★第十五話 下賤の子ども
ザインとテットの過去編断片。
「あなた、綺麗ね」
初めて会った時、【あの人】は、そう云って俺に微笑みかけた。
【あの人】は、いわゆる美人だった。薄幸の美人。というより寧ろ、関わった人を軒並み、ぬかるみに引きずり落とすような女。
俺は、その「美しい」と云われる笑顔に、毎回総毛立っていた。笑みを向けられる度、その媚びたような声を聞く度、背中がぶつぶつと粟立つ。その顔や肢体の造形が整っているのは、子どもながらに理解していた。けれど、その薄っぺらい肉体から透けて見える何かが、強烈な嫌悪感を湧き起こさせる。
たぶん【あの人】は、自分をまだ十代の、無垢な少女だと思っていた。それでいて、自分の肉体をもって何かを【支配】することに、何の躊躇もなかった。
【あの人】によって、ドブの臭いのする泥濘に引きずり込まれた人が、周辺だけでも何人もいた。家庭も事業も滅茶苦茶になった社長もいたし、サラ金に借金してまで貢ぐ二十代のフリーターもいた。息子の担任や校長まで誑かしたし、時にはインチキ女占い師を逆に奴隷にしてしまうこともあった。
よく刺されなかったものだと思うが、【あの人】の狂気に太刀打ちできる者など、その辺の有象無象の人間の中には存在しなかったのだろう。
俺は【あの人】を見ることによって、【醜い】という言葉の意味をまざまざと思い知った。【あの人】は俺にとって醜さそのものだったし、醜いという言葉は【あの人】の為にだけ作られた特別な言葉のように感じていた。
それでも俺が【あの人】に会わざるを得なかったのは、その息子がテットだったからだ。
テットを初めて認識したのは、小学三年生の時だ。新学期のクラス替えで初めてクラスメイトになった。最初は名前順だった席順も、一カ月もすればくじ引きでの席替えになった。そしてテットはたまたま俺の前の席になった。
テットはいつも、人形のように清潔だったし、行儀が良かった。他の同級生のように泥団子も作らなかったし、水溜りに飛び込んだりもしなかったし、授業中にノートや机に落書きしたり、消しかすを固めて飛ばしたり、奇声を発したり、大口を開けて笑ったりもしなかった。
テットはいつも、ただそこに居て、そこでやるべきことをし、余計なことをせず、やるべきことが終われば、ただ帰る。休み時間も、ただジッと机に座っていた。修行のように、身じろぎもせず、退屈そうな素振りも、脚をぶらぶら揺らすこともなく。置かれた物のようにそこに居た。
ある放課後、俺は興味本位でテットの後を付いていった。もしかすると、学校が終われば、あの石膏像のような顔にも変化があるのかもしれないと思った。もしあるのなら、それを見てみたかった。クラスメイトの誰よりも先に。テットの笑顔は想像することすら難しかったけれど、その瞬間を目撃することを考えると、無性にワクワクした。
だが、その期待は早々に打ち砕かれた。テットは、学校で過ごすのと同じように、どんな道草も喰わずに淡々と下校する。犬や猫が通りかかっても、顔をそちらに向ける事すらしない。まるで、ひと目でもよそ見すれば、その瞬間に世界が大爆発を起こすかのように、その全責任を背負っているかのように、テットはただ前を見て、ただ歩いた。
俺は諦めきれずに、半ば意地になって、テットの後をつけ続けた。テットが振り返り、このゲリラ的尾行が露呈する心配は、もはやする必要がなかった。
やがて必然的に、テットの住む家に着いた。後から思えば意外にも、それはごく普通のマンションだった。まあ、金づるを捕まえても、最終的にはその当人を地獄へ突き落とすのだから、意外と金回りは良くなかったのかもしれない。【あの人】が一切の経済活動を放棄していたことを思えば、寧ろ一般的なマンションに住まえるのは恵まれた立場だったとも云える。
オートロックや管理人の常駐もないマンションに、テットを追って入るのはなんら難しいことではなかった。少しだけ間隔をあけて、開けっ放しになっているエントランスのガラス戸を抜け、電灯のちらついた階段を上る。足音は出来うる限り忍ばせる。
そうしてテットは、一つの部屋に入っていった。階段の踊り場からそれを見届けた俺は、ドアが再び開く気配がないことを確認してから、テットの消えた部屋の前に立った。それからさして悩むでもなく、大胆にも、インターホンを押した。
何の変哲もないチャイム音が響き、一秒、二秒、三秒、四秒、ちょうど五秒が立とうかと云う時に、外廊下に面した、格子付きのガラス戸が開いた。最初、覗いた白い顔と黒い髪に、俺はぎょっとして反射的に身を引いた。自分で訪ねておきながら。
白い顔に浮かんだ、まるで裂け目のような二つの目が、俺の体を足先から旋毛まで、撫で回すように見つめるのを感じた。俺はその時からもう、その気色の悪さに拒否反応を示していた。
「あなた、綺麗ね」
永遠のような時間が流れた後、その人物……【あの人】はそう云った。
白い顔が、発光するかのように、格子の向こうで浮き上がる。裂け目に見えた細い瞳が、今ではどんぐりのようにパッチリと、丸々と、広がる。
「だあれ? どうして、此処へ来たの?」
