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14.




⭐︎14.


あの日を境に。


 ほたるは、何一つ変わらなかった。


『おはようございます!』


 朝一番、誰よりも明るく現場へ入り。


『今日もよろしくお願いします!』


 スタッフ一人ひとりへ笑顔で挨拶をして回る。


 待ち時間になれば、助監督や照明部と談笑し。


 共演者と笑い合い。


 カメラが回れば、一瞬で役へ入り込む。


 国民的アイドル・ほたる。


 その姿は、京都へ来た初日から最後まで何一つ変わらなかった。


 変わってしまったのは。


 弓弦の方だった。


     ◇◇◇


 あの日以来。


 笑うほたるを見るたびに思い出してしまう。


 京都の高級ホテル。


 閉まりゆくエレベーター。


 そして。


 あの笑顔。


『弓弦さん、そういうの、うざいから。』


 怒られたわけじゃない。


 責められたわけでもない。


 それなのに。


 あの一言は、弓弦の胸へ深く刺さったままだった。


 きっと。


 あれが、ほたるの本当の顔だった。


 誰にも見せない。


 誰も踏み込ませない。


 仕事と、自分をきっちり切り分ける人。


 笑顔の裏で、どれだけのものを背負っているのか。


 弓弦には分からない。


 分からないからこそ、苦しかった。


 あのとき。


 自分は「帰ろう」と言った。


 何も知らないくせに。


 何も背負っていないくせに。


 勝手な正義感で。


 勝手な優しさで。


 ほたるの仕事を否定した。


「……最低だ。」


 楽屋の鏡越しに、小さく呟く。


 誰にも聞こえない声だった。


     ◇◇◇


 京都での撮影は、そのまま無事にクランクアップを迎えた。


「オールアップでーす!」


 監督の声と同時に、大きな拍手が湧き上がる。


 スタッフも。


 キャストも。


 何日も寝食を共にした仲間たちが、お互いを労い合う。


『ありがとうございました!』


 ほたるは最後まで笑顔だった。


 花束を受け取り。


 スタッフ全員へ深く頭を下げ。


 一人ずつ手を振りながら別れを告げていく。


『またご一緒できるように頑張ります!』


 その笑顔を見て。


 弓弦は何も言えなかった。


 本当は。


 謝りたかった。


 あの日のことを。


 余計なお世話だったことを。


 でも。


 その笑顔を見ると、何もなかったことにしてしまいたい彼女の気持ちが伝わってくる。


 だから結局。


「……お疲れ。」


 その一言しか言えなかった。


『はい!』


 ほたるは、いつも通り笑う。


『弓弦さんも、お疲れさまでした!』


 それだけだった。


 それだけなのに。


 その笑顔が、ひどく遠く感じた。


     ◇◇◇


 帰りの新幹線。


 四人掛けの座席。


 いつもなら一番うるさいのは弓弦だった。


「京都限定スイーツ買った?」


「駅弁交換したい。」


「ほたるちゃん、今日も可愛かったな。」


 そんな話ばかりしている男が。


 今日は静かだった。


 窓際の席に座り、流れていく景色をぼんやり眺めている。


 手元のペットボトルも、ほとんど減っていない。


 水城はちらりと横を見る。


「……。」


 気になる。


 かなり気になる。


「弓弦。」


「……ん。」


「駅弁食わないの?」


「あとで。」


 返事だけ。


 それ以上は続かない。


 神崎は文庫本から目を上げ、小さく息を吐いた。


「重症だな。」


「だな。」


 黒瀬も苦笑する。


 京都へ来てから初めて見る、弓弦の姿だった。


     ◇◇◇


 東京へ戻ると、休む間もなく仕事が始まった。


 雑誌取材。


 バラエティ番組。


 ラジオ収録。


 CM撮影。


 音楽番組のリハーサル。


 人気グループであるAsterismには、休む暇などない。


 普段の弓弦なら。


 カメラが回れば完璧だった。


 スタッフへ軽口を叩き。


 モデル顔負けの笑顔を見せ。


 現場を盛り上げる。


 それが御影弓弦だった。


 だからこそ。


「弓弦さん、今日ちょっと疲れてます?」


 ヘアメイクに心配され。


「大丈夫ですか?」


 スタイリストに声を掛けられ。


 番組スタッフからも体調を気遣われるほど、様子がおかしかった。


「いや、大丈夫。」


 笑ってみせる。


 その笑顔だけは、さすがトップアイドルだった。


 誰も違和感に気付かない。


 けれど。


 長年一緒にいる三人だけは騙せなかった。


     ◇◇◇


 仕事を終え、楽屋へ戻る。


 ソファへ腰を下ろした弓弦は、そのまま動かなくなった。


「……。」


 スマートフォンを手に取る。


 無意識に開くのは、ドラマ公式SNS。


 そこには、京都で撮られたオフショット。


 笑うほたる。


 スタッフに囲まれるほたる。


 弓弦も映っている集合写真。


 しばらく眺めて。


 静かに画面を閉じる。


 そして。


 長いため息を吐いた。


「……。」


 水城はスポーツドリンクを飲みながら、その様子を見ていた。


「なぁ。」


 返事はない。


「弓弦。」


「……。」


「お前、生きてる?」


 ゆっくり顔だけ上げる。


「生きてる。」


 声に元気がない。


 黒瀬は思わず笑ってしまう。


「いや、笑い事じゃないか。」


「京都から帰ってきて、ずっとこんなんだぞ。」


「メシ食わねぇ。」


 水城が指を折る。


