★第十七話 最悪の一日
今回もちょっとシリアス回。
メムの実家チラ見せ。
今日は最悪の一日だ。
自分の実家の門を潜る時、そんな風に思う人間がどれだけいるのだろう。
嫌味なほど立派な面構えの門、その奥に続く、無駄な人件費をかけて維持している庭園。庭師の腕前は本当に優秀なのだが、それをただ権威付けとしか認識できない連中に捧げられているのは、まさに真珠に豚だ。
一族、肉親。
連綿と続いてきたそのはた迷惑な【血】という概念が、俺の人生をどれほど惨めなものにして来たのか。
「メム、そんなに嫌か」
前を行くヌンが、笑いとも呆れともつかない表情で振り向く。太い眉に揺るぎない瞳。大木の根のような男を見下ろす俺は、風に吹かれればポッキリ折れてしまうような小枝に過ぎない。
どうして、この男ではなく、何も持たない……いや、何も持たないよりも悪い俺が、本家に産まれたのか。災厄を受容する度量も、それを打ち消す能力も持たない俺が、どうして【器】の役目を負ったのか。
「こいつが実家嫌いなのはガキの頃からじゃん」
俺が逃亡しないように見張っているのか最後尾についたベータが、頭の後ろで手を組んでぶっきらぼうに云う。
「ま、あたしもここ、あんま好きじゃないけど」
そうして、ぼそりと続ける。ヌンは、不機嫌な子ども二人に参ったように、眉を下げた。
「あの子にも来てもらえば良かったかな」
「あの子?」
「サメフ君。さっき心配してたぞ、お前の身は安全なのかって」
「ひゅー、お熱いねえ」
ベートがふざけて口笛を吹く。
「俺より安全な奴がこの世にいるか? 檻に閉じ込められた珍獣なのに」
珍しがって近付いてくる奴らはいても、決して俺に触れようとはしない。関わろうとはしない。ただ下種な好奇心で、安全な檻越しにジロジロこちらを見ているだけだ。
「彼が来てくれたら、お前ももっとリラックスできてたんじゃないか」
「サメフがここに来たらおかしいだろ」
「友達を家に連れてくるのは、全然おかしくないだろう」
「冗談だろ、こんな呪われた場所に、誰かを連れて来るなんて」
それに、サメフはきっと、友達には該当しない。友達はきっと、お互いに何でも知っていて、何でも分かち合って、その上で尚、一緒にいられる人間だ。
俺はサメフの何も知らないし、サメフも俺の何も知らない。
お互いに何も知らないから、一緒にいられる。
きっとそうだ。
「でも、あんたが静かになるのはここくらいだから、あたしは良いけどねーん」
ベートがまたもや憎まれ口を叩く。けれど小さい頃から、こいつなりに俺に気を回してくれているのも分かっている。不甲斐ないのは俺だけだ。何も与えられず、何かに支えられなければ存在も出来ない。そんな出来損ないが俺。
「片付けもさせられて、極めつけは実家連行かあ」
ようやく表玄関へ辿り着き、靴を脱いで上がる。俺が幼少の頃は裏口から入れだの、靴は揃えて下駄箱へ入れておけだの口やかましかったが、今はもう諦められたのか、口出しされることもない。
「私にとっても急な呼び出しだったんだ。今日はお前たちとゆっくりしようと思っていたのにな」
長い庭の後は、長い廊下だ。うんざりしながら歩く。
「とか云って、ヌンはサメフに会いに来たんだろー」
「な、」
俺が云った途端、ヌンが元々大きな目を更に見開いて、わざとらしく咳き込んだ。分かり易すぎる。
「あー、ヌンはちっさくてかわいいものが好きだもんねー」
ベートが新しい遊びを見つけたように、追随する。
「お前たち、何を誤解して、」
「小鳥とかーハムスターとかー、なんか握りつぶせそうなの、好きじゃんね」
「なんつー物騒な物云いだよ、暴力女」
「その女に護って貰ってんのは誰だよ、ひ弱男」
「なにー!」
「んだ、こらーーー!!」
「ああ、もう、お前たちやめないか!!!」
ヌンが堪らず仲裁に入った時。
クスクス。
この世で最も不快な笑い声が響いた。
「相変わらずねえ、あなた達」
