★第一話 死んだはずだが、生きている?
こういう時の視界は、大体、真っ黒だ。
暗くて、何も見えない。
目を瞑っているのか、閉じているのかも分からない。
立っているのか、寝ているのかも。
けれど、意識だけはある。それは何故だか分かる。
真っ暗な中で死んだのだから、死んだ後も暗闇の中にいるのは当然なのかもしれない。
死後の世界の理屈は分からないが、郷に入れば郷に従え、だものな。
――だから、それは……で……。
誰かの声がする。途切れ途切れで聞き取りにくいが、どうも男の声のようだ……。
――オーケー、オーケー。何も心配する必要なし。ほんとだって。
電話をしているのか? 相手の声は聞こえない。
――まさに千年に一度の逸材……あ、ちょっと切る。また電話する。
声が鮮明になるにつれ、視界に光が流れ込んできた。
「おっはよー。元気?」
ぼやけた視界に、何かの影が映り込む。なんだか、葉が生い茂った木のような……。
「もしもーし?」
「わあ!」
生い茂ったシルエットが眼前に迫り、僕は反射的にそれを手で払った。
「あいて!?」
と同時に、甲高い悲鳴。
様々なショックで、意識と視界が急激にクリアになって来る。
少しの眩しさの中、頭上に一つの顔。目、鼻、口。そして、葉の生い茂った木の正体は……なんと、髪の毛だ。それはさながら、火山噴火したような、爆発という言葉が相応しい、制御不能な、
「おーい、人の髪の毛凝視して、何考えてるんですかー? 失礼なことだということだけは分かりますー」
脳内髪の毛談議に夢中になっていた僕の視界に、火山噴火……じゃなかった、その『男』は割って入った。
「は、ごめんなさい」
僕はつい素直に謝罪してしまう。
「素直でよろしい! ていうか、ほんとに考えてたんかーい!」
ビシっと音を立てて胸の辺りを打たれ、僕はようやく、自分が仰向けに寝ていることに気が付いた。周囲に目を這わす。変哲のない天井に、丸い電灯。スイッチは点いていないが、壁付けになっているらしいベッドのすぐ横にある窓から、カーテン越しに淡い光が届いている。そのお陰で、部屋の様子は大体は分かる。
「え、無反応? え、え、えーと。おっほん」
頭上から咳払いが落ちてきて、僕の意識は再びそちらに引き寄せられた。
「調子はどう?」
「え、ええ、まあ……」
そこまで云って、ぼんやりと、いや、良いはずないじゃないか、という想いが浮かぶ。視界はどんどんハッキリとしていくのに、反して、心に暗い闇が流れ込んでくる。
「うわっ」
闇から逃れるように、身が反射的に浮き上がった。急に頭を起こしたことで、軽い眩暈が起こる。だが、そんなことは些細なことだった。手のひらを、じっと見つめる。
「僕は、どうして……」
確かに、あの夜、あの場所で、色濃い泥濘に身を投げたはずなのに……。
「まあ、まあ。小難しいことは後にしよう。コーヒーは?」
「えっと……」
「飲める?」
「あ、はい……」
「あらら、大人だねえ。俺は無理。だからこの家にはオレンジジュースしかない」
ニカっと笑って、『男』は誇らし気に親指を立てた。
いや、じゃあなんで訊いたんだよ。
「え? なんで訊いたかって?」
訊いてない。
「かっこいいから! コーヒーの方が!」
*
それからなんと、数日が経った。
だというのに、僕は何ひとつ、状況を把握していなかった。
積極的に『男』に状況を訊ねなかったのは、どういうことなのか、いち早く知ってしまいたいという気持ちと、もう何も知らないまま永遠に、なんとなく生き延びてしまいたい気持ちとがない交ぜになっていたからだった。
『男』も『男』で、特にはぐらかす様子もなく、かと云って説明するそぶりもなく。何か深い意味があっての事なのか、ただ何も考えていないだけなのか。謎が謎を呼ぶ人物だった。
ただこの数日間でよく分かったのは。
「いやっほう! 今日もいい天気だねえ」
「いや、めっちゃ外、曇ってますけど」
この人はもの凄く、そりゃもう、もの凄く『馬鹿だ』ということだった。
やっぱり何も考えてないな、こりゃ。
「雨降ってなきゃ、全部晴れと同じだって」
「なんすかその、ザックリすぎる分類は」
何の資料なのか本なのか服なのかが分からない物たちが四隅とその合間を縫って散乱している、一応リビングであるはずの場所で、これまた色んな物が積み重なった四人掛けテーブルで向き合う僕と『男』。このテーブル、まともに使われたことはあるのか?
「で、今日はお買い物、一緒に行く?」
「行きません」
「ぎゃーす! 今日も秒速で玉・砕!」
本当にいちいち、やかましい。
「でも、ちょっとは外に出ないと毒……」
それまで(いつも)マシンガンのようにのべつまなく喋りまくる『男』が、不意に視線を彷徨わせ、言葉が途切れた。
「やべえ!」
「な、なんですか」
『男』が唐突に奇声を発することは毎度だが、タイミングがまったく読めないので、体は未だに慣れず飛び跳ねてしまう。
「いや、やべえよほんと、やべえから俺、買い物行ってきます!」
そう敬礼して宣言すると、『男』は四方八方をひっくり返して、クタクタになったエコバッグを発掘した後、リビングのドアをぶち破るようにして出掛けて行った。
勢いに釣られて玄関へ向かうと、一足ずつしか残っていない靴(しかも両方右足)がたたきに散らばり、ふと据え付けの靴箱の上を見ると、『男』が愛用しているキリン型の(何もかも全てが取り出しにくい)財布が持ち主に置いてけぼりにされていた。
「何しに行ったんだ、あの人……」
呆然としている僕の前で、ドアノブが動いた。
鍵など閉められているはずもないのだ。




