第ニ話 魔王城
あの後、魔王に誘拐されるように窓をくぐり抜けると、そこは魔王城だった。
魔王城と聞いて身構えていたが、城塞の類は一切ない。代わりにそこに佇んでいたのは、上品な大きなお屋敷だった。といっても私の村では絶対に目にすることなどない、立派なお屋敷だけど。
魔王は大きなお部屋に前に足を踏み入れると、私を振り返ることもなく、「ここがお前の部屋だ。好きに使え」とそっけなく言い捨て、長い廊下の闇の奥へと消えていってしまった。
えっ、それだけ……
酷い目に遭わされるとか、あるいは何か恐ろしい儀式が始まるのだと、身構えていただけに、あまりの拍子抜けな扱いに、私はしばらくその場でポカンと立ち尽くしてしまった。
呆然としながらも促されるままに入った部屋は、一人で過ごすにはもったいないほど広かった。部屋の中央に鎮座する天蓋付きのベッドに腰を下ろしてみれば、村の硬い寝台とは比べ物にならないほど、ふかふかで驚くほど柔らかい。
魔王に啖呵を切り、大騒ぎして。
「……なんだか、すごく、疲れたなぁ……」
ぽつりと零れた本音のまま、私はそのままふかふかのマットレスへと身体を沈めた。
直後、疲労と、ようやく訪れた安堵からか、猛烈な睡魔が一気に押し寄せてくる。
瞼が重く垂れ下がり、私の意識は心地よい闇の中へ溶けていった。
……。
遠くから、誰かが優しく名前を呼ぶ声がする。
……ん。
体を軽く揺すられて、私はゆっくりと瞼を持ち上げた。ここは、どこだろう。
見慣れない天蓋付きの大きなベッドの上でぼんやりと天井を見上げ、それから、ああそうだと思い出す。私はあの後、エレーナの代わりに魔王の花嫁として、この城へ連れてこられたのだった。
寝ぼけた頭のまま、ふと横に顔を向けてみる。
もふっ。
視界に入ってきたのは、真っ白で、綺麗な毛並みをした何かだった。柔らかそうで、私はそっと手を伸ばしてその背中を撫でてみる。
すべすべしていて、柔らかくて、手触りがいい。なんだろう、これ。
「くすくす、くすぐったいよ」
ふわりと、愛らしい少年のような声が耳に届いた。
え、声……?
ぼんやりしていた意識が、その瞬間、一気に現実に引き戻される。
私が目を見開いて固まっていると、その白い生き物はペロリと小さく舌を出し、つぶらな瞳で私を見上げてこう言った。
「おはよう。僕はシフォン。よろしくね」
「ひゃっ……!?」
喋った!? 猫だよね、これ、どう見ても猫だよね!?
あまりの驚きに、私は思わずベッドの上に飛び起き、そのまま布団を引きずるように後ずさった。
トン、と。
「わっ……!」
慌てて後ろへ下がった私の肩に、誰かの手がふわりと触れた。
心臓が跳ね上がりながら恐る恐る上を見上げると、そこには艶やかな黒髪を綺麗にまとめた、凛とした美人のメイドさんが立っていた。
「花嫁様、おはようございます。私はフィオナといいます。今日からルチア様にお仕えすることになりました。どうぞよろしくお願い致します」
彼女は乱れのない完璧な背筋で、スッと優雅なお辞儀をしてみせた。
見知らぬ部屋、喋る白い猫、そして魔王城のメイドさん。それが私の魔王城での初めての朝だった。
「何かもう、よく分からないけど……お風呂、入りたい……」
昨日の今日で目まぐるしく変わった状況に頭が追いつかない中、ただ村祭りからずっと同じ服のままだし、昨日緊張で汗をかいたせいで体中が何だかベタついている。
はぁ、と盛大なため息を吐き出しながら、私はふかふかのベッドの上にぐったりとうつ伏せに突っ伏した。
そんな私の情けない姿を、目の前でポカンと見つめる視線がある。
「ふふっ、ルチア様、承知しました。すぐ手配します」
フィオナが、上品に口元を押さえてくすくすと微笑んだ。
白い猫のシフォンが「お風呂ならすぐ準備できるよー?」と、のんびりした声で尻尾を揺らしている。
シフォンとのマイペースな様子を見て、なんだかなぁとルチアは遠い目をしながら小さくため息をついた。
フィオナに案内された浴室の扉を開けた瞬間、ルチアは思わず絶句した。