「甘い物食わねぇ。」


 黒瀬が続ける。


「スマホ見てため息。」


 神崎が最後に言う。


「終わってるな。」


「失恋?」


 水城が冗談半分で聞く。


 弓弦は首を横に振った。


「……違う。」


「じゃあ何。」


 少しだけ沈黙が流れる。


 やがて。


 弓弦は、小さく笑った。


 自嘲するように。


「俺さ。」


「……。」


「ほたるちゃんのこと、何も知らなかった。」


 それだけだった。


 誰にも、あの日の出来事は話さない。


 話せなかった。


 あれはきっと。


 ほたるが、誰にも知られたくなかった姿だから。


 だから弓弦は、一人で抱え込む。


 笑顔の裏側を知ってしまったことを。


 そして。


 あの日よりも、もっと、もっと。


 ほたるのことが好きになってしまった自分を。






楽屋に、静かな時間が流れていた。


 仕事を終えたAsterismの四人。


 いつもなら。


 水城がふざけて。


 黒瀬が笑って。


 弓弦が乗っかって。


 神崎が「うるさい」と呆れる。


 そんな他愛もない時間になる。


 けれど今日は違った。


 ソファの隅に座った弓弦は、スマートフォンを眺めては消し、また眺めてはため息をつく。


 ここ数日、そればかりだった。


 京都から帰ってきてから、ずっと。


「……。」


 水城はその姿を横目で見ながら、ペットボトルのキャップを開けた。


 一口飲む。


 そして、小さく息を吐いた。


「なぁ。」


 誰へともなく口を開く。


 神崎が雑誌から目を上げる。


 黒瀬もゲーム機を置いた。


「俺さ。」


 一拍置く。


「実は、ちょっと気になってたことがあるんだよね。」


「何だ。」


 神崎が短く返す。


 水城は少しだけ言いづらそうに笑った。


「ほたるちゃんってさ。」


 その名前が出た瞬間。


 弓弦の肩がわずかに動いた。


「噂あるじゃん。」


「……。」


「売りしてるって。」


 楽屋の空気が、ぴたりと止まる。


 芸能界では珍しくない。


 売れれば売れるほど、根も葉もない噂が流れる。


 スポンサーの愛人。


 枕営業。


 接待。


 パパ活。


 週刊誌にもならないような噂話が、いつの間にか本当のように広まっていく。


 四人だって、何度も経験してきた。


 だから、水城も最初は気にも留めていなかった。


「でもさ。」


 ペットボトルを指先で転がしながら続ける。


「京都で一緒に仕事して。」


「毎日話して。」


「現場見て。」


「……そんな子じゃないって思った。」


 神崎も、小さく頷く。


「ああ。」


「スタッフへの気遣いもすごいし。」


「現場をちゃんと見てる。」


「礼儀もある。」


 黒瀬も静かに言った。


「誰よりプロだった。」


「だから。」


 水城は苦笑した。


「また、売れてる子に変な噂が付いただけかって。」


「そう思ってた。」


 そのまま。


 ゆっくりと弓弦を見る。


 何も言わない。


 否定もしない。


 いつもの弓弦なら。


『そんなわけあるか!』


 真っ先に怒っていた。


 それなのに。


 今は、ただ俯いているだけ。


 その姿だけで。


 三人には十分だった。


 誰も口にしない。


 けれど。


 なんとなく。


 みんな、分かってしまった。


 弓弦は何かを見た。


 何かを知ってしまった。


 そして。


 それを話せないでいる。


 長い付き合いだった。


 デビュー前から一緒にいる。


 だから、弓弦がこんな顔をするときは、本当に何かがあった時だけだ。


 水城は、それ以上聞かなかった。


 聞けなかった。


 代わりに、ソファへ背中を預ける。


 天井を見上げ、小さく笑った。


「……この業界さ。」


 ぽつりと零す。


「上に上り詰めるには。」


「綺麗なだけじゃ、いられない。」


 誰も言葉を挟まない。


「実力だけでも足りない。」


「人気だけでも足りない。」


「努力だけでも足りない。」


「必要なことが、ある。」


 その先は言わない。


 言わなくても分かる。


 スポンサー。


 広告。


 事務所。


 テレビ局。


 数字。


 人脈。


 そして。


 誰にも見せない、大人の仕事。


 夢を売る世界だからこそ。


 裏側は、驚くほど泥臭い。


 水城は自嘲するように笑った。


「……黒い業界だよ。」


 その一言が、楽屋へ静かに落ちる。


 少しだけ間を置いて、水城は続けた。


「そこまでして。」


「自分を削ってまで。」


「誰かに頭を下げてまで。」


「笑いたくない相手にも笑って。」


「目指したいものって、何なんだろうな。」


 神崎は目を閉じる。


 黒瀬も視線を落とした。


 その答えを知っているのは。


 きっと、ほたるだけだった。


 弓弦は拳を強く握り締める。


 あの日。


 エレベーターの中で見た笑顔。


『弓弦さん、そういうの、うざいから。』


 その言葉の裏に。


 どれほどの覚悟があったのか。


 どれほどのものを、一人で抱えてきたのか。


 今の弓弦には、まだ分からない。


 ただ一つだけ。


 分かっていることがあった。


 あの日以来。


 ほたるを嫌いになることなんて、できなかった。


 幻滅することなんて、もっとできなかった。


 知れば知るほど。


 好きになる。


 それが、今はどうしようもなく苦しかった。

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