舌足らずの口調で、【あの人】は訊いた。俺は目を逸らせたい衝動に抗いながら、なんと、にこりと微笑み返して見せた。
「テット君、いますか?」
問いには答えず、自分の要求だけを告げる。子どもらしく、率直に。
その内容がよほど意外だったのか、【あの人】は虚を突かれたような顔をした。けれどすぐに笑みを取り戻した。
「あの子のお友達?」
「テット君の忘れ物を届けに来たんです」
「忘れ物って?」
さっさとテットを呼べばいいのに、面倒くさい女だと内心舌打ちしながら、背負っていたランドセルを体の前に回し、中から一枚のプリントを取り出した。
「このプリントです。大事なプリントで、お家の人に絶対見せなきゃいけないって、先生が云ってたんです。でも、テット君の机に、これが置きっぱなしになってたから」
「あらあ、そう?」
【あの人】の瞳が、また細い裂け目に戻る。気色が悪い。俺は何も云わず、ただ作り笑いを浮かべて静止していた。やがて【あの人】は、心の中で決定を下したらしく、
「入って」
とだけ云って、格子の前から消えた。しばらくして、ドアの向こうから、開錠の音とチェーンを外す音がしたが、ドアはしんとしたまま動かない。俺は銀色のドアノブに手を掛けて、ゆっくりと開く。まだ梅雨入り前だったが、既に空気はたっぷりと水を含んでいる。花のような甘い香りが湿気を纏って、俺の鼻先を掠め……。
「いらっしゃい」
腹まで伸びた長髪を揺らしながら、【あの人】がそこに立っていた。
*
とろみのついた赤い液体が、真っ白なテーブルクロスの角から、すーっと流れ落ちている。ポタポタと滴るのではなく、蛇口を捻ったように、すーっと。
子どもの俺が、テーブルの脚にしがみついて、床に座り込んでいる。
その頭に、赤い液体がスープのように注がれる。髪も服も、みっともなく濡れそぼり、捨てられた老犬のように惨めだ。
テーブルの向こう側に、誰かがいる。きっと母だ。
顔は見えない。声もしない。けれど母はいつでも、その空間を支配する。
母の姿を見ずとも、母がいることが分かる。
母がいない時でさえ、頭の中で母が囁いている。
母の目は時空も空間も超えていつもそこにあり、俺を見ている。
ベランダの窓のカーテンがゆらゆらと揺れて、気紛れに陽光が俺を照らす。
赤い液体に濡らされながら、ぼんやりとそちらを眺めていると、ふと影が現れて、ベランダからリビングへと入ってきた。この部屋は四階だ。ベランダから侵入することは不可能。もともと、そこにいたんだろうか? だとしたら、いつから?
影は一歩一歩こちらへ向かってきたが、どれだけ近付いて来ても、ぼんやりした影のままだ。影は手に何かを持っている。キラキラと、輝くように見えるそれは、とても綺麗だ。
「 」
影が、何かを云った。
「 」
母の声が、それに答える。上擦っていて、早口で、取り乱している。
俺は耳を塞ぎたい衝動に抗いながら、テーブルの下から立ち上がろうとした。赤い液体がぬるぬると滑り、俺は何度も転ぶ。
そうこうするうちに、何かがぶつかりあったり、落ちる音が聞こえて……。
パリン……。
その音が、俺を正常な世界に引き戻した。
カチャリ、カチャリと、破片を搔き集めるような音が、どこからか聞こえている。
無意識に額に手をやった。汗ばんでいる。背中も、蒸れたシャツが貼り付いて気持ちが悪い。
ゆっくり、身を起こす。柔らかなマットレス。清潔なシーツと布団。このベッドにも、周囲の最低限の家具しかない光景にも、見覚えがある。
ザインの家だ。
「よお! 起きた?」
ドアが開き、ザインが入ってきた。寝起きにバカでかい声は聞きたくない。
「なんか割ったのか?」
先ほどの音を思い出し、訊ねる。
「ああ、皿、割っちまって。小皿だから、大したことない」
「今何時だ?」
「ババーン、なんと、夜の九時」
「九時……」
ケーキを食べていた至福の時間はまだ昼だった訳だから、七、八時間ほどは眠っていたようだ。
「お前が倒れるの、久しぶりだな」
ザインはベッドの端に腰掛けながら云う。重みで体が傾ぐ。
「誰のせいだ」
「何云ってんだよ、思いやりだろー? クマ凄いぞ。また寝れてないんだろ。お前の甘いものを食べる量と、寝不足アンド情緒不安定度は比例するからな」
だからこいつは嫌なんだ。
「そういえば、墓参り行くのか?」
こういうのも嫌だ。
「行く予定は……ない、よな」
俺の顔色を勝手に伺うな。
昔からそうだ、何も云っていないのに、凡てを見透かしたような顔をし、それは大抵は図星なのだ。
「なんで?」
「うるさい」
「【あの人】が、化けて出そうだから?」
ひりつく喉は、否定も肯定も阻む。
「はは」
ザインは笑って、満足気にベッドから勢いよく立ち上がった。俺の体は再び傾いで、慌てて腕で体を支えた。
「なあ、飯食おうぜ、飯」
「脂はいらない」
「違うって、おにぎりおにぎり。この尊き警部様が自ら握ってやったから!」
「どうせ具が牛脂……」
「それは俺用だから! お前にはやらねえから!」
云い捨てると、ザインは無駄な高笑いをしながら、リビングへと消えていった。
「はあ……」
俺はため息を吐く。
やっぱり、パフェも食べておくべきだった。