そこにあったのは、村の集会所が丸ごと入りそうなほど広大な大浴場だった。大理石で造られた床に、美しい彫刻が施された壁、そして湯気の中にぼんやりと浮かび上がる巨大な浴槽。
「え、これ……一人で使うの?」
最初はあまりのスケールにとまどい、気後れしてしまったルチアだったが、「さあ、どうぞ」とフィオナの容赦ない手が伸びてきた。
観念する間もなく、フィオナはルチアの服をテキパキと手際よく脱がせ、あっという間に素っ裸にしてしまうと、「奥様の肌は私が責任を持ってお守りします!」と言わんばかりの勢いで、ゴシゴシと体を洗い始めた。
他人に肌を洗われるなど生まれて初めてのことで、ルチアは恥ずかしさとくすぐったさで縮み上がったが、フィオナは「じっとしていてください」とガンとして譲る気配がない。
「あのさ、こんな大きなお風呂……私ひとりが使ってもいいの? 魔王様とかに怒られない?」
泡だらけになりながらおそるおそる尋ねると、フィオナは手を動かしながらきょとんとした顔で答えた。
「魔王様はこの場所を普段はお使いになりませんし、他に誰も使っている者はいません。むしろ、ホコリをかぶるよりルチア様に使っていただけたほうがお風呂場も喜ぶというものです」
もったいない。それがルチアが最初に浮かんだ言葉だった。魔王様はお風呂入らないのだろうか?あの顔を思い出して、そんなことを考えているうちに、フィオナの手際によってルチアの体は隅々まで完璧に洗い上げられた。すべての行程を終えたフィオナは、「ふふっ、完璧ですね」と、満足げで誇らしげな笑顔を浮かべる。
このメイド、見た目はクールなのに、意外と表情が豊かだな、とルチアはぼんやりと思った。
洗い終わった後、たっぷりの湯が張られた浴槽へと足を滑り込ませる。
ちゃぷん、と心地よいお風呂の音が響く。
朝風呂だ。
村にいた頃は、こんな贅沢な大浴槽に浸かる習慣なんてなかった。あるのは、わずかにためておいた貴重な水を水桶ですくい、手ぬぐいで体を拭くのがせいぜいだったからだ。
……あー、生き返る……
前世の記憶の片隅にある、日本の朝風呂の記憶がふわりと蘇る。朝から湯船にゆったりと浸かるというこの上ない贅沢に、昨日からの緊張でこわばっていたルチアの体も心も、少しずつ軽くなっていくのを感じた。
ぼんやりと思い起こすのは、昨日の祭りのこと。あの時は何もかもが必死で、エレーナを魔王になんて絶対に取られたくない一心だった。
自分の疼く唇に、そっと指先をあてる。
思い出されるのは、魔王の強引で、力強い口づけ。至近距離で見た赤い瞳と、端正な眉がどうしても、いつまでも頭から離れてくれない。
「あー……、もう私、いったい何を考えてるんだろ……」
パッと両手で自分の頬を叩き、思考を無理やり引き剥がす。
相手はあの魔王よ? どうにかしてこの魔王城から脱出する方法を考えないと。
でも。
もし私がここで逃げ出したら、村は、エレーナたちはどうなってしまうのだろう。そう考えた瞬間、胸の奥に不安が広がる。
「……うーん、考えても、答えはでないか。今はまだ分からないことだらけだし……」
これ以上ぐるぐると頭を悩ませても仕方ない。
考えれば考えるほど藪蛇だ。たっぷりと張られたお湯に体が沈んでいく。小さく息を吸い込んで「ぶくぶくぶく……」とお湯の中で唇を震わせ、頭にこべりつく雑念ごとすべてを湯気の中に溶かしていく。
ふと、隣に気配を感じて横を向くと、先ほどの白い猫、シフォンが、手足をピーンと伸ばした状態で、温泉の表面にぷかぷかと浮かんでいた。
「えっ、シフォン溺れてない!? 大丈夫!?」
「んー? 気持ちいいよー、ルチアもぷかぷかしてみたら?」
溺れているのか心配する私の言葉に反してのんびりとした声をあげるシフォンを見てホッとする。
そういえば声の感じからするとオスっぽいけど「あぁ、僕はただの猫じゃなくて精霊みたいなものだから、性別とかそういうのはないんだよー」と、シフォンは浮いたまま涼しい顔で答えた。
ルチアは「なんかもう……」と、湯気に煙る天井を見上げて小さく苦笑いを漏らすのだった。




