第五話 庭園
あの後も本来の目的である書庫巡りは続いていた。
積まれた蔵書には、魔法理論の専門書や難解な古文書といった頭痛がしそうなものも多かったが、探せば童話や伝承、各国の歴史(私からしたら異世界ファンタジー小説だ)など色々出てくる。活字中毒のオタク気質な私にとって、暇つぶしとしてはこれ以上ないラインナップだった。
これだけ蔵書が充実してれば、魔王城での引きこもり生活も案外なんとかなるかも……
そんな現実逃避じみた考えを巡らせながら、私は大きく背伸びをした。
凝り固まった肩と背中がぽきぽき、と盛大に音を立てる。
ずっと書庫にこもってたからか何となく夜風に当たりたくなった。そういえば、自室の窓から見下ろした中庭はかなり広大で、夜の景色も悪くなさそうだった。
書庫を出て通路を歩いていると、慌ただしく書類を抱えて走るメイドのフィオナとすれ違った。
庭に出たい旨を告げると、フィオナは最初「お供します!」と食い下がってきたが、「なんでも、魔王様が城にお戻りになるらしくて……」と、彼女の顔に焦りの色が浮かぶ。それならなおさら引き止めるわけにはいかない。「ちょっと庭園を散歩して、夜風に当たるだけだから」となだめると、彼女はしぶしぶといった面持ちで首を縦に振ってくれた。
「……なんか、バタバタさせて申し訳ないな。あとでちゃんとお礼言っておかないと」
通路を急ぐフィオナの背中を見送りながら、私は庭園へと続く扉に手をかけた。
重い木製の扉を押し開くと、暖かい城内の空気とは打って変わり、夜の涼やかな風がふわりと頬を撫でる。
外に出てみるとそこには、幻想的な夜の世界が広がっていた。
足を踏み入れた中庭は、手入れが行き届いていて特に目を引いたのは、月光を浴びて咲き誇る無数の青い薔薇たちだ。
鮮やかなその青さは、どこか魔王の銀灰色の髪を思い出した。こんな景色の中で暮らしている魔王は、何だか私とは、生きる世界が違うんだなと、ぼんやりそんなことを思った。
ふと見上げた夜空には、二つの月が見える。本当にここは異世界なんだと妙な現実味が湧いてくる。
夜の静けさの中に漂う、どこか甘い花の香り。胸いっぱいに吸い込むと、思考がすっきり洗い流されるようで心地よかった。
水音が聞こえてくる方へ足を向けると、どうやら小さな池があるらしい。
その池のほとりに、屋根付きの東屋がぽつんと佇んでいた。中には、夜風を避けるように椅子と机がしつらえられている。
「……おあつらえ向きの休憩スペース、って感じ?」
私は吸い寄せられるようにその東屋へと歩を進めた。
誰もいないはずの静かな夜の庭園。
水音の響く池のほとりで、ふと、視界の端に何かが動く影をとらえた。
「……ん?」
目を凝らしてそちらに近づいてみる。
東屋に設えられた、石造りの長椅子。そこに、誰かがもたれかかるように眠っていた。
月光に映える、銀灰色の髪。
整いすぎた美しい横顔に、均整の取れた体躯。
「っ……!?」
息が止まりそうになった。
さっきまさに頭の中で思い浮かべ、フィオナが「お戻りになる」と慌てふためいていたその人、魔王が、こんな人気のない庭園のベンチで、静かに目を閉じて眠っていたのだ。
物音を立てないようにそっと息を殺して近づく。
その寝顔は驚くほど端正で、穏やかだった。昨日見せたあの荒々しさや、恐ろしさは微塵もない。無防備に目を閉じるその美しさに、私は思わず見とれしまった。
だが、わずかな私の足音や息遣いに気づいたのだろう。魔王の長い睫毛がふわりと震え、顔にかかっていた髪がさらりとこぼれ落ちる。
そして、ゆっくりと開かれたその赤い瞳と、真っ直ぐに視線が絡み合った。
「……おまえは」
静かな声が響く。寝起きの気だるさを孕んだその声に、私の心臓がヒュッと凍りついた。
「ご、ごめんなさい……っ!」
反射的に頭を下げ、私は慌てて後ずさる。
見ちゃいけないものを見てしまったという気まずさと、相手が本物の魔王という事を思い出して、反射的に頭を下げてしまう。
「ああ、お前は昨日、俺が花嫁にした……」
魔王はまだ完全に覚醒しきっていないのか、片手でこめかみを押さえながら、どこか気だるそうにそう呟いた。
