さく震えている。


 その時だった。




「ほたるちゃん!」




 聞き慣れた声。


 ほたるがゆっくり顔を上げる。


 急斜面を迷いなく下りてくる人影。




 木を掴み、岩を蹴り、危険な足場をものともせず一直線に向かってくる。


 御影弓弦だった。




『……弓弦さん。』



 思わず名前を呼ぶ。


 弓弦は険しい表情のまま、慎重に距離を詰めていく。




「動かないで!」




 鋭い声が飛ぶ。




「そのままでいて!」



 いつもの柔らかな王子様の笑顔ではない。


 真剣そのものだった。



 ほたるは小さく頷き、それ以上動くのをやめる。


 あと少し。


 あと一歩近付けば手が届く。





 弓弦は足場を確かめながら、一歩、また一歩と近付いていく。


 上ではスタッフたちが固唾を呑んで見守っていた。





「あと少し!」


「御影さん、慎重に!」


「救助班、待機!」




 無線から緊迫した声が飛び交う。


 弓弦はゆっくり手を伸ばした。




「ほたるちゃん。」


「もう少し。」


「手を――」



 その瞬間だった。



 ミシッ。



 嫌な音が響く。







 ほたるの足元。


 そして弓弦の立っていた場所の土まで、一気に崩れ落ちた。





『きゃっ……!』


「っ!」



 悲鳴が重なる。











 カメラが大きく揺れた。




 土煙が舞い上がる。




 折れる枝。




 転がる岩。





 二人の身体が一気に斜面へ投げ出される。


 その刹那。






 弓弦は反射的にほたるを抱き寄せた。


 細い身体を自分の胸へ引き込み、頭を腕で包み込む。




 そして、自分の背中を崖側へ向けた。







 守る。





 その一心だった。


 次の瞬間。





 鈍い衝撃が全身を襲う。


「っ……!」





 背中を岩へ強く打ちつける。


 肩へ太い枝が叩きつけられる。





 腕を鋭い石が掠め、赤い筋が走った。


 それでも。




 弓弦の腕は、決して緩まなかった。




 何があっても。


 腕の中のほたるだけは守る。




 その想いだけで身体を動かしていた。


 二人は斜面を滑り落ち、大きな茂みに引っ掛かるようにして止まった。




 土煙がゆっくり晴れていく。


 山は静まり返っていた。


 荒い呼吸だけが聞こえる。








 遠くからスタッフたちの叫ぶ声が響いた。




「御影さん!」


「ほたるさん!」



「大丈夫ですか!」


「救護班、急いで!」




 腕の中で、ほたるがゆっくり顔を上げる。





『……弓弦さん?』



 震えた声だった。


 弓弦は苦しそうに息を吐きながらも、真っ先にほたるの顔を見た。




「怪我は?」


『……私は、大丈夫。』



「本当に?」


『うん。』



「頭は打ってない?」


『打ってない。』


「足は?」



 その問いに、ほたるは一瞬だけ視線を落とした。


 左足首がじんじんと痛む。



 けれど、弓弦の背中に広がる土と擦り傷を見てしまった。


 全部、自分を守った傷だった。





『……平気。』


 小さく笑って答える。




 弓弦はその表情をじっと見つめると、ほんの少しだけ息を吐いた。



「……よかった。」


 心の底から安堵したような声だった。





 その時だった。


 小さく震える肩に気付く。



 ほたるは、自分でも抑えられないほど身体を震わせていた。


 恐怖が、遅れて押し寄せてきたのだ。




 弓弦はそっと微笑む。


 さっきまでの険しい表情が嘘のように柔らかくなる。






「……もう大丈夫。」



 優しく言う。






「俺がいるから。」



 その一言を聞いた瞬間。


 ほたるの張り詰めていた糸が切れた。





 震える手が、そっと弓弦の服を掴む。


 その小さな力を感じながら、弓弦は何も言わず、安心させるように背中をゆっくりと撫で続けた。










◇◇◇








 崩れた斜面を、一歩ずつ登っていく。


 弓弦が前。


 ほたるが、その足跡をなぞるように後ろを歩く。



「そこ。」


「右。」


『うん。』


「その石は滑る。」


『……うん。』



 弓弦の声は落ち着いていた。


 急かさない。


 焦らせない。


 ただ、ほたるが安全に登れることだけを考えている。


 あと少し。


 そう思った、その時だった。





『……っ。』



 ほたるの足が、ほんの少しだけ止まる。


 一歩踏み出す。


 けれど、わずかに右足をかばうような動き。


 それは本当に小さな違和感だった。




 普通なら気付かない。


 でも、弓弦は見逃さなかった。



「……足。」


『え?』


