短編11(後)
それから一時間後、アランはロッカと共に零騎士団の詰め所を訪れていた。
直前まで川で遊んでいたので騎士隊の制服の端々が濡れてしまっているが、さすがに気付かれはしないだろう。気付かれても走って逃げればいいのだ。
「お互いのためにも早く決まればいいんだけどね」
「そうだねぇ。僕としてはおじさんが何人蒸されようと別に構わないんだけど、匂いが染みついちゃいそうで嫌だよね」
「私としては誰も蒸されない方向で決着がついてほしいなぁ。……うわ、窓が曇ってる」
「僕達の詰め所がおじさん蒸し器に!」
到着した詰め所では、扉にはロッカが呼び出したゴリラ、窓には熊や他の動物が張り付いていた。
だが彼等は実体のない白靄だ。よく見れば後ろにあるものを透かして見る事が出来る。
いまならば、雲った窓と、その奥でぐったりしている数人の姿がぼんやりと見えた。
「ジャルダン様、ごきげんよう」
白靄の熊に横にずれてもらい窓の向こう側いるジャルダンに声を掛ければ、彼は勢いよくバンと窓に張り付いてきた。
額に汗が溜まっている。それどころか頬を伝い、首回りも汗が滴っている。普段はきっちりと着ている騎士団の制服も今はだいぶ崩しており、彼らしからぬ姿ではないか。
「何を考えているのかはもうどうでも良い、さっさとここから出せ」
「出せませんよ。交渉ですもん」
「交渉……。そういえばデルドアとヴィグもそんな事を言っていたな。それで、どういう交渉なんだ」
「私達の詰め所を夏も冬も快適に過ごせるように、今直ぐに改装するって約束してくれたら皆さんを解放します」
「申請書を出して通ったんだろう。それなら指示が出るのを」
「着工の予定が一年半も先なんですよ!」
信じられない! とアランが声を荒らげる。それに対して横からロッカの「そうだそうだ!」という後押しも続いた。
詰め所の改装については以前から希望を出している。
聖騎士団の時代には蔑ろにされていたものの、全てを正して零騎士団になった今はきちんと希望も通っている。
……のだが、かといって優先されているわけでもない。とりわけ建物工事になると先に直すべきところや費用の関係もあり、順番待ちになってしまうのだ。
とりわけ、人目につかない場所に建っている建物の、それも暑さ寒さへの対策なのだから、緊急性の高い工事が発生すると横入りされてしまう。
その結果、零騎士団の詰め所の改装工事は一年どころか一年半も先になっているのだ。
それだって計画通りに実行されるかどうか……。
「耐えられるわけがないし耐えたくもないので、皆さんに私達の詰め所がどれほどなのかを体験してもらおうと思ったんです」
「それでこの仕打ちか……。だが工事個所は費用も含めて年単位で決められているし、お前達の詰め所は外部からは見えないからどうしても後回しになる。まずは老朽化している場所や人目につく場所を……、おい待て、どこに行く!」
ジャルダンの話もそこそこに、アランはロッカに「行こうか」と告げて窓から離れた。
交渉決裂である。
「また一時間後に来ますね」と告げればジャルダンの唸るような声が聞こえ、去り際にちらと振り返ると白靄の熊が再び窓をガッチリとガードするのが見えた。その靄の奥に見える屋内の光景は中々に苛酷だ。
そうして一時間後に再び詰め所に戻れば、更に状況は悪化していた。
普段ならば衣類のボタン一つ外すことなくきっちりと纏っている重鎮達も、今はボタンを開け、シャツをはだけさせ、気だるそうに床に腰を下ろして頭を垂れている。
暑い、とアランは小さく呟いた。中の光景は見ているだけで暑くなってくる。幻覚の熱風が頬を掠めた気さえした。
「ジャルダン様、生きてますか?」
「……物騒な事を聞くな。第一騎士団の団長たる俺がこの程度で音をあげるわけがないだろ」
「それならもう一時間ですね。ではまた」
「待て待て、ちょっと待て、話を聞け」