廊下に面した襖がスッと開いて、一人の女が出て来た。腰を柳のようにくねらせてしなを作り、胸を強調するように腕を組んでいる。恐ろしいほど何も変わっていない。
「ああ、アインさん。お久しぶりです」
ヌンが如才なく、女に向かって頭を下げる。ベートも、その陰で浅く礼をする。
「みんな、ちっとも会いに来てくれないんですもの。私、嫌われちゃったのかしら?」
紅を引いた唇を攣り上がらせて、くすりと笑う。
「そんな訳ありませんよ。アインさんの御加減を、皆いつも心配しています。今日は顔色が良いようですね」
「ええ。私やっぱり、暑い方が性に合っているみたい。最近はよく眠れるし、朝から書き物をすることもあるの」
「それはそれは。どんなものをお書きになっているんです?」
「それは……」
女は勿体付けた流し目して、
「メム?」
まるでたった今気が付いたかのように、俺の名を呼ぶ。そうして、遠く離れた恋人を見つけたかのように、感激の面持ちで両腕に取りついてきた。
「久しぶりねえ、メム。また背が伸びたんじゃない?」
成長期はとっくの昔に終わっている。
「お父さんに一段と似て来たわあ。昨日もお父さんと話してたの。今度、メムとお父さんと私の三人で、旅行に行ったらどうかしらって。だって、メムったら大きくなってから、私たちにちっとも構ってくれないでしょう? お父さんもお母さんも、すっごく寂しいのよ。ね、良いでしょう?」
「ええ、そうですね。母さんのお加減が良い時にでも」
俺は精いっぱいに微笑む。なるべく無邪気に、なるべく立派な息子に見えるように。脳裏で、いつ突き飛ばしてやろうかと思いながら。
「本当? 嬉しい! 大好きよ、メム」
胸の中に、生温かい肉が飛び込んでくる。この女に抱きしめられることほど、おぞましい拷問はない。
「さ、母さん、もうお部屋に戻った方が良いですよ。お風邪を引かれてはいけませんから」
やんわりと押し戻して、さっさと退場させようとする。肩先で切り揃えられた髪は艶やかに揺れ、こちらを見上げる黒々とした瞳は、何かを見ているようで見ていない。誰も知り得ない虚空、自身にだけ見える世界、その中でずっと、この女は生き続けている。
「ありがとう。あなたは昔から優しいものね、メム」
今日は素直だ。俺は胸を撫で下ろす。
「今からお父さんに会うんでしょう? さっきの旅行の話、しておいてね。絶対よ」
「ええ、もちろん」
振り返りざまに放たれた言葉を、適当に受け流す。どうせ数時間後には、まったく違うことを云い出しているに決まっている。一つ一つに真剣に構っている余裕はない。
襖が閉まり、俺達は無言で歩き出す。十分に離れたところで、俺は深く長く、息を吐き出した。
「良い子ぶっちゃって」
ベートが茶化す。
「あれが一番、穏便に済む方法なんだよ。ヌンの方が猫被ってただろ」
「私は大人としての礼儀を果たしたまでだ。それに私とベートにとって、アインさんは目上の方だぞ」
「あの女が目上なんじゃなくて、あの女の旦那が目上なんだろ」
「こらメム、ここでは口を慎め。誰が聞いているか分からん」
「へーへー、スパイだらけですからなあーここはー」
防音など度外視された、古い造りの邸宅では、声など筒抜けだ。寧ろそういう意図があるのかもしれない。
「でもさ、あの人、怖いよね」
ベートがヌンの忠告もどこ吹く風で呟く。
「昔は、メムの遊び相手にって、よくここに来てたけどさ。あの人、すっげー優しいんだよ。いつもニコニコしてて、お菓子もいっぱい出してくれてさ。あたしが何のお菓子が好きかちゃんと覚えてて、次来るときは多めに用意してくれてたり。ほんと優しいの。優しいのに、でも……」
言葉を探すように、ベートは視線を漂わせる。そうして、諦めたように、肩を竦めた。
「分かんねー。でもなんか、怖い」
「壊れてるからだろ」
俺は云う。
「あの人は本当は、もうとっくに死んでるはずの人間なんだから」
さあっと、生ぬるい風が吹く。庭の美しい木々が、この邸宅に住む存在達を非難するように、身を揺する。
切れかけた糸を無様に紡ぎながら、俺達は生きて来た。