「痛い?」


『大丈夫。』


 反射的に答える。




 アイドルだから。


 これくらい平気。


 そう言おうとした瞬間だった。




「失礼。」


『えっ——』



 ふわり。


 身体が宙に浮く。




『!?』




 ほたるは思わず目を丸くした。


「ゆ、弓弦さん!?」



 弓弦は何でもないことのように、ほたるを横抱きに抱え上げていた。




「少し我慢。」


『いや、でも——』


「さっき、足かばってた。」


『……。』


「無理すると悪化する。」


『でも、自分で歩けるよ。』




「知ってる。」


「でも歩かせたくない。」


 その返事があまりにも真っ直ぐで、ほたるは言葉を失う。





『……おろして。』


 小さく抗議する。





 すると。


 弓弦は少しだけ口元を緩めた。



 そして、ほたるにしか聞こえないくらい小さな声で囁く。




「――黙って、抱かれてろ。」


『……!?』


「拒否権はない。」




 その低い声に、ほたるの耳まで真っ赤になる。


「……。」



 一拍置いて。


 弓弦は吹き出した。




「あはは。」


「……なーんて。」


『……。』


「ドラマの台詞。」


「つい出ちゃった。」  




 いたずらが成功した子どものように笑う。


『びっくりした……。』



 ほたるは胸を押さえ、小さく息を吐いた。


 あの時代劇ファンタジードラマ。




 弓弦がほたるへ向けた台詞。


 撮影で何度も聞いたはずなのに。


 耳元で囁かれると、破壊力が違った。  






「ごめん。」


「でも。」


 弓弦は穏やかに笑う。




「今日は本当に拒否権なし。」


「安全第一。」


『……。』




 ほたるは少しだけ困ったように笑った。


『……はい。』


 それ以上は抵抗しなかった。






     ◇ ◇ ◇




 数分後。


 ようやく全員と合流する。


「ほたるちゃん!」


「大丈夫!?」


 美月が真っ先に駆け寄ろうとして。




「……。」


「……。」




 その場で固まった。



 

 横抱きにされたほたる。


 それを軽々と抱える弓弦。



 夕日が二人を照らしている。


 まるでドラマのワンシーンだった。



「……。」


「……。」



 誰も最初の一言が出ない。


 最初に口を開いたのは水城だった。








「……王子様じゃん。」



 ぽつり。


 その一言で全員が我に返る。



  





「ほんとだ。」



 黒瀬が苦笑する。



「画になりすぎ。」


「ドラマ見てるみたい。」










 伯耆も静かに笑った。



「御影さんらしい。」









 神崎は弓弦の頬の傷を見る。



「お前。」


「顔、切れてるぞ。」



「あ。」


 弓弦はようやく気付いた。




「ほんとだ。」


「ほんとだ、じゃねぇ。」



 ぶっきらぼうに言う神崎。




「後で消毒しろ。」


「はい。」






 その間も。


 ほたるは弓弦の腕の中だった。


『……。』





 こんなの公開処刑すぎる。


 恥ずかしい。


 視線が集まる。


 耳まで赤くなっていく。




『もう……大丈夫だから。』


 小さな声で言う。




「うん。」


 弓弦も微笑む。




「じゃあ降ろすね。」


 ゆっくり地面へ降ろす。


 最後まで、怪我した足へ負担が掛からないように。


 その気遣いが、自然すぎた。






     ◇ ◇ ◇






 少し離れた場所。


 モニターテント。





 スタッフたちは、送られてきた映像を何度も巻き戻していた。


「……。」


「これ。」


「強い。」





 ディレクターが呟く。


 誰も否定しない。



「崖崩れ。」


「助けに行く。」


「お姫様抱っこ。」


「最後にあの台詞。」


「全部そろってる。」


「しかも。」



 プロデューサーがモニターを指差す。




「ほたるちゃん。」


「完全に素。」


「演技じゃない。」


「照れてる。」


「うん。」




 スタッフ全員が頷く。







「この二人だ。」



 ディレクターが静かに言った。






「番組の軸。」


「決まりましたね。」


 プロデューサーも小さく笑う。





「編集も。」


「この二人を中心に組み直そう。」



 モニターには。


 照れたように笑うほたると。


 優しく微笑む弓弦。







 二人が並ぶだけで、圧倒的な華があった。


 スタッフ全員が、同じことを思っていた。




 ――このカップリングは、強い。

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