アランが再び詰め所を後にしようとすると、慌ててジャルダンが呼び止めてきた。
バンと窓を叩くあたり、きっと窓を開けて手を伸ばして掴みたいのだろう。だが窓の鍵は白靄の蛇が絡まりながらガードしており、押さえの熊が横に退いても開けることは出来ない。
「俺はまだ耐えられるが、他はもう限界が近い」
「『零騎士団の詰め所』と書いて、今は『おじさん蒸し器』と読みますからね」
「お前は自分の詰め所が高齢男性蒸し器でいいのか?」
「いいわけないですよ。それで、呼び止めたってことは交渉するんですか?」
アランの問いに、ジャルダンが悔し気な表情を浮かべた。
応じたくない。だが重鎮達の体力を考えると応じざるを得ない。だが悔しい。……と、そんなところだろう。
そうしてしばらく低い唸るような苦悶の声をあげたのち、彼はゆっくりと口を開いた。
「……年内着工」
ポツリと呟かれた譲歩の言葉。
これに対して、アランは答えようとし……、横からロッカに抱き抱えられた。
「年内着工なんて駄目! 即日、今日! 今この瞬間から着工じゃなきゃ詰め所から出さないよ!」
シャー!と音がしそうなほどの怒りの声でロッカが喚いて走り出す。
アランは彼に担がれたまま、遠ざかっていく蒸し器もとい詰め所を眺めていた。
それから十五分後。
さすがにあの交渉決裂は無いと判断したアランはロッカを宥め、再び詰め所へと戻ることにした。
「ロッカちゃん、さすがにこの瞬間から着工は無理だからね」
「だって僕もうジメジメしたの嫌なんだもん。尻尾も耳も湿気でしっとりしちゃうしさ」
「湿気が嫌なのは分かるけど、無理なものを条件つけても蒸し器になるだけだから、ちゃんと交渉しないと」
「はぁい。でも年内着工は嫌だよ!」
ぷぅと音がしそうなほど頬を膨らませてロッカが不満を訴える。迫力は皆無だが獣王の末裔の怒りだ。
これに対してアランも同感だと頷いた。今この瞬間に着工という無茶難題こそ突きつける気はないが、かといって年内開始で応じる気はない。
アランだってジメジメも湿気でしっとりも嫌なのだ。
そう考えて詰め所の窓へと向かえば、バン! と窓を叩き割らん勢いで再びジャルダンが詰め寄ってきた。
前をとめるボタンはすべて外されており、中に着ている下着も、それどころか肌すらもあらわになっている。
「きゃっ!」とアランはとりあえず高い声をあげて顔を手で覆っておいた。もっとも、覆いはするが指の隙間から普通に見るし、べつに恥ずかしくも何もないのだが。一応の礼儀だ。
「明日中に業者決定、十日以内に着工!」
開口一番のジャルダンの言葉に、アランはきょとんと目を丸くさせてしまった。
今の彼の表情は鬼気迫るもので、必死の形相とはまさにこのこと。普段から威厳や威圧感を纏う男だが今は通常の比ではない。
そんなジャルダンの背後に見えるのは、ぐったりとした男が五人。
言わずもがな重鎮達である。ロッカが出した白靄の動物達が見張っているので熱中症のような危機的状況ではないにしろ、だいぶ参っているのがわかる。まだ当分は喚けそうなジャルダンと比べ、こちらは顔を上げる気力もないようだ。
「十日以内に着工とは、一気に詰めてきましたね」
「限界が近い。誰もが家名やら権力やら何でも使うと言い出してるからな。かく言う俺も、スタルス家の名前を使うのも止む無しと判断した」
「スムーズに交渉が進むのは嬉しいんですが、そこまで拒絶される環境に長く置かれていたことに腹立たしさが……」
「今は気にするな。それより交渉成立で良いんだな。すぐにドアと窓を開けろ!」
「はぁーい。ロッカちゃん、お願いね」
アランが了承の返事をしてロッカへと視線をやれば、彼は白靄の動物達に「みんなもう良いよー!」と軽い声をかけた。
その瞬間、白靄の動物達の姿がゆらりと揺らぐ。まるで煙が風に煽られるように朧げになり、最後にガチャンと扉や窓を開け、空気の中に溶け込んでいった。