一応、私の顔をちゃんと覚えてくれていたらしい。昨日はあんな強引に連れ去られて、有無を言わせずキスまでされたというのに、当の本人は「あー、そんなこともあったな」くらいの温度感なのだろうか。
「……あの、夜分遅くにすみませんでした。すぐ立ち去りますので、どうぞお休みを……っ!」
私は慌てて頭をブンブンと横に振り、冷や汗をかきながら、これ以上刺激しないように慎重に後ずさろうとした。
しかし、魔王はゆっくりと上体を起こすと、その赤い瞳でじっと私を見る。寝起き特有の気だるげな雰囲気をたもったまま私を呼び止める。
「待て。……夜風に当たりに来たのだろう。近くにいるくらいで、邪魔にはならんが」
「っ……!」
逃げ出したいのに足がすくんで動けない私をよそに、魔王は髪を軽くかき上げ、ふっと興味深そうに口角を片方だけ上げ、手招きする。
「こっちに来い」
反射的に私の体は硬直し、すぐに返事ができない。
全力で逃げ出したい衝動に駆られながらも、逆らう気力もなく、私は頷いた。
私はロボットのようにぎこちない動きで歩を進め、魔王が腰掛けているベンチの近くに、ちょこんと腰を下ろした。
至近距離で見る魔王は、やはり圧倒的に顔がいい。
月光を反射する銀灰色の髪と、輝く赤い瞳。緊張で息をするのも忘れている私を、魔王はじっと見下ろすように観察していた。ふと、私の着ている衣装に視線を留めた。
「服を着替えたのか」
指摘されて、私は慌ててスカートの裾を両手でキュッと抑える。昨日着ていたヨレヨレの服から、今日はフィオナが用意してくれたドレスに着替えていたのだ。
「ええ……フィオナが、着せ替えてくれて……」
「そうか」
私が少し縮こまりながら答えると、魔王はふっと目を細め、静かに告げた。
「似合ってるぞ」
「…………え?」
あまりにもサラリと、発せられたその褒め言葉に、私は完全にフリーズした。
まさか魔王から真っ直ぐ「似合ってる」なんて言われるとは思わず、止まっていた心臓が逆に跳ね上がる。
じわりと顔が熱を帯びるのを自覚しながら、私は返事の仕方に迷い、ただ「あ、ありがとうございます……」と蚊の鳴くような声で絞り出すのが精一杯だった。
「そういえば、お前の名前をまだ聞いていなかったな。俺の名前はゼルド・フォン・ヴァルハイトだ」
「わ、私は……ルチアです」
かろうじて絞り出した自分の声は、かき消されてしまいそうなくらい小さかった。
すると、ゼルドはふっ、と小さく息を漏らし、ゆっくりと手を伸ばしてきた。私の頭へと近づいてくる。
「ルチア……か。響きのいい名前だ」
ひんやりとした夜の静けさの中、ゼルドの長い指が私の髪にそっと触れた。
乱れないように、優しく、私の髪を一筋すくい上げる。私の心臓は先ほどからずっと暴れっぱなしだった。
「あ、っ……あの、ゼ、ゼルド……?」
「動くな」
短く、低い囁き。逃げ出そうとした私の顔を、ゼルドのもう片方の手が優しく、けれど絶対に逃がさない角度で捕らえた。
無理やりではなく、自然と視線が引き上げられる。見上げれば、赤い瞳が、今は熱を帯びて私を捉えていた。
「何故か、お前を見ていると心をかき乱される」
銀灰色の髪を揺らしながら、ゼルドは顔を近づけてくる。私の髪に触れていた指先が、そのままスライドしてそっと頬に添えられる。魔王の体温が妙に心地よくて、頭がトロトロと溶かされていくような感覚に陥った。
ふわりと香る、夜の庭園の草花と心地よい魔王の匂いに、頭が動かない。ただの生贄として連れてこられたはずなのにこんな甘い言葉を囁かれるなんて聞いていない!
「そ、そんな大層な人間じゃないです……。前世はただの、仕事して推し活に勤しんでただけのしがない村人ですし」
「前世? ……よく分からないが、お前が何者であれ関係ない」
心臓がうるさすぎて、ゼルドに聞こえているんじゃないかと本気で焦る。動けない私を見て、柔らかく、微笑んだ。
「怯えるな。……これからゆっくり、お前が俺の隣にいることが当たり前になるように教えてやる」
「……っ」
息が詰まる。背筋をゾワリと這い上がるような甘い悪寒に、私は思わず肩を揺らした。
私の頬に添えられたゼルドの指先が、なぞるように動いた。逃げ場を探して泳ぐ私の視線を、ドロドロと粘り気のある濃い瞳で見つめていた。