すぐさま扉から出てきたのはジャルダンだ。
彼は一人を担いでおり、それを近くの木陰に座らせると再び詰め所の中へと戻っていった。かと思えばまた一人連れてきて、降ろすと再び詰め所へ……と繰り返す。
その体力はさすがの一言に尽きる。もちろん今褒めたところで眼光鋭く睨まれるのがオチだが。
そうして全員を救出し、ジャルダンがその場に腰を下ろした。
ドザと音がしそうなほど勢いよく座り込むあたり、彼も限界が近かったのだろう。
「ジャルダン様、お疲れさまです。今ロッカちゃんが呼び出した鳥さん達が他の騎士隊の方を呼びに行ってくれてるので、すぐに救助が来ますよ。あ、お水を用意してますのでどうぞ」
コップに注いだ水を差し出せば、ジャルダンが忌々しげに表情を顰めながらも受け取るなり豪快に飲み干した。
「交渉は成立したからこれで満足だろう?」
「いいえ、まだですよ」
「まだ何かあるのかよ……、勘弁してくれ……。で、何があるんだ」
「私達の希望を聞いて貰わないといけません。でもあの人達はもう無理そうなので、ジャルダン様だけでいいですよ」
仕方ない、と言いたげにアランが提案すれば、ジャルダンからは返事代わりの盛大な溜息が返ってきた。
項垂れ尚且つ唸るような声で「分かった」と返してくる。妙にすんなり応じるが、きっと抗う気力も無いのだろう。
「それじゃあ移動しましょう」
「移動? ……まさか」
「そうです、川です。暑い詰め所で汗を掻いた後に冷たい川で冷やす、これが気持ち良いんですよ!」
行きましょう! とアランが意気込む。
そんなアランの隣では、すっかり川遊びモードに切り替わったロッカが白靄のイルカやらシャチやらを出している。早く行こうとはしゃいで跳ねており、挙げ句に移動のために白靄のダチョウを呼び出してしまった。
それにジャルダンを無理やりに乗せ、さっそくと走り出してしまう。哀れジャルダンの制止の声が次第に遠ざかっていく。
残されたアランは救助されていく重鎮達と詰め所を交互にみて……、
「私も川に行こうっと。改装ついでに良い毛布とソファを用意してもらおうかな。あと本棚も」
あれも欲しいし、これも……、と案を出しながら、軽い足取りでロッカ達の後を追った。
◆◆◆
「あの交渉のおかげで、今はこうやって温かく過ごせているんですよね。やっぱり平和的に話し合うのがいちばんですよ」
アランがかつての事を思い出しながら話せば、向かいに座るロッカが同感だと頷いた。
デルドアも同意らしい。もっとも、彼は「平和か……」と呟いているあたり些か異論はあるようだが。
「なんにせよ、詰め所が快適になるのは良い事だ。見ろ、ヴィグなんて毛布にくるまって熟睡だ」
「あの毛布とソファも工事に便乗して買って貰ったんですよね。それに私の本棚も。あと棚と他にも……。やっぱり平和的に話し合うというのは良いものです」
これぞ騎士のとる手段。剣を持って戦う事が騎士の務めではあるが、争いを起こさぬよう尽力することもまた騎士の務めなのだ。
そうアランが語り、次の瞬間ふわと大きな欠伸をした。
「部屋も暖かいし、ジェラートとクッキーでお腹も満たされて眠くなってきちゃった……」
うとうとと頭を揺らし、ゆっくりと立ち上がる。
向かう先はヴィグが寝ているソファの向かい。もちろん自分用の毛布を持ってくることも忘れない。
そうして毛布にくるまり「おやすみなさーい」と声をあげれば、デルドアとロッカも就寝の挨拶を返してくれた。
「平和的に交渉して、必要な時は詰め所で体をやすめる……。これが騎士の在り方なんだね。さすがヴィグさんとアランちゃん!」
「騎士の在り方……、かぁ?」
片や感心し、片や怪訝に首を傾げる。
そんな二人の声を、アランは八割夢の中に意識をやりつつ聞き……、そして完全に夢の中へと意識をやった。
…end…